[{"data":1,"prerenderedAt":28},["ShallowReactive",2],{"metaeast_zhouyigaodaoyd_ja-gaodaoyiduan-04":3},{"slug":4,"archived":5,"date_created":6,"date_updated":7,"title":8,"seotitle":9,"seodescription":10,"htmlcode":11,"number":12,"content":13,"title1":14,"content1":15,"title2":16,"content2":17,"title3":18,"content3":19,"title4":20,"content4":21,"title5":22,"content5":23,"title6":24,"content6":25,"title7":26,"content7":26,"seo_keywords":27,"og_title":8,"og_description":10},"gaodaoyiduan-04",false,"2026-08-11T01:18:19.041Z","2026-07-04T14:35:11.000Z","山水蒙。蒙は、通る。私が幼い者を求めるのではなく、幼い者が私を求める。初めの占いには告げるが、再三、みだりに問えば告げない。正を守るのがよい。","高島易断 第4卦 山水蒙―卦辞原文と解卦―東方玄学庫","高島易断第4卦 山水蒙の解卦：卦辞「蒙は、亨る。われ童蒙を求めず、童蒙われを求む。初筮は告げ、再三すれば瀆れ、瀆れれば告げず。貞に利あり」。断辞と実占案例の詳しい解説を付す。","&#19907;",4,"蒙。通る。私が幼い者を求めるのではなく、幼い者が私を求める。初めの占いには告げるが、再三、みだりに問えば告げない。正を守るのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 04　山水蒙 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「蒙［28］」という字は、古い篆書では「艹」と覆う形と、「衆」の原字から成る。「艹」は草木が茂って暗いこと、覆う形は上から覆い隠す形を表し、「衆」の原字は三人を意味する。『国語』にも「三人を衆という」とある。民衆はまだ正しい道理の教えを受けておらず、知識も開けず、暗く明らかでない。まるで物が覆い隠されているような象であり、これが幼い者の「蒙」の意味である。この卦は内に坎の水、外に艮の山を持つ。山の下に水があり、水気が蒸気となって霧を生じ、山を暗くして見えなくするので、「蒙」と名づける。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 蒙は、亨る。童蒙が私を求めるのであって、私が童蒙を求めるのではない。初めの占い［29］には告げるが、再三尋ねるのは神意を汚すことであり、そのように汚せば告げない。貞を守るのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ▲　蒙の甲骨文 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「蒙は亨る」の「亨」は、屯の「元いに亨る」と同じである。蒙であることがそのまま亨るという意味ではない。蒙昧な者が先に悟った者を師とし、その聡明さを開けば、蒙昧な者も亨るという意味である。ゆえに「亨」という。「我」は師を指し、「童蒙」は弟子を指す。外卦の艮は少男なので、童蒙の象がある。童蒙が知恵を求めるなら、師を求めるのが最もよい。師を得たなら、真心を尽くして教えを請うべきである。『礼』には、こちらから出向いて教えるのは礼ではないとある。師には出向いて教える礼がないので、「私が童蒙を求めるのではなく、童蒙が私を求める」という。弟子が師を求めることは、筮竹で神意を求めることと同じだから、「初めの占いには告げる」という。「初め」とは発心のことで、誠一にして雑じりがない。その機に応じて告げれば、道は亨る。しかし「再三みだりに問う」に至れば私意が起こり、混じって純粋でなくなるので告げない。これは『少儀』の「神をみだりに扱ってはならない」という「みだり」と同じである。「告げない」とは、『詩経』の「我が亀はすでに疲れ、私に告げようとしない」という意味である。説卦伝には、艮は手であるとある。二爻から四爻までには互卦の震があり、震は草を表す。そこで手で筮竹を扱う象を取り、「初めの占い」の象とする。また六五には頤の口の互象があり、中を空しくして誠を込めて問う形である。「告げる」とは、九二の坎の舌が震の声に応じることである。「再三」とは三爻・四爻が頤の口の象をなすことをいう。何度もみだりに問えば、亨通と正を守る道をすべて失う。告げないことで教える側の道を正しく保ち、求める側も正しくあらざるを得ない。ゆえに「正を守るのがよい」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 彖伝にいう。山の下に険難がある。険難にあって止まるのが蒙である。蒙が亨るのは、亨る道によって行い、時に応じて中を得るからである。私が童蒙を求めるのではなく、童蒙が私を求めるのは、志が応じ合うからである。初めの占いには告げるのは、剛中による。再三みだりに問えば、蒙をみだりに扱うことになるので告げない。蒙を通して正を養うことは、聖人の功である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 屯の後に蒙が続く。山川の位置が定まり、万物が繁茂しても、なお蒙昧が初めて開き始めた段階である。卦象は、山の下に坎水の険がある形で、水が山上から下り、流れて坎となる。その初めは雨や水であり、どこから来たのかはわからない。艮は止まることなので「険にして止まる、蒙」という。坎は通じることなので、「蒙は亨る。亨る道によって行う」という。艮が止まれば陰気が閉じて固まり、暗くなる。坎が通じれば陽光が透って明るくなる。蒙から明が生じる象である。三爻から五爻までは坤となり、坤は大地を表す。二爻から四爻までは震となり、震は葦を表す。山の下の地に葦が生え、群生して茂る。これが蒙の象である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を人事に当てはめると、蒙昧で無知な象がある。人が幼くて知識がまだ開かないのを童蒙といい、学ばず道義を知らないのを困蒙という。六五の童蒙は柔順で中を得ており、生来の資質は本来美しい。ただ幼く無知なので、養うことが大切である。六四の困蒙は柔が重なり、気質がもともと暗く、しかも自ら励むことを知らない。発奮させることが必要なので、「山の下に険難があり、険難にあって止まる、蒙」という。九二は剛にして中を得、六五に応じる。六五が主で、九二がその蒙を開く。陽爻を師、陰爻を弟子とするので、師は二爻の陽に当たり、弟子の求めに応じて、「私が童蒙を求めるのではなく、童蒙が私を求め、志が応じ合う」という。弟子は五爻の陰に当たり、師の教えを求める。精を尽くして問いただすべきであり、「初めの占いには告げる」という。もし再三教えを請い、みだりで無礼なら、告げない。易の道理はこのようである。師の教えは神の道にも通じる。人が未来のことを問わざるを得ない時、神に尋ね、神が教える。それを「命を受けること響きのごとし」という。だから蒙に告げることも「初筮」といい、神と人、師と弟子は、誠をもって求めれば応じるが、慢心や軽率な態度には応じない。「再三みだりに問えば、みだりな蒙には告げない」というのは、蒙をみだりに扱うことである。したがって困蒙は聖人が啓発しようとする者、童蒙は聖人が正を養おうとする者である。正を養う道は外から何かを加えることではなく、生まれながらの天真を保つことにほかならない。人が天から生を受けた時、耳は自然に聡く、目は自然に明るく、親子には自然に恩愛があり、君臣には自然に義が行われる。すべて本来備わっている。人が赤子の心を失わなければ、親族を親しみ、年長者を敬い、天下は治まり平らかになる。また童蒙は人生の初めである。その時に養わなければ、後になって聖人のようになることを望んでも不可能である。これを「蒙をもって正を養うのは、聖人の功である」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を国家になぞらえると、上卦の政府は山の性質を帯び、高い地位にあって傲然とし、固くその場にとどまって動かず、奮い進む精神に乏しい。政務を怠り、下にいる民を顧みず、ただ剛力と重圧によって抑えつけようとする。下卦の人民は水の性質を帯び、水が低い方へ流れるように困難の中へ落ち込み、生活に苦しみ、教育の道を忘れ、国家とは何かも知らない。このため、屯と蒙の二卦はいずれも、まだ世が開けていない時代を示す。人民は安逸に暮らして教えを受けず、生きるために争い奪い、弱い者は強い者に食われ、自分のことだけを知って他人の存在を知らない。天下の人々は、知恵や知識がまだ開けていないうちは、善へ導けば教えが行き渡りやすい。しかし欲望が盛んになり、生まれながらの良心が濁ってしまえば、教えは行き渡りにくい。この時、政府は民を啓発して生業に就かせ、衣食が豊かになるのを待ってから、礼義を教えるべきである。この卦を得たなら、政府の施政はまだ適切でなく、国家の教育もまた方向を誤っていることが分かる。人心が激しく高ぶっているので、軽率な行動が起こらないとはいえない。政府が徳によって導き、礼によって整えても、下の者がなお従わないなら、政令と刑罰に訴え、打ち破って除くほかない。それもまた情勢上避けられないことである。だからこそ、上爻には「蒙を撃つ」という象がある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 蒙の時代には、君子も小人もみなその位を得ず、是非が逆転し、邪と正が混乱している。六四の一爻だけが正を得ているが、それでも世に容れられない。君子は小人に排斥され、世に受け入れられない。これが国家の蒙である。蒙の世の六五の君主は、陰柔で順良である。後日、聡明が大いに開ければ、必ず聖明の君となるであろう。ただまだ幼稚なので、その徳が天下に広がっていない。幸い九二の大賢がこれに応じている。朝廷の師傅として、君主の蒙を開く重任を担う者である。この爻は臣が君を求めるのではなく、君が臣を求めることをいう。太甲が伊尹を求め、成王が周公を求めたようなもので、「私が童蒙を求めるのではなく、童蒙が私を求める」という。これによって国家の蒙を治めるには、蒙昧な民を包容し、誘い、支え、導いて、教育の功を全うすべきである。それでも教えの利益を受け入れず、怠惰で放縦、改めることを知らない者がいるなら、初六の「刑を用いて人を戒めるのがよい」という戒めは、まことに深い。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を全体的に見ると、初六と上九は蒙を治める始めと終わりである。九二は衆蒙を啓発する任に当たり、六五は「童蒙」の主であり、六三は女子の蒙、六四は「困蒙」に陥った下愚の者である。したがって初六は蒙昧な民で、教えを受けることを知らず、民の業に励まないため困難に陥り、刑罰に処してその非を懲らしめるので、「蒙を発く。人を刑するに利あり」という。九二は師であり、柔順・良善・宏大・包容の徳を備え、衆蒙をよく受け入れ、正しく教え導く。また祖先の志を継ぎ、その業を守らせることができるので、「蒙を包む。吉」「子、家を克す」という。六三は性質が邪悪で、教導に従わないので、「女を娶るに用うるな」という。六四には頑固で強情、傲慢な性質がある。師の教えを聞かず、自ら苦境に陥るので、「困蒙。吝」という。六五はなお赤子のようで、天性は純正だが、知識はまだ開けていない。幼い身で君位にあるが、九二の師の教えによく従い、ついには広い識見を得る。これは聖人の蒙であり、いわゆる聡明・叡智を持ちながら、それを愚のように守る者である。ゆえに「童蒙。吉」という。上九は師の教えが正道を得ず、徳によって感化せず、刑罰で駆り立てるので、これは寇となる。ゆえに「蒙を撃つ。寇を為すに利あらず、寇を防ぐに利あり」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 『易』における六爻の意味は、初爻と上爻、三爻と四爻を対照させると、おのずから分かりやすい。たとえばこの卦では、初爻は刑を用い、上爻は兵を用いて撃つ。二爻の「蒙を包む」は五爻に応じ、五爻の「童蒙」は二爻に従う。三爻は二爻を見て身を誤り、四爻は二爻から遠いため利を失う。諸卦の例も、おおむねこのようである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 『大象伝』にいう。山の下から泉が湧き出るのが蒙である。君子はこれにならい、行いを果断にし、徳を養う。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 下卦の坎は水であるのに、ここでは水と言わず泉と言っている。『易』の通例では、水はおおむね険難の意味を取るため、その語を避け、初めて湧き出る泉に象を取ったのである。泉は山の下から湧き始め、細く清らかに流れ、塵に染まらない。それは幼子の性質のように、生まれながらの善を備え、勢いよく育つ力を持つ。そこでその意を取って蒙と名づけた。心に得たものを徳といい、事に現れたものを行という。山には生育の徳があり、泉には流れ行く姿がある。山が万物を生み育てることは限りなく、水が大地を行くときは険易を避けず、川に注ぎ、海に朝宗する。君子はこの象にならい、行いを果断にし、徳を養う。つまり、義としてなすべきことなら勇んで前進し、ためらい縮む弊を避ける。また心に得た道理は、ゆったりとよく養い、空虚な驕りや焦りの患いを持たない。世の人が実際の役に立てられないことを、考えることはできても行うことはできないと言うなら、この象に照らして反省すべきである。この卦では二爻から四爻までが震で、震は行動を表し、艮は果断を表す。また二爻から上爻までが頤で、頤は養うこと、すなわち育てることを表す。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 戦争について問う。『象伝』に「山の下から泉が湧く」とあるのは、潜んだ水であり、伏兵の象である。君子とは軍中の将帥をいう。「行いを果断にし徳を養う」とは、果は果敢、育は蓄え養うことで、鋭い勢いを蓄え、決然として進むべきことをいう。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売について問う。『象伝』の辞を考えると、鉱山を開削する事業であろう。果断に取り組めば吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 立身出世について問う。これは士が平素から徳行を抱き、深山に隠れ住む象である。「山の下から泉が湧く」とあるように、ついには世に出て用いられる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅について問う。宅の坐向は坎艮に当たると知れる。「山の下」とあるから、必ず山に近い。「泉が湧く」とあるから、その下から泉が流れ出ている。君子が住むなら、その家は必ず吉である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻について問う。坎の辰は子にあり、その上に女が当たる。『聖冷符』に「須女は嫁娶をつかさどる」とある。艮下兌上は咸となり、二気が互いに感じ応じるので、「女を取るに吉」という。「山の下から泉が湧く、蒙」とは、婚姻の始まりである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気について問う。艮は止、坎は険である。病勢は必ず熱邪が次第に内へ陥入するが、初爻が蒙を発き、邪気が外へ発すれば、心配はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　妊娠：男児が生まれる。","初六。蒙を発く。人を刑するに利あり。桎梏を脱がせる。進めば吝。","初六。蒙を発く。人を刑するに利あり。桎梏を脱がせる。進めば吝。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 『象伝』にいう。「人を刑するに利あり」とは、法を正すためである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 道理を理解せず、物事に通じない者を、みな蒙という。「蒙を発く」とは、蒙昧を啓発して明らかに理解させることである。「刑」とは、教えに背き法を犯す者を治める手段である。桎梏は刑具で、足につけるものを桎、手につけるものを梏という。「説」は脱することである。初爻は陰柔で中正を失い、六爻の最下にあって、坎の険の底に陥っている。暗く閉ざされた所に入り、明るい光が見えないような象である。「蒙を発く」とは、誘い導き、励ましたくないということではない。しかし教えに従わなければ、刑罰で整えざるを得ない。ひとたび悔悟すれば刑具を脱がせ、決して過酷にしない。そこに蒙を発く者の苦心が見えるので、「人を刑するに利あり、桎梏を脱がせる」という。古の聖人が民を治めるときは、教化によって風俗を導き、刑罰によって衆人を整えた。聖人は刑より徳を尊んだが、刑をまったく廃したこともない。按ずるに、艮は手、互卦の震は足である。手足が坎の険に交わるので、桎梏の象がある。また坎は通じること、艮は止まることを表す。通達できれば直ちに止むので、脱する象となる。もし法の執行が厳しすぎ、下の者がすでに過ちを改めたのに、上の者がなお厳しく責めれば、自ら改める道を妨げるだけでなく、刺激されて変事を起こすこともある。だから「進めば吝」という。蒙を治めるには、寛大すぎてもならず、急ぎすぎてもならない。刑によって戒め、改めれば解放する。これが「恩威をともに行い、寛と猛を調和させる」蒙を発く道である。刑を用いることは聖人の本意ではないが、国家が法を設けるのは、乱れたものを整えるためである。罪ある者が皆、網を逃れて去るなら、法を何のために用いるのか。刑法は大いに公正で正しく執行し、一人を罰することで万人に畏れを知らしめるものでなければならない。ゆえに「人を刑するに利あり、法を正すためである」という。この爻が変じると損となる。損の初九には「事を終えれば速やかに行けば咎なし。損をよく斟酌せよ」とある。その適切な度合いを量る意味が、ここに見える。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 戦争について問う。爻辞の「蒙を発く」とは、暴を討ち罪を正す軍であり、禹王が苗族を征討したようなものである。帰順すれば軍を解いて帰るので、「法を正すため」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売について問う。内卦の初めにあるので、初めて企てる事業である。坎は難を表し、爻辞に「蒙を発く」「刑を用いる」とあるから、商売には必ず障害があり、おそらく訴訟に及ぶ。道理にかなった決着を得たら直ちにやめるべきで、さらに究めようとすれば害がある恐れがある。ゆえに「進めば吝」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 立身出世について問う。栄誉を求めて進めば、かえって辱めを受ける恐れがある。自ら休止するのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 嫁入りについて問う。初爻は始めの位にあり、爻辞に「蒙を発く」とあるので、少年のころの婚約であろう。事変が多いので、婚約を解くのもよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。初爻は陰で陰位にあるので女児。また、出産が難しくなる恐れもある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】親族の田中平八氏が来て、その弟が放蕩しているため、悔悟させたいので、弟を私の家に預けようと思うと言った。筮して蒙が損に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じていう。蒙の卦象は、山が水気に蒸されてぼんやりし、明らかでない姿である。ゆえに蒙という。人についていえば、邪欲に覆われて事理が明らかでないことを表す。この弟は才能・知恵・胆力がすべて父親に似ているが、若いころに教えを受けなかったため、ついに遊惰な富家の子弟の習いを身につけ、苦労を知らない。そのため財貨を浪費し、悪人や偏った者と交わるのを好む。今しばらく私の家に住まわせるなら、まず世渡りの道を説き、外出を禁じ、以前の過ちを悔悟させるべきである。これもまた「蒙を発く。人を刑するに利あり」の意味である。兄は私に託したが、その母は溺愛せずにはいられず、私の教えが厳しすぎると恨む恐れがある。ことわざに「人は自分の子の悪を知る者なし」というが、まさにこのことである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n その後、果たして占いのとおりになった。一年教えたところ、利発な性質によってついに後悔の念を生じ、後には立派な人になる見込みが立った。","九二。蒙を包むは吉。婦を納るるは吉。子、家を克くす。","九二。蒙を包むは吉。婦を納るるは吉。子、家を克くす。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 『象伝』にいう。「子、家を克くす」とは、剛と柔が交わることである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「包む」とは包容することである。「蒙を包む」とは、衆蒙を包容してその主となること。「婦を納るる」とは、衆陰を受け入れて婦とすること。「蒙を包む」は度量が包容できることをいい、「婦を納るる」は志が相通じることをいい、「子、家を克くす」は下位にありながら事を任せられることをいう。ゆえにいずれも吉とする。二爻は陽をもって陰位に居る。剛明の才と中和の徳を備え、蒙を啓く任を担う。寛厳を適切に調え、方法をもって教導できるので、君主の蒙を教える師となる。蒙卦には陽爻が二つしかなく、他はすべて陰である。上九の陽は剛に過ぎ、「蒙を撃つ」に至る。ただ九二の陽だけが中を得ているので、「蒙を包む」ことができる。また二爻の位は臣であり、子でもある。臣としては、柔中の君である六五と陰陽相応じるため、内では同僚に喜んで服せられ、外では衆人が帰服する。婦人の性質は柔らかく暗く理解しがたいとしても、柔をもって受け入れれば親睦を得られる。だから「蒙を包むは吉、婦を納るるは吉」という。子としては、六五の父に仕え、衆陰である弟妹を統率して家道を修め整える。ゆえに「子、家を克くす」という。子が家を治めれば家運は日々盛んになり、父の信任も厚くなる。臣が教化を広めれば民の徳は日々新たになり、君の信任も厚くなる。『象伝』の「剛柔接す」とは、上下が徳を合わせることにほかならない。『象伝』の意では、二を臣とすれば五は君、二を子とすれば五は父であり、事は異なっても義は一つである。剛は九二、柔は六五を指す。九二と六五は陰陽相応じ、剛中の子が柔中の父を継いで家道を治めるので、「子、家を克くす。剛柔接す」という。陽剛が陰柔を愛するので「婦を納るる」象があり、下位にいて上の事を担えるので「子、家を克くす」象がある。互卦は震で、震は長男を表し、祭器を主宰して家を成す象がある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 戦争について問う。二爻は陽をもって陰位に居て、爻辞に「蒙を包む」とあるので、衆陰を包み込む象がある。『象伝』の「剛柔接す」は、剛柔が二軍であり、「接す」は接戦すること、「家を克くす」は敵に克つという意味である。占例では婦は財、子は福を表す。敵軍に勝ち、その財を納め、さらにその福を受けるので、大吉である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売について問う。上下の二陽が三陰を包み、一陽が内、一陽が外にあるので、財物を包み集めて他国へ運び売る象がある。ゆえに「蒙を包むは吉」という。「婦を納るる」とは、きっと旅先で妻を迎えることで、妻も子もできる。「家を克くす」とは、子が父の業を継ぐことをいう。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 立身出世について問う。本人ではなく、その子にあると思われる。ゆえに「子、家を克くす」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅について問う。「蒙を包む」は艮が坎を包むので、山がめぐり水が抱く土地である。「婦を納るる」「家を克くす」とあるので、家には必ず良妻賢子があり、家業を盛んにする。吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻について問う。爻辞には吉が二つあり、明らかに妻も子もできるという。これ以上の吉はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。男子が生まれ、富貴を得る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】友人の薬師寺氏が来て、次のように語った。私は若いころから努力し、長年にわたって仕事に励み、次第に家産を築いてきました。しかし不幸にも子がないため、親族の子を養子にして家産を託しました。そのため親族一同は、皆その子を私の後継者にしようと考え、熱心に力を貸し、それぞれに生業を立て、一家を営めるよう助けています。ところが彼らの多くは世渡りの苦労を知らず、私の家産が心を焦がし力を尽くした末に得たもので、決して容易なものではないことを考えません。しかも一族の間には互いに不和を抱き、かなり嫉妬も生じています。私の言うことには、皆表面上は従うものの、陰ではことごとく背いています。私が死んだ後、親族同士が必ず敵視し合うに至るのではないかと恐れ、心安らぎません。どのように対処すればよいでしょうか。そこで一筮を請いました。占うと、蒙が剝に変じました。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じていう。人は幼稚な時、まず師を求めて学び、道義を教えて聡明を開かせるべきである。成長すれば、おのずから事業を興し家を立て、家道を成し遂げられる。もし捨てて教えなければ、その咎を子弟に負わせることはできない。ことわざに「養いて教えざれば父の過ち、教えて厳しからざれば師の怠り」という。戒めとすべきである。しかし教える道には厳しさも寛大さもある。厳しくすれば怨みを招くので、寛大にして恩を施すほうがよい。ゆえに「蒙を包むは吉」という。またこの卦の上互卦は坤で、坤は母、下互卦は震で、震は子である。震の子を教え、坤の母も合わせて受け入れる象なので吉である。子が成長して家を克くすれば、教えた者の苦心に背かない。あなたは知識が活発で、努力して家を興し、財を分けて親族を養育し、それぞれが業に就き、祖先の仕事を継げるようにしている。その情はまことに篤い。しかし親族皆があなたと同じように奮励し経営することを望むのは、少し望みが過ぎる。親族にはあなたの才も運もなく、無理に同じようにさせるのは難しい。今この爻を占うと、明らかに「蒙を包む」と示している。あなたに、ただ包容を度量とし、細かく責め立てるなと勧めているのである。人の親族で父子兄弟ほど近いものはないが、父子兄弟の間でさえ性情が異なることは多い。父はすべての子を賢い子にできず、兄はすべての弟をよい弟にできない。まして親族ならなおさらである。ただ一人一人を包容して遇すれば、明らかな者は必ず恩を知り、明らかでない者も感化されて自ら変わる。そうすれば互いに憂いなく過ごせる。","六三。この女を娶るな［30］。金ある男を見て、身を失う。利するところなし。","六三。この女を娶るな［30］。金ある男を見て、身を失う。利するところなし。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 『象伝』にいう。「女を取るな」とは、その行いが順当でないからである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「金夫」とは、夫という意味である。金は陽爻の称で、剛く堅い意を取り、九二を指す。九二は童蒙を包容するので、富の象がある。「金夫」と称するのは、上九の正応である夫と区別するためである。三爻は陰柔で中正を得ず、暗く蒙昧で、坎の険の極みにいる。貞を守って時を待つことができず、求めてもやめず、欲望のままに選ばず、その行いは偏り、事は曖昧である。九二が童蒙の帰するところとなり、時運に恵まれているのを見ると、上九という正応の夫を捨て、近くで比する九二に従おうとする。行いが正しくなく、自分を保てないので、この欲の多い女を娶っても何の利益もない。そこで「金夫を見て、その身を有せず、何の利もないから、女を娶ってはならない」という。艮の山は止まって動かず、坎の水は流れて止まらない。ここに「その身を有せず」という象が見える。また坎は盗を表す。この爻が変じれば巽となり、巽は近利を表す。人が金を持っているのを見ると、節を破り名を損ない、もはや自分の身を顧みなくなる。この爻がさらに変じて蠱となるのは、巽の長女が艮の少男に従う、惑乱の象である。爻辞は女と夫について述べているが、たとえでもある。陰柔で欲の多い者は、皆これに類推できる。九二には剛中の徳があるので、六三と結んで不義を行うことはない。中正を得ない六三が一方的に九二に近づこうとするのである。ゆえに爻辞を六三に付し、罪が六三にあることを示している。象伝の意味は、陽が唱え、陰が和し、男が進み、女が従うのが順ということだ。女から男を求めるのはすでに道理に背く。まして正応の夫を捨て、近い金夫に従うのはなおさらである。ゆえに「女を娶ってはならない。行いが順でないからである」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 戦争について問う。爻辞は「女を娶るな」という。女は陰の象で、占書では女爻を財とし、金もまた財である。軍を動かすには財を散じて人々を受け入れるべきで、財を蓄えて恨みを買ってはならない。財物を略奪すれば、必ず軍は敗れ、身を滅ぼす。「用うるな」とは、深い戒めである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売について問う。六三は陽位に陰で居るので、内は陰、外は陽であり、必ず外へ出て商売する象である。商人が最も戒めるべきは色を貪ること。男は女の色に恋着し、女は男の財を狙う。ひとたび詐欺に入れば、小さければ財を失い、大きければ身を傷つける。象伝は「行いが順でない」という。「順」と「慎」は音が通じ、意味も近い。慎まないでよいはずがあろうか。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅について問う。爻辞を味わえば、「雌鶏が朝を司れば、家は衰える」という戒めを深く心に留めるべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 功名について問う。婦道は臣道に通じる。財を見て義を忘れれば、必ず名声を損なう。女が貞でないのは、臣が忠でないのと同じである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　妊娠：男児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】ある高位の人物が、維新前に脱藩し、諸藩の浪士たちと交わって大義を唱え、東西を奔走した。たまたま郷里に帰ると、藩吏に忌まれるようになった。親族の多くも離散し、妻や娘からもよく扱われなかった。まるで蘇秦が帰郷したとき、衣は破れ金は尽き、妻は機から下りず、嫂は炊事をしなかった時のようであった。その後、維新の世となって仕官し、顕職に昇り、東京に邸宅を設けて一族を呼び寄せた。しかし、糟糠の妻は性質が素朴で田舎風、容貌や立ち居振る舞いも気に入らないことが多かった。さらに、以前自分を疎かにした恨みもあって、ついに妻を去らせ、外に一人の女を囲い、情愛が最も深くなったので妻に迎えようとした。ある日やって来て、「私は妻を娶ろうと思う。その良し悪しを占ってほしい」と言った。筮すると、蒙が蠱に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じて曰く。蒙とは、物が蒙昧でまだ発達していないことをいい、幼稚の意である。ただし童蒙だけを指すのではない。人として道義の教えを受けていない者は、皆これを蒙という。今、あなたは情婦を娶ろうとしてこの爻を得た。爻辞に「金夫を見て、その身を有せず」とある。この女には必ず淫行があり、おそらく芸妓の女であろう。「金夫」とは、金でその身を贖おうとしている者という意味である。品格が正しくなく、末永く仲睦まじくするのは難しいと思われる。この女は一時の振る舞いであなたの心を引き、あなたは娶ろうとしている。しかし、もし娶れば、後に別の葛藤が生じ、いつまでも係累が絶えず、必ず後悔する。あなたの家は名門で、昔から清白を守ってきた。芸妓を娶れば、家中の人々の意にかなわないだろう。またその女が一時は我慢して家の規律を守っても、末永く守り続けられるとは限らない。あなたが去らせなくても、やがて彼女の方から家を出て別れを求めることになるだろう。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n その人は私の言葉を用いず、彼女を妻に迎えたが、後果は果たしてこの占断のとおりになった。","六四。蒙に困しむ。吝。","六四。蒙に困しむ。吝。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝はいう。蒙に困しむ吝とは、ただ独り実より遠きなり。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 四爻は陰位に陰で居り、その位は中正を得ない。艮の下の山の麓のように、固く動かず、頑固で善に移ることを知らないことを表す。近くに六五の君がいるが、才能は乏しく任は重い。助け導く賢者もいないので苦しみに耐えられず、ついには卑しく吝な行いをする。これが「困って学ばなければ、民は下となる」という意味である。艮の少男は柔弱で中を得ず、暗く蒙昧でまだ開かず、小人の群れと交わる。これは自ら困しむのである。上には艮山があって進めず、下には坎険があって退けない。応も比も皆陰で、剛明な親しい援助者がいない。近づいてくる者も皆、陰柔で正しくない徒である。そのため聡明は発することができず、暗昧は開く由がない。だから何をしても困難であり、「蒙に困しむ、吝」という。塞がって通じないことを困といい、受け入れて外へ出さないことを吝という。困は病人が医者を嫌うようなもの、吝は過ちを師に隠すようなものである。このような者は、道理にかなった教えを受けても従うことができず、その吝は甚だしい。象伝の意味は、初爻は剛なる九二と比し、三爻は剛なる上九に応じ、また九二と比し、五爻は九二に応じ、上九と比するということだ。それぞれ陽剛の応比をもち、賢師良友の指導を得る。ただこの爻だけが三つの陰爻の中に陥り、剛実の師友を得られない。ゆえに「蒙に困しむ吝とは、ただ独り実より遠きなり」という。「独り」とは助けがないということ、陽は生を主るので実と称する。「実より遠い」とは、自ら道から遠ざかるという意味である。人が道から遠ざかるのは、孟子のいう自らを捨てる者である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 戦争について問う。行軍では深く入り、明らかに出るのがよい。「蒙に困しむ」とは、陰険な地に入り、出られないことだから困るのである。困窮を救えるのは初爻の陽だが、六四と初爻の間には二爻がある。陽は実なので「実より遠い」という。救援軍が遠く、及ばないことが分かる。凶。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売について問う。商売の道は亨るのがよく、困するのはよくない。通じるのがよく、吝なのはよくない。「実」は資本であり、「実より遠い」とは資本を損なうことである。蒙に困しむ吝とは、商売の道が尽きることである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 時運について問う。「蒙」は暗昧、「困」は厄窮である。蒙にして困すれば、ついには困窮する。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅について問う。爻辞から見れば、家業は困苦し、住居もまた人里離れた寂しい場所である。象伝に「独り実より遠し」とあるので、孤村で隣家も乏しいに違いない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 六甲について問う。女児が生まれる。この女児はきっと兄弟姉妹が少ないので、「独り」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】烏尾得庵居士は、私が以前から敬い信頼していた人物である。明治二十三年十二月、古庄嘉門氏ら数人と私を訪ねて来て、「来年は国会開設の時期なので、私たちは一つの主義を立て、これを唱導したい。その気運がどうなるか占ってほしい」と言った。筮すると、蒙が未済に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じて曰く。この卦は、山の前で水気が蒸発し、朦朧として明らかでない象である。易には屯・困・蹇・坎という四つの難卦があり、これに当たる者は容易に危険を脱することができない。しかし蒙はそうではない。坎の険に陥っても、その爻の居るところによっては、知識のある者なら自ら危険を免れることができる。今、四爻について見ると、承・乗・応が皆陰柔で、私たちを助ける力がない。人にたとえれば、蒙を開いてくれる賢師良友が得られない時である。ゆえに「蒙に困しむ、吝」という。君は学問が古今に通じ、文武の才を兼ね備えている。唱導しようとする主義は天下の公道であり、卓越した見識と豪胆な胆力もある。理屈の上では天下に敵なしというほどである。しかし蒙卦を得た今、天下の人々は皆童蒙のようで、是非邪正をわきまえない。暗夜に鳥の雌雄を見分けられないようなものだ。だから君が中正の道理を説いても、結局その悟りを開かせることができない。「蒙に困しむ」とは、その効果がないということだ。ただしこの一年を過ぎ、五爻の「童蒙吉」の時に至れば、下に九二の陽爻が応じ、助け導く力を得て、自然に大いに志を遂げることができよう。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 後に果たしてこの占いのとおりになった。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十七年冬至、二十八年の貴族院院議について占い、筮すると蒙が未済に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断に曰く。この卦は、山の下に水がある象である。水は山上から流れ下り、前途がどこへ向かうのか分からない。人もまた同じである。したがって、賢哲の士であってもこの卦を得れば、生来の知識が事物に遮られ、言行が蒙昧となる時である。今これを貴族院について見るなら、自らの蒙昧に気づかず国事を憂えるのは、全体の姿を見られない盲人が、その形だけを評するようなものであり、「困蒙の吝、独り実に遠ざかる」といわれる。来年、院議が開かれないことについての占である。","六五。童蒙。吉。","六五。童蒙。吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝に曰く。童蒙の吉とは、順にしてもって巽うなり。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 五爻は陰爻で陽位に居り、柔順謙虚で、下の九二に応じている。艮の少男にあたり、柔中の徳を得て尊位に居るので、幼い君主が下を治める象である。九二は賢臣で、剛中の徳を備え、六五の君を輔佐することができる。幼い君主が自らの年少を知り、政を賢相に委ね、無為にして治める。周公に対する成王のようなものである。君主が威権を振りかざさず、己を捨てて人に従い、賢者を一心に任用するなら、「童蒙」が賢師を得て専心して教えを受けるようなものである。だから「童蒙、吉」という。象伝の意味は、君主は尊貴で富裕な環境に生まれ育つため、世に処する困難を知らず、しばしば忠言を退け、徳の高い長老を遠ざけ、その結果、国家を敗乱させることを免れないということである。ここでは六五が九二に順うので、「童蒙の吉、順にしてもって巽うなり」という。互卦は坤で、坤は順を表し、変ずれば巽となる。「順」と「巽」の二字はここから出ている。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 易では、九が五に居り、六が二に居る場合は、その位に当たっていても、辞は困難を示すことが多い。六が五に居り、九が二に居る場合は、その位に当たっていなくても、辞は吉を示すことが多い。君主は剛健を体とし、虚中を用とするのが貴く、臣下は柔順を体とし、剛中を用とするのが貴いからである。こうして上下が交わり、その志が一つになる。これが卦に通じる一般例である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 戦争について問う。五爻の互卦は坤。辰は未で、井宿に当たる。弧矢九星は井の東南にあり、反乱を討つことを主る。また東は子孫星で、「童蒙」とは子弟を率いて従軍する意である。ゆえに吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売について問う。五爻は卦の主で、爻辞に「童蒙」とあるから、店主はまだ幼少であろう。五は二に応じる。正義には「物を能に委ぬ」とあり、仕事を能力ある者に委ねることで、二爻に委ねるのである。五爻の店主は自ら年少であることを知り、二爻に従って番頭とする。ゆえに「童蒙、吉」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 功名について問う。年は「童蒙」にあり、功はまだ成らず、名もまだ立たない。ただ二爻の師の教えに順って聞き従えば、成就は計り知れない。ゆえに「吉」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻について問う。蒙の上体は艮。艮は少男を表すので、幼少のころに縁組みを定める。ゆえに「童蒙、吉」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　妊娠：男児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】友人の福原実君がある日訪ねて来て、沖縄県知事への栄転が決まったので、前途の吉凶を占ってほしいと頼んだ。筮して蒙より渙を得た。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断に曰く。この卦は事物の道理がまだ明らかでない、蒙昧で幼稚な象であるから、蒙と称する。この卦では陽爻を師、陰爻を弟子とする。今、六五は陰で陽に応じ、中正の位を得ている。これは、童蒙の生まれつきの性質が美しく、私欲がまったくないようなものであるから吉である。あなたの性質が温厚で沈着実直であることは、私の知るところである。赴任後、僚属に接するときは、磊落で率直に、私心を抱かず、度量を広くし、虚心に人の言を聞くべきである。そうすれば上下は自然に心を一つにし、互いに相和し、公私ともに利益がある。蒙卦から見れば、初めてその任に就けば、土地の風俗や人情については、どうしても蒙昧で知らないことがある。属官の中から事務に通じた者を選んで任せ、その明智を借りて自分の蒙を啓くことが肝要である。この占は、実にあなたの性質に合っている。あなたが事の道理を体得し、県務に取り組むことができれば、後には必ず実功を奏するであろう。これが「童蒙、吉」という理由である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十七年冬至、翌年の衆議院の形勢を占い、筮して蒙より渙を得た。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断に曰く。蒙とは山の下に水がある象で、人にあっては知識が明らかでなく、事の道理の向かうところを知らないことである。先に衆議院は政費を節約し、毎年これを減らすことを発議したが、政府の動きがどうなるかを詳しく考えず、各国の情勢にも注意を払わなかった。この議論が盛んに起こると、政府は財費不足を大いに憂えた。その後、にわかに清国征討の勅命があり、そこで議員たちは皆、青天の霹靂のように感じた。広島に集まって議し、一日を終えないうちに公債一億円募集の議案を決定した。これを「発蒙」という。蒙とは愚かという意味ではなく、幼くて知識がまだ開けていないことをいう。だから「童蒙」という。今、五爻を得たので、「童蒙が教えを受け、聡明を啓く」という意味がある。ゆえに来年の院議についての占である。","上九。蒙を撃つ。寇をなすには利あらず。寇を防ぐには利あり。","上九。蒙を撃つ。寇をなすには利あらず。寇を防ぐには利あり。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝に曰く。寇を防ぐに利あるは、上下順うなり。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「蒙を撃つ」とは、「蒙を包む」ことができないので、杖を教戒の刑具として用い、怒ってこれを打って追い出すことをいう。この卦は陰爻四つ、陽爻二つから成り、四つの陰爻はみな蒙昧であるのに対し、二つの陽爻はいずれも、蒙を撃つに足る剛明の才徳を備えている。九二には剛中の徳があり、教え導くにも節度があって、寛厳よろしきを得ている。その蒙に対してはこれを包むことができ、いわゆる「これを董し、用いて勧む」ということである。ところがこの爻は、陽をもって陰位に居り、剛が極まって中を失っている。その蒙に対しては、これを撃つのであり、いわゆる「これを戒め、用いて威す」ということである。この「撃」という字は、「蒙を包む」の「包」や「蒙を発く」の「発」に比べて、凌駕するほど鋭く厳しい意味であることは、言うまでもない。しかし、重ねて蒙昧で教えに従わず、初めに発いても感ぜず、次に包んでも悟らないとなれば、教えの手段もほとんど尽きてしまう。上九もまた、勢い上やむを得ずそうするのである。だが、撃つことがあまりに過ぎれば、凶暴に過ぎることを免れず、撃つ者がかえって寇となる。だから「寇となるのはよくない」というのである。しかし、その蒙が頑迷で心が通じないからといって、ひたすら寛容にして威をもって戒めなければ、蒙が極まって寇に流れる恐れがある。寛大にすることが、かえって害となるのである。撃つ者が蒙を治めるのに厳しいのは、まさに寇となるのを防ぐためである。ゆえに「寇を防ぐのによい」という。自ら「寇となる」とは、寇が自分の内にあることをいい、「寇を防ぐ」とは、寇が相手側にあることをいう。艮は手であり、撃つ象である。坎は盗賊であり、寇の象である。艮が上で止まるのは、寇を防ぐ象である。上九は三爻に応じるが、六三の行いは順当でないので、寇であって婚媾ではない。ゆえにこれを防ぐのがよいのである。この爻が変ずれば師となり、師にもまた撃つ象があり、寇の象となる。象伝の意味は、この卦には剛明の徳があり、六五のそばにあってこれを輔翼し、六三に応じて教え導くということである。しかも上九から六三まで、その応比の間に陽爻の障害が一つもない。これは柔順の極みであるから、「寇を防ぐのによい。上下が順う」というのである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 戦争について占う：上辰は戌にあり、上には奎が配される。奎は武器庫をつかさどり、禁令は時を誤ってはならない。ゆえに「寇を防ぐのによい」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売について占う：商売はすべて機を利用することにかかり、また順調に得ることが大切である。逆らって取れば寇となり、順に取れば寇を防ぐことになる。「上下」とは売り手と買い手の双方をいう。売買が和合すれば上下が順う。吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻について占う：「蒙を撃つ」を馬融・鄭玄は「蒙を繋ぐ」と解しており、月下老人が赤い糸で足を結ぶという意味にちょうど合う。屯卦では二度、「寇ではなく婚媾である」と述べる。これは、良縁なら婚姻となり、悪縁なら仇となるということだ。「寇を防ぐのによい」とある以上、必ず良縁である。婦道は順うことを尊ぶ。象伝に「上下が順う」とあるので、家庭は必ず平和である。吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 六甲について占う：男児が生まれる。この男児は幼少のころ、必ず厳しく教えるのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十七年の冬至、二十八年のわが国と英国との交際について占い、蒙が師に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断に曰く：この卦は山の下に霞がかかり、遠くを見通せない朦朧たる象である。ゆえにこの卦を蒙と名づける。この卦を得た人は、相手との情が通じず、どうすればよいか分からないことを示す。国家間の交際も同じである。知識や理解がまだ明らかでない者を「重蒙」という。この卦の各爻には、蒙を教える意味がある。陽爻は師、陰爻は弟子を表す。上爻は陽でありながら中を失い、扱いが激しすぎて情義に薄く、ついにはかえって怨みを招く恐れがある。だから「蒙を撃つ。寇となるのはよくなく、寇を防ぐのがよい」という。今この卦を得たので、わが国を純良な弟子、英国を傲慢な師になぞらえる。わが国が清国との戦争に勝利したため、英国はこれによって嫉妬の念を起こしたのである。幸い上爻は無位の地にあるから、心を労する必要はない。これを師と見なさず、ただ敬して遠ざけ、温和な言葉と寛容さによって交誼を厚くすればよい。相手に干渉の動きがあっても、婉曲に断り、寇を結んではならない。これが「寇となるのはよくなく、寇を防ぐのがよい」という意味である。",null,"周易、易経、高島易断、第4卦、山水蒙、六十四卦、卦辞、爻辞、占断",1787044936152]