[{"data":1,"prerenderedAt":28},["ShallowReactive",2],{"metaeast_zhouyigaodaoyd_ja-gaodaoyiduan-13":3},{"slug":4,"archived":5,"date_created":6,"date_updated":7,"title":8,"seotitle":9,"seodescription":10,"htmlcode":11,"number":12,"content":13,"title1":14,"content1":15,"title2":16,"content2":17,"title3":18,"content3":19,"title4":20,"content4":21,"title5":22,"content5":23,"title6":24,"content6":25,"title7":26,"content7":26,"seo_keywords":27,"og_title":8,"og_description":10},"gaodaoyiduan-13",false,"2026-08-11T01:18:20.762Z","2026-07-04T14:35:12.000Z","天火同人。同人は野においてすれば、通る。大川を渡るによろしい。君子の貞に利あり。","高島易断 第13卦 天火同人――卦辞原文と卦の解説――東方玄学庫","高島易断第13卦・天火同人の解説：卦辞「同人。野において人と同じくす。亨る。大川を渡るによろし。君子の貞によろし」を掲げ、断辞と実占例を詳しく解説。","&#19916;",13,"13　天火同人 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 同人の卦は、下が離、上が乾である。ゆえに合わせて「同」の字となり、光明が上に達してあまねく照らす象を示す。乾は天、離は火である。天の気は上昇し、火の性も燃え上がって天と同じなので、同人となる。卦の順序から見ると、同人は否を受ける。天地が通じないのが否であり、上下が同じ心になるのが同人である。否と反対で、しかも否を救うに足りる。道を同じくする者が相交わることで、否を救うことができるので、この卦が否の次に置かれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 同人［69］：野において人々が心を同じくすれば［70］、通る。大川を渡るのによく、君子が正しさを守るのによい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 同人の道は、広く遠く、隔てがなく、内外を一つにすることにある。これを大同という。「野」は広い野原で、遠くと外の意を取る。「野において」とは、上に天、下に地があり、空間が広く果てしなく、私心を容れる余地がないことをいう。そうなれば物はすべて応じ、人はすべて助けるので、「通る」という。心に私欲がなければ、地上に険阻はなく、どこへ行っても不利はない。大川でさえ渡ることができる。しかし同にも公私の別がある。自分に合う者だけを同じくし、合わない者を異なるものとするのは小人の党であって、真の同人ではない。必ず公正無私で、天の心と一体でなければならない。そうすれば千里の遠く、千年の後であっても、志はことごとく通じ、道はことごとく同じになる。ゆえに「君子の貞に利あり」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 『象伝』にいう。同人とは、柔が位を得、中を得て、乾に応じることである。これを同人という。『同人』に「野において同人すれば、通る。大川を渡るによろしい」とあるのは、乾の働きである。文明にして健やか、中正で応じるのが君子の正しさである。君子だけが天下の志を通じさせることができる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 『彖伝』は卦体によって卦の意味を解釈する。柔とは六二をいい、乾とは九五をいう。六二は柔をもって柔位に居り、位を得、中を得て九五に応じるので、「乾に応じる」という。乾は健である。健やかに進むことができれば険を救うに足りるので、「大川を渡るによろしい。乾の行いである」という。「文明」は離の象、「剛健」は乾の徳である。二と五はともに中正で、互いに応じることができる。これが君子の道なので、「君子の正しさ」という。君子の心は公である。公であれば天下がこれに感じ、君子の道は正しい。正しければ天下がこれに化する。遠近が一体となり、上下が同じ徳を持てば、天下の志はすべて通じる。君子だけがこれをなし得るので、「惟君子為能通天下之志」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を人事に当てはめてみると、全卦は陽五爻・陰一爻であり、六二は陰爻で陰位に居て、中正を得、内卦の主となり、上は九五に正応している。全卦の象は、まさに一人の女が五人の男の中にいるようなものである。一女が五男に対しても、寛裕温柔で、周遍して偏私せず、多くの陽爻は和らぎ喜び、心と志を同じくして、天下の志が皆通じる。「同人は、柔が位を得、中を得て乾に応ず」とは、九五に応ずるとは言わず、乾に応ずると言っている。ここから、ただ九五一爻だけに応ずるのではなく、あまねく諸陽に応ずることが分かる。これが「天下の志を通ずることができる」という意味である。天下の事は、一人で成し遂げようとすれば難しく、人と共に成し遂げれば易しい。しかし人と交わる道には公と私があり、公なら道が合し、私なら道が離れる。私によって同じくする者の道は小さく、公によって同じくする者の道は大きい。たとえば平原を見渡せば、果てしなく、隠れる所が全くない。これが「野において人と同じくする」象である。内卦の離は明と智を表し、外卦の乾は正と健を表す。人が離の明と離の智を得て、乾の正と健に応じ、それによって事を謀れば、利あらざることはない。それによって険難に臨めば、どのような険難も渡ることができる。それによって天下の人と交われば、天下の人の志は皆通じる。これは天下を率いて大同に至ることである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を国家に当てはめると、上卦は君主を表し、至剛至健、威権赫々たる卦中の九五である。下卦は臣下を表し、位を得て中を得、文明の象を備えた卦中の六二である。二と五は正応であり、君臣が志を合わせる、まさに明君と賢臣が出会う時である。同人卦は否卦の後に置かれる。否では「天地交わらず、万物通ぜず」、その要は「天下の志を通ずる」ことができない点にある。ただ同人だけがこれを可能にする。通ずれば泰となる。国家が否を済ませ、泰を開く道は、実に同人の力に頼るのである。序卦伝には「物は終に否なるべからず、故にこれを受くるに同人をもってす」とある。天地が交わらないのが否であり、上下が相通じるのが同人だと分かる。したがって国家を治める者は、君主がその位を得るだけでなく、剛の中を得、臣もその位を得るだけでなく、柔の中を得ることが望ましい。そうすれば剛柔が相応じ、上下が志を合わせ、大川の険も渡ることができ、天下の志も通じる。しかも六二の臣は、上に九五へ応ずるだけでなく、初・三・四・上の諸陽とも必ず親和し、一心一徳、同じ朝廷で力を合わせて国を救うべきである。離の明を体し、乾の行いに倣い、至正をもって行い、偏私に陥らなければ、天下の人は正しいものに感じて通じ、正しくない者も感化されて通じる。どこへ行って通じないことがあろうか。いや、どこへ行って同人でないことがあろうか。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を総覧すると、上卦は乾、下卦は離である。離はもと乾であり、坤が中央で乾と交わって離を生じ、その象は火となる。乾はもと元陽であり、火は陽の真気で乾と同体だから、同と言う。天が人を生じるとき、耳は同じように聞き、目は同じように見、口は同じように味わい、心は同じように感じる。一人が正しいと思うことを万人も正しいと思い、一人が誤りと思うことを万人も誤りと思う。親しい者を共に愛し、年長者を共に敬う。人はどれほど愚かでも、この心と志においては異なるところがない。だから孟子は「聖人とは、まず私たちの心が共に正しいと認めるものを得た人である」「天が私に与えたものは、他の人に与えたものと異ならない」と言った。公であれば同じでないものはないが、ひとたび私欲が交じると、離から外れて偏屈となり、再び同じになることができない。しかし、人に本来備わる善良な心は、ついに曇らせることができない。天が私に与え、曇らせることのできないものが離であり、異ならせることのできないものが乾である。ゆえに人が離の明を備え、乾の健を行い、公明正大で私心がなければ、自然に物事は通じる。険阻は平地に変わり、大川を渡っても不利はない。これが同人が亨る理由である。諸爻を見ると、同の象を示すものはない。凡人が意識して同じになろうとすれば、そこには私が入り、私があれば同じではなくなるからである。真の同は、同だと言わず、おのずから同じになる。初九の「門において」とは、外へ出れば私的な執着がないということなので、「咎なし」となる。六二の「宗において」は、中正ではあるが、宗族の私に関わるため惜しむべきである。九三は剛強で二と五の間に居て、無理に同じになろうとする。三年伏して、ついに立ち上がることを敢えてしない。恐れを知るので凶ではない。九四は五に近く、ただ池を隔てたようなものだが、義に照らして正面攻撃はできないと知り、強攻を敢えてしないので吉である。九五は剛健で、二爻の明に応ずる。まだ通じない間は憤りと鬱屈に耐えられないが、ひとたび通じれば喜びを覚えるので、「先には号泣し、後には笑う」と言う。上九は遁に居て郊外に住み、同を求める意志がないので、「悔いなし」となる。総じて、同人の初と上の二爻は「門において」「郊において」と言い、いずれも外にあるため、咎も悔いもない。二には「宗において」の吝があり、三には武力の災いがあり、五には大軍の患いがある。いずれも内に同じくするため、吉とするものがない。「宗において」は「門において」に及ばず、「門において」は「郊において」に及ばず、「郊において」は「野において」に及ばない。要するに外へ出れば、党援もなく、へつらいもない。場所が遠いほど心は公になる。公なら平らかで、平らかなら通じる。だから聖人は四海を一家とし、中国全体を一人の心とした。これを大同という。近い者に同じくすることを求めれば、同じであっても私である。だから彖辞は冒頭に「野において」と言い、同人の道は天下の力に依るべきことを示している。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 大象伝にいう。『天と火とがともにあるのが同人である。君子はこれにならい、族を類別し、物を区別する。』 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦は乾が上、離が下である。象伝は「火が天の下にある」と言わず、「天と火」と言う。乾を太陽とし、離もまた太陽とするので、象が同じだからである。ゆえに「天と火」と言い、その同じところを取る。乾の陽は上昇し、離の火は上へ燃え上がる。性質が同じである。人の生まれつきの性も、もともと皆同じところがあるので、同人という。君子は乾の健にならって族を種類に分け、離の明を用いて物を弁別する。異なる中に同じものを求めるから、族は必ず類別する。同じ中に共通するものを求めるから、物は必ず区別する。異なるものは明らかに弁別しなければならず、同じものを混同してはならないことが、いっそう分かる。ここから推し広げれば、人には善悪・邪正の別があり、心には是非・公私の判断がある。君子も必ず類によって観察し、弁別して区別しなければならない。たとえば周と比、党と群は、外見は似ているようでも、その心はおのずから異なる。必ず明確かつ厳密に分け、少しも曖昧にしてはならない。異なるべきものを異ならせてこそ、同じでなければならないものを同じくできる。これが同の大なるところである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○　時運を問う。目下は大いに昇進する兆しがあり、友人の助けも得られる。大吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　商業を問う。合資会社などの事業に適し、大いに利益がある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　家宅を問う。一家が和やかに睦まじい象で、吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　戦征を問う。軍士が心を一つにするので、兵を動かして攻めるのがよく、大いに利がある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　病気を問う。火による病であり、薬の処方を誤る恐れがある。別の名医を求めるのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　訴訟を問う。同党による私的な庇護に注意すべきで、しばらくは結審できない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　失物を問う。物の種類ごとに細かく探せば、見つかる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　旅人を問う。本日中に帰り、必ず友を伴って来る。","初九。門において人と同じくす。咎なし。","初九。門において人と同じくす。咎なし。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「門を出て人と同じくする。いったい誰が咎められようか。」 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 初九は一卦の始めに居り、同人の首である。この卦は二爻を主とする。初爻が陰に変わると下卦は艮となり、その象が門であるため「門において」と言う。また、ただ六二とのみ同じくすることを望まず、門を出て交わりを広げようとする。門の外には私的な親しみがないので「咎なし」となる。象伝は言葉を逆にして「門を出て人と同じくす」と言う。門外に出れば、天地万物のうち、誰が自分と同じくしないだろうか、と明らかに述べている。「咎なし」と言わず「また誰が咎めようか」と言うのは、「咎なし」が自分の側から述べたものにすぎないのに対し、「また誰が咎めようか」は、門外の人々が皆喜んで共にし、誰も咎める者がないことを示すからである。易で人を名に取る卦は、家人と同人の二つである。家人は一家の人であり、内において位を正しくするのがよい。同人は天下の人であり、外に向かって志を通ずるのがよい。易が「門を出る」と言う卦は、随と同人の二つである。随は門を出れば功があると言い、同人は門を出れば咎がないと言う。いずれも、門内では私に溺れやすいが、門外では広々と公正になることを示している。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○　時運を問う。目下は平穏順調。外へ出て事業を営むのがよく、利あり。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　家宅を問う。一家の内は和やかに睦まじく、咎なし。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　商業を問う。行商には利があるが、店を構えて待つ商いには不利。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　病気を問う。場所を避けて転地療養すれば、差し支えない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　訴訟を問う。懲役の患いに注意し、あらかじめ出て身を隠せば、咎を免れられる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　失物を問う。門外を探すべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　妊娠を問う。すぐに出産し、男児を得る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】　ある日、友人の某氏が来て運勢を占ってほしいと頼んだ。筮して同人が遁に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。この卦は門を出て友を求める象である。交際の道は、善人と共にし、不善人とは共にしないのがよい。爻辞は「門において」と言い、象伝は「門を出て」と言う。外へ出れば同人の助けを得るという意味である。内にいると、交わる相手は皆親しい者なので、私心を避けられず、私があれば咎がある。門外に出れば、行き来する者は皆共にしようとするので、咎がない。今、同人の初爻を得たので、あなたは初めて門を出ようとしている人だと分かる。大胆に進めば、後日必ず高位に就き、多くの人望を得ることが、あらかじめ断定できる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 某氏はこれを実行し、後には果たして占断の言葉どおり、大いに人望を得た。","六二。宗において人と同じくす。吝。","六二。宗において人と同じくす。吝。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「宗において人と同じくすとは、吝の道である。」 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この爻は陰爻で陰位に居り、文明・中正を備え、全卦の主である。卦中の諸陽は皆、二に応じようとする。二と九五は正応し、九五は君で、一卦の尊位に居る。そこで爻辞は「宗において人と同じくす」と言う。「宗」とは尊い者であり、二が至尊と同じくすることを表す。二と五は剛柔ともに中正で、時と位が相応じているので、善を尽くしたものと言える。しかし両者が親密になりすぎれば、偏私を免れず、至公大同の度量を失う。また三・四の爻は同じくすることができず、二と五が意気投合して親密なのを見て嫉妬を生じる。これが吝を招く理由であり、「宗において人と同じくす、吝」と言う。象伝が「吝の道である」と言うのは、よく味わうべきである。「道」とは、今すぐ吝が現れていなくても、すでに吝を招く道筋があるという意味である。彖伝は六二が位と中を得たことを「亨」とほめるが、爻義は「宗において人と同じくす」によって、へつらいと党派心を戒めている。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○　時運を問う。目下はまだよくない。助ける者はあっても、妬む者が多く、万事思いどおりにはならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　商業を問う。大口の売買には利がある。ただし入出金には十分注意すべきで、利益を得る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　訴訟を問う。不利。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　家宅を問う。勤倹によって家を興し、長男の力を得る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　病気を問う。魂が宗廟に帰る象で、凶。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　旅人を問う。すぐに帰る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　失物を問う。拾った者が隠しており、返ってこない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】　明治三年、自身の運勢と将来の方向について占った。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n わが国の維新の初め、明治元年には奥羽北越の役があり、二年には箱館征討があって、天下の形勢はいまだ安らかでなかった。三年になって戦乱がようやく止み、天下は目をこらして泰平の到来を待ち望んでいた。その時、私は大いに感じるところがあった。商家に生まれ育った私は、ただひたすら家業の興隆を図ることに努め、国事に思いを及ぼす余裕がなかった。幸いにも今や聖代にめぐり合わせ、貴顕の諸公と朝夕面会する機会を得て、厚い遇を受けていた。諸公は家財を投げ出して国難を救い、王事に勤めた維新の功臣である。そのような私が今日に生まれ育ち、盛運に際会しながら、国家に何の貢献もしていないのは、実に恥ずべきことである。そこで、わずかな才能を少しでも発揮し、力を尽くして諸公に従い、深い恩に報いたいと願い、このたび自分の現時の運勢と進むべき方向を占った。筮して同人を得た。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。幕府末路、久しく太平が続いたため政綱はゆるみ、さらに外交問題が起こった。当時、君子は位を得られず、小人が奸をほしいままにし、上下は閉塞して秩序は乱れていた。そこで豪傑の士が各地で立ち上がり、天下はこぞってこれに応じ、乱を除いて正に返した。否が極まった世を一変させ、今日の泰平の盛りを開いたのである。これがまさに同人の卦である。今この卦を得た。彖伝は「同人は、柔が位を得、中を得て乾に応ず。ゆえに同人という」と言う。六二という一つの柔が中正の位を得て、上卦九五の中正に応ずる。これは、私が民間にあって中正の地位を占め、上は政府の政略に応じ、その目的を同じくすることを示す。「柔」とは、私にはもともと爵位がなく、才力も弱いということである。「野において人と同じくす」とは、私はもともと野にある草莽の臣だということである。「亨」とは、私の運勢と天下の大勢がことごとく通じ、国家のために創業することは何事も成功するという意味である。同人の卦は、卦体が大同を主とし、爻義が偏私を戒める。ただ「野において」だけが亨と言うのは、遠く外に求めるべきで、近く内に求めてはならないからである。また彖伝は「乾行」と言う。「乾行」とは自ら強くすること。「大川を渉るに利あり」とは、舟や櫂を造ることに利があるということ。「文明以て健」とは、学問・文学を創設し修めることである。卦象が述べることは、私が手をつけるべき方向を一つひとつ示し、海外の造作を手本として、それを天下に通用させよと教えている。ゆえに「天下の志を通ずることができる」と言う。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦象を得て以来、私はただ、政府の多忙な政務を万分の一でも補佐できればと願っていた。わずかな家産など、どうして惜しむ必要があろうか。明治三年、私は資産を投げ出す決意を固め、まず飛脚船を設けて国内の運輸に便を図り、次いで鉄道の創設を企て、さらに洋学校を建てて外国から教師を招き、教育事業の振興を図った。また横浜港内に瓦斯灯を設置した。明治七年の冬までに、この四大創始事業を成し遂げたのである。当時、わが国の人々はこの四大産業にまだ誰も手を着けておらず、私がその先駆けとなった。明治七年、瓦斯灯が完成した日に、光栄にも天皇陛下の行幸を仰ぎ、拝謁を賜った。その時、私は先父の霊牌を懐中にして、観の卦にいうように天顔を拝することを願い、さらに進歩の先唱を賞する勅語まで賜った。謹んで拝受した時の光栄は、何にもたとえようがなかった。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦では第五爻を同人の主爻とし、年数で数えれば初爻から五爻までがちょうど五年に当たる。明治三年から七年までの間には、九三の「莽に戎を伏す」、九四の「墉に乗る」というように、私の事業を妨げるものが多くあった。しかし私は公平無私を貫き、幾度挫折しても屈せず、ついに功を奏した。けれども、物事が盛んになれば必ず衰え、勢いが極まれば必ず変わる。これが天理の常である。私は同人の運に乗じて事を成し遂げたとはいえ、人事の窮通の理をわきまえず、進むことだけを知って退くことを知らなければ、「亢龍」の悔いを招く恐れがある。ゆえに同人の上九は「郊に同人す、悔いなし」と戒めている。これこそ易の理の妙用であり、その趣旨は深い。明治八年になると、私は神奈川郊外の望欣台に住み、悠々自適の日々を送り、ときおり易の理を味わいながら今日に至った。ここに同人の卦義を述べ、過去を追懐して、数語を付記する。","九三。兵を草むらに伏せ、高い丘に登ってうかがう。三年たっても立ち上がれない。","九三。兵を草むらに伏せ、高い丘に登ってうかがう。三年たっても立ち上がれない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「兵を草むらに伏せる」とは、敵が強いからである。「三年たっても立ち上がれない」とは、安んじて進めないからである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「戎」とは武器や兵士のことである。「莽」とは草の深い所をいう。この卦では、六二の陰が中央にあり、卦中の諸陽はみなこれと同じくなろうとしている。三爻は二爻に最も近く、同じになりたい気持ちがとりわけ強い。しかし二爻は中正を得ており、九五と正しく応じているので、三爻とは同じにならない。三爻は剛に過ぎて中を得ず、性質も剛暴である。二爻と五爻の間に位置し、強引に二爻と同じになろうとする。だが二爻の中正さを恐れ、五爻の剛健さを畏れて、あえて表立って動けない。「兵を草むらに伏せ」て機会を待ち、高い丘に登ってその隙をうかがい、三年もの長きにわたって、ついに立ち上がることができない。これこそ小人のありさまである。長く動き出せないので、まだ凶に至らず、凶とは明記されていない。しかし「伏せる」「登る」という言葉に、すでに凶の兆しは現れている。象伝の「敵が強い」とは、敵である九五が剛健で、自分には勝てないと知っていることをいう。「安んじて進む」とはいうが、「三年立ち上がれない」のに、どうして安んじて進めようか。離は甲冑・兵器を表し、軍事の象である。互卦の巽は隠れ伏す象である。この卦の九三・九四に同人の語がないのは、二爻がともに争い奪う象を持ち、同人ではないからである。この爻が変わると無妄となり、その六三には「無妄の災い。ある者が牛をつなぎ、通りすがりの人がそれを得て、村人に災いが及ぶ」とある。そこに凶咎の生じることが見て取れる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。目下はひたすら潜伏し、三年後になって初めて世に出て事を図るべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商業を問う。山林を開くのがよく、三年後には大いに利益を得られる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う。盗賊が盗みをうかがっている恐れがあるので警戒すべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う。敵軍の伏兵に十分注意しなければならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を問う。思いがけないもつれが生じ、しばらく決着しない恐れがある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失物を問う。草むらの中、あるいは山の草の中を探すべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 旅人を問う。三年後を待てば帰って来られる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十四年、ある高官が来て、その年の運勢を占ってほしいと請うた。筮して同人が無妄に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。この卦は、衆人と力を合わせて事を企てる象であるため、同人という。世間には賢者は少なく、愚者が多い。昔も今も変わらない。今日の人々は、朝廷と在野の大衆の議論を採り入れて公議と称することが多い。これが「野に謀れば得る」ということである。ゆえに彖伝は「野に同人す、亨る」と説く。ところが三爻は剛に過ぎて中を得ず、強いて同じになろうとするため、「野に」とは言わず「莽に伏す」という。しかも自ら恐れを知り、結局は立ち上がる勇気がない。この象からすれば、運勢も明らかである。三年後を待ってから事を企てるのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 後に果たしてこの占いのとおりになった。","九四。城壁に登るが、攻めることはできない。吉。","九四。城壁に登るが、攻めることはできない。吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「城壁に登る」とは、道義上、勝つことができないのである。「吉」とは、そこから引き返して正しい規範に戻ることによる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「墉」とは城壁のことである。この爻は剛が柔位に居て、中正を得ていない。四爻と二爻は応でも比でもないのに、二爻と強引に同じになろうとしている。しかもその間には九三という「墉」が隔たり、二爻と五爻の親密な結びつきを妬んでいるので、「その城壁に登って」攻めようとする。しかし九五は剛健で中正であり、それを攻めるのは道義上正しくなく、勢力の上でも敵わない。必ず勝てないので、攻撃を思いとどまる。その思い直しの間に過ちを悔いて改め、凶を吉に転じる。これが「城壁に登るが、攻めることはできない。吉」である。象伝の「道義上、勝てない」とは、力を誇示せず、道義を反省できるから吉なのだという意味である。「正しい規範に戻る」とは、不義の行いは必ず困窮に陥るので、邪念を止めて法則に従うことをいう。この卦は同人と名づけられているが、三爻と四爻にはともに背反の象がある。人の情が同じになる極みに達すれば必ず異なり、異なる極みに達すればまた同じになる。国家も、治が極まれば乱れ、乱が極まれば再び治まるのと同じである。これが人事における分合の端緒であり、易道の循環の理である。易で「克たず」といわれるのは、すべて陽が陰位にいる爻である。陽であるから訟や攻撃が生じ、陰位にいるから勝てないのである。この爻、および訟の九二・九四の「訟に克たず」などがその例である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。目下は退いて守り、動かないのが吉である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商業を問う。商品を独占し、値を待って売らずにいれば、後に必ず利益を得る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う。塀や城壁を修繕すれば吉である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う。直ちに堅固な陣営を築き、敵の襲撃に備えるべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を問う。今は道理がなくても、後にはかえって勝訴する。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失物を問う。長くたてば見つかる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 疾病を問う。凶のように見えても害はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】友人が来て、「今、興隆する見込みのある事業があるので、その成否を占ってほしい」と告げた。筮して同人が家人に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。この卦は、多くの人が力を合わせて事を興す象であり、その事業が公共の利益に関わることは明らかである。乾の金力を持つ九五と、離の知恵ある六二が、陰陽相応じて事を成す。その間に九三・九四の二爻があり、利益を妬んで内部から妨害し、これを奪い取ろうと謀る象である。あなたは事業について占ったが、爻辞から見ると、他人の事業をうらやみ、その権利を奪って取って代わろうとしているのではないか。あなたはしばらく声色に出さず、ただ密かに、同意してくれる九三を使って計画を立てる。それが爻辞のいう「墉に乗る」、すなわち城壁に登って敵をうかがい、潜伏して事を謀るという意味である。しかしこの事は必ず志を遂げにくい。中止するのがよい。「攻めることはできない、吉」とはそのことであり、象伝も「困窮して正しい規範に戻る」と説く。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 後に事情を聞くと、果たしてこの占いのとおりであった。","九五。同人す。初めは大声で泣き、後には笑う。大軍が勝って相まみえる。","九五。同人す。初めは大声で泣き、後には笑う。大軍が勝って相まみえる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「同人の初め」とは、中正でまっすぐだからである。「大軍が相まみえる」とは、完全に勝つからである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「号咷」とは、悲しみ憂いが極まって泣き叫ぶことである。この爻は君位にあり、天下と同じく応じるべきである。もし二爻とだけ親密にすれば、人君の道ではなく、天下大同の道でもない。そこで九三・九四に妬まれ、隔てられ、妨げられて、六二と会えなくなり、ついには兵を起こしてこれを攻め破り、初めて相まみえることができた。初めは会えないために号咷し、今は会えたために喜び笑う。これが「同人す、初めは号咷し、後には笑う。大軍が勝って相まみえる」という意味である。五爻と二爻は剛柔相応じ、上下がよく通じている。その情は私的に見えても、その理は本来正しい。だから象伝は「中正」と明らかにし、彖伝も「中正」と称えている。これは軍勢が盛んで勝利を得るということだ。どうして私情に隠れているとして非難できようか。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 別の説。国家を治める者が人々と和合しようとすると、その間に疑いを抱かせ離間する者が現れ、隔てられて互いに会えなくなる。ついに号咷して悲しみ泣くまでになるが、離間する者もその徳に服し、再び和合して笑い楽しむのである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。今はまさに喜びの時である。これまで苦心してきたことが、今や願いどおりに成就する。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商業を問う。少し挫折はあるが、最後には大きな利益を得る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う。驚き恐れることがないよう警戒すべきだが、最後には平穏になる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 疾病を問う。初めは危険だが、後には安らぐ。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を問う。非常に弁の立つ優れた弁護士を頼まなければ、正しい判決を得られない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 旅人を問う。途中で妨げに遭う恐れがあるので、帰りは遅れる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　妊娠：男児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十五年三月、私は駿州興津を漫遊していた。新聞を読んで、北海道炭礦欣道会社の堀基氏が免職になったことを知った。私はこの会社の評議員であったので、急いで東京へ戻り、同僚の渋沢栄一、湯地定基、田中平八らとともに会社のために奔走した。ようやく協議がまとまり、評議員は湯地と私の二名のうち一人を社長に選び、関係官庁に請願することにした。同僚諸君が私に承諾するかどうかを先に尋ねたので、私はまず筮で占うことにした。得た卦は同人が離に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。この卦では六二の陰が時を得て、中正の位にある。上下の五陽がこれに応じているので、私が社長に就任することを示す。九五は政府、九三は北海道庁長官、九四は大臣、初九は社員、上九は遠方の株主に当たり、誰一人異議を唱えず、必ず心を一つにして喜ぶことが分かる。これが「柔が位を得、中を得て乾に応じるので同人」という意味である。事に当たる道は、平原や広い野のように隠れる所がなく、ひたすら公明正大を主とすること。これが「野に同人す、亨る」である。私は不才ではあるが、この種の事業を長年経験してきた。六百五十万円の資力と政府補給の利子もあり、ただ公明正大にして少しも私曲がなければ、この責任に打ち勝つことができる。これが「文明にして健、中正にして応ず。君子の正なり」である。この会社は人跡のまれな地域にあり、工業に携わる者は並外れて苦しい労働を強いられ、ひそかに不正や弊害を生じさせることも避けられなかった。これもまた勢いの上で避けがたいことである。ひとたびその弊害を一掃すれば、必ず非難や中傷が起こる。しかし、いったん職務を引き受けた以上、怨みも苦労も引き受けるのが当然である。ことわざに「一つの功は百の議論を服す」という。政治が正しく行われれば、疑いも誹謗も自然に消える。これが「君子は天下の志を通ずることができる」という意味である。九三・九四のように、事業を興せない者が思いがけない枝葉を生じさせ、あらゆる手段でうかがい、結託して奪い取ろうとしても、私はあらかじめ目的を定め、最後までその害を受けない。これもまた「同人す、初めは号咷し、後には笑う。大軍が勝って相まみえる」ということである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この占いを得て、私は社長就任を承諾したが、後の成り行きは果たして占いのとおりであった。在任五百四十日の間に会社を整理し、幸いにして同人の信用を広く得た。四十四円だった株券は八十四円にまで騰貴し、十三万株で合計五百二十万円となった。会社の盛運が明らかに示されたのである。在任日数で割れば、一日平均およそ一万円となる。これはまったく道徳によって得たものといってよい。ああ、仁を行えば富まないと、誰が言えようか。道徳と経済は相反すると言う者は、愚かで無知な者の言葉である。道徳の効用は、つまらない経済上の利益よりも、何千何百倍も優れている。その数が幾何かさえ分からないほどである。世間で大言を吐き、内に実学を持たない者は、深く反省すべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十八年四月、わが国と清国との講和条約が成立し、条約交換のため清国の芝罘へ大使を派遣することになった。その頃、仏・独・露の三国が連合して、遼東を長く占領してはならないとわが国に通告し、さらに芝罘に軍艦を集め、少しでも動けば事を起こしかねない勢いを示していた。そのため国内は上下とも大いに不安であった。各大臣や枢密顧問官らは皆急いで西京へ向かい、私もそれを聞いて西京へ赴き、木屋町の柏亭で土方宮内大臣、渡辺大蔵大臣と会った。両大臣は言った。「今日の情勢は、三国が連合してわが国に迫り、その意図は測り知れない。わが軍艦は数か月にわたる海戦で疲弊し、しかも多くの損傷を受け、もはや戦闘に適さない。まさに存亡の危急である。筮占によって疑いを決するべき時ではなかろうか。」私は答えた。「すでに占ってある。同人が離に変じた。その意味を申し上げよう。」 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「同人」の卦は、二爻の陰が中正を得て、五つの陽爻の間にあり、離の明るい光が天下を照らす象である。卦の徳は文明と剛健であり、天下の志が通じる時である。今、五爻を得たので、大事は必ず成就すると知れる。フランス・ドイツ・ロシアの三国は、連合してわが国の行動を妨げ、さらに底なしの欲望を遂げようとしている。芝罘に軍艦を集め、各要港でもことごとく戦備を整え、時機を待って事を起こそうとしている。また、わが国が清国から得た賠償金を奪おうという魂胆もある。その狡猾な計略は、火を見るより明らかである。爻の象から推し量ると、二爻と五爻の間を妨げるのは三爻と四爻である。三爻の辞に、「草むらに兵を伏せ、高い丘に登る。三年の間、興らない」とあるではないか。「草むらに兵を伏せる」とは、海路の要所から突然襲撃する備えをいう。「高い丘に登る」とは、脇からその隙をうかがうことをいう。「三年の間、興らない」とは、機会を待って動き、すぐには発動しないことをいう。四爻の辞にも、「その城壁に乗り上げるが、正義によっては攻め取れない。吉とは、困窮して正しい道に立ち返ることである」とあるではないか。四爻と三爻は同じ意図を持ち、隙に乗じて立ち上がろうとする者である。それを「城壁に乗り上げる」という。しかし、道義の上で正しくないため、「正義によっては攻め取れない」という。結局、事を起こせずにやめるので、「困窮して正しい道に立ち返ることが吉」というのである。三国の不当な望みはこのようなものであり、天命が許さないのだから、心配するには及ばない。今回五爻の占を得たことから、三国の妨害は懸念されるものの、清国皇帝は必ず条約を批准すると判断できる。喜びは知るべきであり、「人と同じくするには、初めは声をあげて泣き、後には笑う」という。後日、天下の諸国から軽蔑・侮辱されることはなくなり、ついには戦勝の名誉を得るであろう。国の光を万里の彼方まで輝かせるべきであり、これを「大軍が勝利して相まみえる」という。占いがこのようであるなら、元老たちは何を憂える必要があろうか。そこで二人の大臣は眉を上げ、喜びを抑えきれなかった。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 後に朝議はこの占いのとおりとなり、商船で伊東を芝罘へ派遣して代わりに条約を交換し、帰国させた。その当時、三国はわが国の隙をうかがっていたが、事を起こす名分はなく、非常の備えも、易の辞が示したとおり、もはや用をなさなかった。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十九年一月、私は熱海で寒さを避けていたが、たまたま神奈川県の書記官吉田氏から報告を受けた。前農商務大臣の白根専一君が重病にかかって大学病院に入り、内外の名医も施す術がなく、ただ手をこまねいて死を待つばかりだという。私は長く君の知遇を受けており、心配と苦痛に堪えなかった。万死に一生を得ることを願い、あえて一占を煩わした。筮すると、同人が離に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じて曰く。白根君の病は、当時、国医も手をこまねき、必ず治らない症状で、死を待つばかりだとされた。この占によれば、君は死なないだけでなく、すぐに快方へ向かうはずである。「人と同じくするには、初めは声をあげて泣き、後には笑う」という意味である。その病は、大量の発汗またはひどい下痢を経て、ようやく治るのかもしれない。そこで「大軍が勝利して相まみえる」というのである。ただし、この卦の上爻は帰魂であり、今五爻を得た以上、上爻はちょうど来年に当たる。来年の命は、恐らく保証しがたい。しかし上爻の辞には、「郊外で人と親しむ。悔いはない」とある。今回すみやかに快復した後は、世間の煩累から遠い近郊の閑静な土地へ移り、休養静養すべきである。人事を尽くせば、それによって天命を取り戻し、悔いのない結果を得られるかもしれない。そこで記して報告する。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 後に重病は徐々に快方へ向かった。ドイツ人のバイルト氏をはじめ諸名医も、その急速な回復の理由を理解できなかった。後日、私も病院で君を見舞い、夫人に会って、退院後は閑静な土地で休養静養するのがよいと勧めた。しかし君は健康を回復したため、もはや私の勧めに従わなかった。翌年、果たして再び治らない病にかかり、痛惜に堪えなかった。","上九：郊外で人と親しむ。悔いはない。","上九：郊外で人と親しむ。悔いはない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「象伝」には、「郊外で人と親しむとは、志がまだ遂げられていないということである」とある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「郊」とは、都の外にある広く遠い土地をいう。この爻は五爻の上にあり、官位を持たない場所に当たる。「同人」一卦では、卦中の五陽が皆、六二の一陰と同じくなろうとする。三爻は二爻と比しているので、同じになろうとする意がとりわけ切実である。四爻は応でも比でもないが、二爻と五爻の間にあるため、やはり六二と無理に同じになろうとする。五爻は二爻と正しく応じるが、この爻は上に居て、二爻とは応でも比でもない。孤立して独自に立ち、荒涼とした郊外の外に身を置いており、門にいる初爻よりもさらに遠い。私的に隠れた情がないため、争奪の災いを免れる。六爻の中で最も完全であるので、「郊外で人と親しむ。悔いはない」という。そもそも「同人」の度量は、遠く及ぶほど大きくなる。国外を郊といい、郊外を野という。「郊外で」は「野で」よりかなり近いので、「野で」はただ「亨る」といい、「郊外で」はただ「悔いはない」というのである。象伝が「志はいまだ得られない」というのは、志とは「天下の志を通じさせることができる」という意味だからである。ただ「郊外で」とあるだけで、まだ天下の志を通じさせることはできない。ゆえに「志はいまだ得られない」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う：今は順調で、諸事に障害はない。ただし、閑静で人目を離れた場所にいるのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商業を問う：市場の塵や騒がしさの外で事業を立てるのがよい。損失の心配はないが、当分は大きな利益を得られない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う：荒れ地に陣営を置くのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失物を問う：郊外で探すとよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を問う：正しい判決を得るのは難しい恐れがある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う：平穏で順調、災いはない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦は帰魂の卦である。命数を占ってこの卦を得たなら、上爻に至って必ず死ぬ。「師」の上爻も参照されたい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】知り合いの会社役員某氏が来て、こう告げた。「近ごろ、わが社の頭取と大株主との間に、かなりの紛議が生じています。株主は総会を開いて役員を改選しようとし、一方には現役員を支持する派もあり、競争が非常に激しいのです。私は免職になるかどうか分かりません。今後の運勢を占ってください。」筮すると、同人が革に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じて曰く。「同人」とは、人と心を同じくすることである。役員であれ株主であれ、皆が会社の利益を考え、各自が私利をたくらんでいるのではない。ただ、その行いに右左の違いがあるため、紛議が生じたのである。そもそもこの紛議は、五爻に当たる頭取と二爻に当たる支配人との間があまりに親密で、他人の疑いを招いたことから起こった。しかし、その疑いは長くは続かず解けるであろう。あなたが偏らず、どちらの党派にも加担せず、関係を持たなければ、免職の心配もない。ゆえに「郊外で人と親しむ。悔いはない」という。郊とは田舎のことであり、市街の煩雑な場所から離れている。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 後に果たしてこの占いのとおりになった。",null,"周易、易経、高島易断、第13卦、天火同人、六十四卦、卦辞、爻辞、占断",1787044936227]