[{"data":1,"prerenderedAt":28},["ShallowReactive",2],{"metaeast_zhouyigaodaoyd_ja-gaodaoyiduan-20":3},{"slug":4,"archived":5,"date_created":6,"date_updated":7,"title":8,"seotitle":9,"seodescription":10,"htmlcode":11,"number":12,"content":13,"title1":14,"content1":15,"title2":16,"content2":17,"title3":18,"content3":19,"title4":20,"content4":21,"title5":22,"content5":23,"title6":24,"content6":25,"title7":26,"content7":26,"seo_keywords":27,"og_title":8,"og_description":10},"gaodaoyiduan-20",false,"2026-08-11T01:18:22.072Z","2026-07-04T14:35:13.000Z","風地観。観る。手を洗い清めるが、まだ供物を献じない。誠があり、うやうやしく仰ぎ見るようである。","高島易断 第20卦 風地観_卦辞原文と解卦_東方玄学庫","高島易断第20卦 風地観の解卦：卦辞「観は、盥して薦めず、孚ありて顒若たり」と、断辞および実占案例の詳しい解説。","&#19923;",20,"20　風地観 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 按ずるに、「観［86］」の字は「雚」と「見」から成る。「雚」はコウノトリで、雁に似ているが、より大きい。コウノトリには白と黒の二種があり、白コウノトリは木に巣を作る。また、コウノトリは時節を察し、変化を見分けることができる。毎日、曇り晴れ、雨雪、大風や大水など、気候が定まらないときには、木の上を仰ぎ見て、見えるものの上下に応じて、進むべきか避けるべきかを判断する。そのため土地の人々も、コウノトリが飛ぶか、鳴くか、止まるか、餌を食べるかを観察し、平常と異変を占った。「見」は見ることである。普通に見ることを「見」といい、尋常でないものを見ることを「観」という。そこで「雚」と「見」を合わせて「観」とした。この卦は下が坤、上が巽である。巽は風、坤は地を表す。風は本来形がなく、直接見ることはできないが、物に触れて現れる働きによってこれを観察する。同じように、上に立つ者の徳化は形がなく、政治に施される働きによって観察され、下にある者の性情も形がなく、事に現れるあり方によって観察される。そこには、互いに観察し、感化し合うという意味がある。ゆえにこの卦を「観」と名づけた。『序卦伝』には、「物が大きくなって、はじめて観ることができる。ゆえにこれを受けるに観をもってする」とある。これが、観が臨の次に置かれる理由である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 観。手を清める儀式は済ませたが、まだ供物を献じていない［87］。誠の心があり、厳かで敬虔である［88］。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ▲　観の甲骨文字 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 按ずるに、「盥」は臼と皿から成り、皿の上に水がある形で、両手で水をすくう象を表す。卦の本体は巽であり、巽は入ることを意味するので、両手を水に入れて清めることをいう。巽は果断でないことも表すため、「薦めず」という。下が坤、上が坎の卦は比であり、初爻に「誠があって缶に満ちる」とある。缶も水を入れる器である。下が乾、上が巽の卦は小畜で、五爻に「誠があって固く結ばれる」とある。「結ぶ」とは両手を指し、いずれも誠の象を得る。下が巽、上が坤の卦は升で、観と互いに変化し合う。升の二爻には「誠があれば簡素な祭りを用いるのがよい」とあり、祭祀の意味がある。「顒」は説文に「大きな頭」とあり、頭を上げて仰ぎ見ることをいうので、観の象である。「若」は従うことで、誠心をもって恭しく従う意味がある。「薦めず」「誠あり」とは、動かずして敬い、言葉なくして信を得ることをいう。手を洗い清める姿を観るだけで、万人の心はすでに誠を受け入れ、供物を献じて初めて感動するのを待つ必要がない。ゆえに観は心にあり、姿にあるのではない。誠は精神によって働き、外形によるのではない。手を洗う最初の瞬間に、注ぎ込まれた精誠がすでに天下に見えている。だから「観。手を洗い清めるが、まだ供物を献じない。誠があり、うやうやしく仰ぎ見るようである」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 彖伝に曰く。大いなる観は上にあり、順にして巽、中正をもって天下を観る。観は、手を洗い清めてまだ供物を献じないが、誠があり、うやうやしく仰ぎ見るようである。下の者がこれを観て感化されるのである。天の神妙な道を観れば、四時は乱れない。聖人は神妙な道によって教えを設け、天下は服する。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦は剛が二つ、柔が四つあり、剛が上に二つ、柔が下に四つある。剛を大きく、柔を小さく言うので、「大観在上」という。坤（こん）が巽（そん）に従って入ることは、順応し、かつ巽（そん）であるということだ。九五は卦の真ん中にあり、剛が陽の位置を得て中心となる。「天下」とは四つの柔を指し、それが上卦の下にあることをいう。五爻は君であり、四つの柔は皆臣である。中正の徳が大きく上にあり、天下を観るのに足る。これが観る道であり、すべて精しく清らかで誠敬に満ちており、至って中心で正しい。少しも途切れることがない。四つの柔は観じて感ず、誠意をもって思いやり、自ら清めようとするので、予期せずして変化し、自ら化す者がある。だから「下観而化」という。聖人を観ることは天を観ることと同じであり、聖の道に特別な天の道はなく、天の道は神妙であるから、「神道」という。天には「神道」があり、時運は「過たず」；聖人には神道があり、中正で私心がない。天の道は言葉を発さずに四季を通じて行われ、万物が生まれる。聖の道は「勧めない」のに万民が信じる。聖人は天の徳と天の行いに合わさり、それを明かし、政教を説き、天下に聖なる化けあふれさせ、肌や骨髄に至るまで浸透させる。妙に合致して言葉にならないもので、「知らないことを知らぬ」というように、帝の法に従うのは、まるで天をかぶっているのに天の高さを知らない者のようだ。その化する道の神はなんとものことか！だから「聖人は神道をもって教えを設け、天下は服矣」というのである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦全体について言えば……いわゆる「教えを設ける」とは、人々の観徳を一つにし、逸脱した志を消し去り、みな中正の境域に帰らせ、道徳を一つにして風俗を同じくすることである。ゆえに「大いなる観は上にあり」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n （付記） \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「神」という字は「示」と「申」から成る。示について唐韻は「音は侍、垂れ示すこと」といい、説文は「天が象を垂れ、吉凶を現す。それが示である」と説く。玉篇は「示は語ること」といい、事をもって人に告げるのを示という。申は引き伸ばすことである。つまり神とは、その道を引き伸ばして人に示すものなのである。象伝に「聖人は神道によって教えを設ける」とある。神道を垂れ示して天下を教化するのである。古代の聖王が神を祭るのは、至誠によって神の告げを求めるためだけであった。ゆえに上では神明が現れ、下では民衆が服従した。観卦の聖人もこのようにして教えを設ける。その妙は思議の及ばないところにあり、天下が一斉に観れば、感応は影や響きよりも速く、聖人の観に服さない者はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 私はかねて、わが国の神教が衰えたことを嘆いていた。明治二十四年の春、かつて陰陽寮を復興すべきことを論じた一篇を書いたので、ここに付記して「神道によって教えを設ける」という説を補う。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 謹んで思うに、わが国は「神国」と称され、わが国の治道は「神道」と称される。その由来は、まことに久しい。神道とは、わが国の言葉でいえば「ただ神に従う道」ということである。「惟神」とは神に随うことをいうので、これを「神随」とも書いた。古代の皇祖が国を建てたありさまを見ると、神を祭ることを政治とし、神の命を国家の大義とした。あらゆる政事に疑いが生じれば、みな神教に従って決した。これが、わが国を神国と称するゆえんである。国君を通称して天子という。天子とは天の子であり、天の明らかな命を奉じ、万国を治め、天を父として尊ぶ者であるから、天子と尊称するのである。上は大臣から下は属官に至るまで、皆、天子を助けて教えを広める者である。孟子は『書経』を引いて、「天は下民を降し、そのために君を立て、師を立てた。ただ上帝を助け、四方を恵ませるためである」といった。これによれば、天子は上帝を助ける者である。『書経』に「文あり、武あり、聖あり、神あり」とあるのは、天子がそのまま神皇であることをいう。『観』の象伝に「聖人は神道によって教えを設け、天下は服す」とある。ここから、治道は神道に通じ、神道によってこそ治道の及ばないところを補えることが分かる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 古来、国に大事があれば、必ず占いによって疑いを決した。これこそ神道の最も明らかな現れである。天と人とが感応する道理は、ここにあるのではないか。人はいかに賢明であっても、未来のことをあらかじめ知ることはできない。ただ占筮によってのみ、それを知ることができる。昔、わが国の神代には、鹿卜の法を伝えて神意を問い、これを「卜問」と称した。今日、奈良の春日で鹿を飼っているのも、この遺意である。その後、支那と交通して亀卜・蓍卜の術を伝え、神と人とが感応する道はいよいよ備わり、未来を知る方法もますます明らかになった。「天地位を設け、聖人成能し、人謀り鬼謀り、百姓能に与る」。そこで朝廷は中務省に陰陽寮を置き、陰陽頭・陰陽助・陰陽博士・陰陽士などの役人を設け、その職務に当たらせ、技を修めさせた。律令に定められた制度は、古くからこのようであった。しかし中世以来、皇政が衰え、陰陽寮も宮中とともに廃れてしまった。それでも国家の大事に際しては、天皇みずから伊勢大神宮と賢所を祭り、府県知事に全国の官国幣社で代拝させ、事情を告げ、また役人を外国に派遣して賢所を拝させた。神威を奉じて異域に臨み、朝廷が神教を崇敬することは、いまだかつて少しも衰えなかった。人民もこれにならい、神の誕生祭や祭礼、また春の祈りと秋の報恩の時には、祭器を並べて神明をもてなし、香を供えて福と加護を祈った。占筮の法はほとんど廃れたとはいえ、報恩の礼はなお存している。わが国は東海に位置し、古くは神洲と称した。それゆえ神道の明らかな顕現はいよいよ著しく、民心の敬愛もいよいよ篤い。忠君愛国の憂いは、すべて神を敬う真心によって奮い起こされるのである。この功徳がこのようである以上、もし誠と敬を尽くし、明らかに教えを広め、昔の栄光を回復することができれば、神霊は必ず感応し、求めるところは必ずかなえられる。その霊験の顕著さは、さらに進むことになるだろう。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 皇政が維新され、廃れていた諸制度が皆よみがえったのに、陰陽寮だけはいまだ再設置されたという話を聞かない。理由はほかでもない。維新の事業の多くは兵馬騒然たる時に創始され、その後は欧米の文物が流れ込み、西学を急いで模倣するのに追われ、古制を復興する暇がなかったからである。しかも西洋人は神道を軽視し、神道を無とする説を立てた。そのため西法を学ぶ者の多くはその説に惑わされ、口に任せて妄言を吐き、神々をそしるようになった。こうして侮り慢る風潮が生じ、家庭では父兄を侮り、府県では官吏を侮り、国中では君上を侮るに至った。人間社会の秩序を破り、社会の安寧を害する、今日天下に共通する弊害である。その弊害の由来をたずねれば、すべて神道が衰微したため、人心が狂妄となり、畏れ敬うことを知らなくなったことに帰する。極みに達すれば、その禍は言い尽くせない。嘆かわしいことではないか。今や聖明なる君主が上にあって万機を独断し、大臣たちはそれぞれ正しい意見を進めて補佐している。さらに貴族院・衆議院を再び開き、国民の世論を問い、国是を定めている。これは、君が相に従い、士に従い、庶民に従う時代である。しかし、民に問いながら天に問わず、神にたずねずに民にたずねるのは、聖代における制度の欠けたところではないか。古代には、宰相を任命するときも、軍を出すときも、賢者を求めるときも、必ず占った。礼に「卜筮は疑いを決し、ためらいを定めるためのものである」とある。古代のわが国には、これを行う役人、すなわち陰陽寮の職があった。今日、朝廷の官吏は二万六千人にも及び、皆君子の位に立っている。それなのに陰陽寮の職だけは復古したと聞かない。古きを調べれば、かつて神随国と称された国では、その教えがすでに廃れ、その名さえも今まさに絶えようとしている。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 私は不肖の身ながら、深くこれを恐れ、陰陽の術を修復して、神と人との感応の誠を明らかにしたいと考えている。しかし、これを言えば僭越の罪を犯し、言わなければ冥冥の罪を受ける。罪が同じであるなら、むしろ言うべきである。そうすれば、神国という称号を実質あるものにすることができ、内には四千余万の生きとし生けるものと幸福を分かち、外には神道を知らず暗迷している欧西諸国にも、この霊明玄妙な真理を聞かせることができる。ここに、あえて陰陽寮を復興する一案を申し述べる。ああ、願わくは当道の君子がこの案に賛成し、世論を振興していただきたい。陰陽寮の古い職掌を復活させることは、ひとり本邦の幸福となるだけでなく、まことに世界を照らす光となるに足るものである。謹んで申し上げる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を人事に当てはめれば、己を観ることと人を観ることの二つに尽き、そこに家業の盛衰がかかわる。卦の体は下が坤、上が巽で、上に陽二爻、下に陰四爻があり、五爻は尊位にあって一家の主を表し、家人から仰ぎ見られている。四陰は家人であり、皆五爻に順う。一家の主は、道において荘敬厳粛であるべきで、つねに祭りに臨み賓客を迎える時の心を保ち、家人がその姿を見て感化され、身を清め徳を修め、誠を競い合い、欺きを心に抱かぬようにする。家主が柔順謙和で、決して人を厳しく責めなくても、中正の徳が手本となって垂れ、言わずして信を得、動かずして敬われるのである。天道が正しければ四時が調和し、家道が整えば一家が粛然として和む。ゆえに人倫の重きを天倫といい、事物の微細な法則さえ天則にかなう。人が天命を敬って従い、天とともにその測り知れない神妙な働きを成せば、どこへ行ってもよろしきを得る。ひとたび出て民に臨めば、先王のいう「方を省み」「教えを設ける」ことも、余裕をもって行える。これをただ一家一門の内に施すなら、なお小さい範囲にすぎない。初爻は一卦の始めで、家中の幼子のようなもの。見るところが小さいので、小人なら咎はない。二爻は陰で暗く柔弱、ただおぼろげにうかがうことしかできない。門の隙間から見るようなもので、女子ならばなお貞を失わない。三爻は柔順の極みで、時に応じて進退できるため、その道を失わない。四爻は五爻に近く、家主の親族であり、その観察は最も真実に近く、家主から信任される。五爻は剛陽中正で、家を整える主である。家政の善悪はほとんどその身にかかるので、「わが生を観る」と言う。上爻は五位の上にあり、家主の年長の親族を表す。その人はすでに家政に関与しなくても、家人はなおその徳を仰ぎ、法則とする。だからこそ、身を避けて自らを観ないわけにはいかない。昔、文王は徳が盛んで感化が神妙であったから、「その妻に刑し、家に至り、国に至る」といわれた。国を治めるには必ず家を治めることを根本とし、家を観れば王道が明らかになるということである。この卦全体は陰が盛んで陽が微かであり、道が極めて危うい状態にある。卦名は観という。五爻と上爻の二陽は上にあり、凶とは言わないものの、一方は「わが生を観る」、一方は「その生を観る」とし、いずれも勤めて内を返り見て省察する。危険を防ぎ禍を憂える心は、極めて深く切実である。人が身を慎み世を渡るにあたり、つねにこの趣旨を敬い畏れることができれば、どうにか咎を免れるであろう。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を国家に当てはめれば、陰が盛んになって陽を剝ぎ取る象であり、ただ神明の加護に頼って衰運を挽回すべき時である。内外二体のうち、外卦は政府を表す。二陽が位にあり、中正剛強の徳を備え、億兆の仰ぎ見る対象となるに足りる。内卦は人民を表す。四陰が下にあり、柔順卑下の巽の情を抱き、つねに政教を仰ぎ見ようとする。人民は多く、政府は高い。小民は聖徳を直接見ることができないので、君主に近侍する者のありさまを見て、それを自分の見るべきものとする。四爻は五爻に近く、巽と同体で、一卦の主である。下の三陰が進んで五爻を見ようとすると、まず四爻を見ることになる。だから初爻は「童観」といい、幼子が富貴の門を仰ぐように、高くて見ることができない。二爻は「闚観」といい、恐れ怯えて正面から進むことができず、身を隠してうかがう。三爻は「わが生を観て、進退す」という。三爻は四爻に近いから、様子を見て進退を決められるのである。四爻は尊位に近く、聖なる君主に親しく仕え、国の光を仰ぎ見ることができる。「王に賓たるに利あり」とは、賓は臣にたとえられ、すなわち大人にまみえるのがよいという意味である。五爻は大君で、中正にして位を得ている。しかし二陽が孤立し、高い位置にあるだけ危ういので、「わが生を観る」という。兢兢業業として、正しい人かどうかを人に問う前に、まず自らを正す。その意味は非常に深く切実である。上爻は観の極みにあり、五爻の上に位置する。身に位はなくても五爻と徳を同じくし、「その生を観る」という。その警戒の心は五爻と同じである。四陰の意を総合して見ると、皆、大君の動静をうかがい、それによって進退を決めようとしている。上の二陽は、ただ明徳によって民を新たにし、盈を保ち泰を守ることに心を砕いている。爻辞の「盥して薦めず、孚ありて顒若たり」とは、君主が至誠を尽くして身を清めれば神明を感格させ、民の信頼も得られるという意味である。己を慎んで南面し、無為にして治める趣旨である。象伝はこれを解き広げて、「大観、上に在り」といい、今にも危うくなりそうな象を示す。また「巽にして順、中正もて天下を観る」という。卦体の巽が本来は順でありながら中正を備えることから、君主はまず自らの徳を修めて明らかにし、天下の見るところとすべきだというのである。「天の道を観る」以下の句も「盥して薦めず」から出ている。天道の神妙な変化は測り知れず、寒暑が往来しても四時に誤りはない。聖人が神道を手本として政教を行えば、時勢は変わり、和らぎ、天下は皆服する。象伝の「先王以て方を省み、民を観て教えを設く」とは、観察の道を示したものである。彖伝の趣旨は観をもって下に示すこと、象伝の趣旨は下を観察することである。この陽徳に乗じて民の観となるに足り、また民を観るに足りれば、群陰は服従する。さもなく陽徳に欠けるところがあれば、群陰はそれに乗じて上から迫り、危うくなるのである。二つの陽爻はいずれも「君子は咎なし」という。君子とは徳のある者の称である。徳があれば咎はなく、徳がなければ咎がある。自らを省みれば、明らかに分かる。国家を治める者は、どうして身を引き締めずにいられようか。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 大象伝にいう。風が地上を行くのが観である。先王はこれにならい、各地を巡察して民情を観察し、教えを設けた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 坤は地、国土、衆を表し、巽は風、命令を表す。この卦の「風、地上を行く」は、民に教えを施す象である。「方」とは四方をいい、「方を省みる」とは四方の民心が従うか背くかを調べること。「民を観る」とは、その土地の風土や民俗が何を尊ぶかを考察すること。「教えを設ける」とは、土地に応じ、風俗を見きわめ、教えを立てて政治を施すことである。天下の民情は、風気に囲まれたり習俗に移されたりして、それぞれ偏りがあり、中正和平の境地に帰することができない。先王は、風が地上を行く姿に、広く流れ、吹き払って、どこにも行き渡る象を見た。そこでこれにならって「方を省み」、枯れたものに息を吹き、新しいものを吹き起こし、万物を動かす象とした。またこれにならって「民を観て教えを設け」た。政治によって身を束ね、教えによって心を導くのである。「方を省み、民を観る」ことの後に教えを設けるからこそ、奢る者には倹約を教え、怠る者には勤勉を教えることができ、教えはいっそう善くなる。孟子が「善政は善教ほど民心を得るものではない」と言ったのもこのためである。教えが民心に深く入るには、風が天下を通り行くようでなければならない。そうなれば感化が行われ、風俗は美しくなり、弊害は改まり、世の風気は清らかになる。観の道に、これ以上のものはない。これを「方を省み、民を観て教えを設ける」という。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を占う：今は奮起して事を成すべき時である。外へ出て広く見聞するのがよく、門を閉ざして静かに守るのはよくない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商業を占う：洋貨の運送・売買には、危険に注意せよ。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を占う：家の中に古くから神仏を祀っているか、宗門に帰依した家であるか、または家主が信徒を教える塾を開いている。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を占う：風雷が疾風のように巻き起こる勢いがあり、土地を奪い、民衆を収めることができる。吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を占う：風湿の病である。流動して活動するのがよく、血が調えば風邪も自然にやむ。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 旅行を占う：遠くへ旅するのは吉。教えを広めるなら、なおよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を占う：公平で穏当な裁断によって決着する。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　妊娠：男児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 天候を占う：風が起これば晴れる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失物を占う：初めは地上にあったが、風に吹かれて遠くへ行った。広く探せば見つかる。","初六：童観す。小人は咎なし。君子は吝。","初六：童観す。小人は咎なし。君子は吝。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。初六の童観とは、小人の道である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「童観」とは、遠大な知識や見識がなく、幼子のように蒙昧で、奮い立って徳の光を観ることができないことをいう。この卦の六爻は、いずれも「観」によって意味を取る。対象との遠近によって観の浅深を分けるので、観るところは一爻ごとに前の爻より勝る。この意を知らなければならない。初爻は柔らかな陰で下にあり、幼く未熟な民である。愚昧な性質を抱き、辺鄙な土地に住み、住む所が遠いので、見るところもわずかである。だから「童観」という。「小人」とは、暗愚で遠大な見識のない者であり、もともと怪しむには足りない。だから「咎なし」という。しかし君子までこのようであれば、なんと残念なことではないか。そこで「小人は咎なし、君子は吝」というのである。象伝が「小人の道」というのは、位が低く識見も浅く、ただこのようにしかなれないからである。ここでいう「道」とは、「小人の道が長ずる」という時の道である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を占う：初運はあまりよくないが、幸い大きな障害はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商業を占う：始めたばかりの時は、小さく始めるのがよく、咎はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を占う：童僕による盗難の患いに注意せよ。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を占う：小勝の後に大敗するおそれがある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を占う：小人には差し支えないが、君子には不利である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 旅人を占う：近場に赴くのがよく、災いはない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 縁談を占う：幼い頃からの縁組で、吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失物を占う：子どもが投げ捨てた可能性に注意。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】ある石炭会社の社員が来て言った。「某局が石炭を購入するにあたり、甲乙両炭の火力を試験した後、入札に付すことになりました。勝敗の成り行きを占ってください」。筮して観から益へ変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。観とは見ることであり、石炭の真の品質を見ることである。今、某局は石炭を購入し、火力を試験してから競争入札にかける。これは公平な法則を行うものと言え、「大いに観るものが上にあり、中正にして天下を観る」という状態である。今、初爻を得た。初六は下にあって僻遠の地におり、「童観」という。幼子の見識は暗く愚かで狭く浅い。これは検査者の無識を指すのであろう。爻辞の「小人は咎なし、君子は吝」は、正しい者が敗れ、正しくない者が勝つ時であることを示す。今回の競争相手の一人は狡猾な知恵に富み、試験の際に不正な仕組みを考え出す。その弊害は到底防ぎきれず、会社が敗れることが深く懸念される。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 結果はまさにそのとおりになった。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】友人が来て告げた。「たまたま某豪商の招待状を受け取りました。同業者も集まることになっています。その日の接待の様子がどうなるか占ってください」。筮して観から益へ変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。この卦の彖辞は「大いに観るものが上にあり」といい、必ず非常に大きな集会である。今、初爻を得た。初陰は下にあり、地位がきわめて低い。あなたの見識が高遠で、老練かつ洗練されていることは私も承知している。爻辞は「童観、小人は咎なし」という。身分を下げて低い者に合わせる嫌いがあるのではないか。こうした場合、小人ならよいが、君子なら心中不快で、人前では恥じ、内心では自らを恥じることになる。「童観、小人は咎なし、君子は吝」とはこの意味である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 彼はそれを聞いて疑わしそうにしたが、相手の好意でもあり断ることもできず、ついにその宴席に臨んだ。その日は私も同席したが、数十人の中で彼はたまたま末席に置かれていた。同業者の中では知識も才能も力量も人々を抜いていた彼が、なぜそのような接遇を受けたのか、理由はわからない。","六二：隙間からうかがう。女性が貞正を守るにはよい。","六二：隙間からうかがう。女性が貞正を守るにはよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「女性の貞正としての隙見も、やはり恥ずべきことである」。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 艮は門であり、坤は戸を閉じた状態である。「窺い見る」とは、門の隙間からひそかにのぞくことをいう。二爻は陰位に陰で居り、中正を得ている。初爻より進んではいるが、なお地位は低く、見識も劣り、剛陽中正の大道を観ることができない。孟子の「斉人に一妻一妾あり」の章で、その妻が「私はあの人がどこへ行くのか見届けてやろう」と言う。窺うという字はいずれも門構えを持ち、意味も同じで、これは女性の行いだから「女性が貞正を守るにはよい」という。男子なら、目で天地の広大さを見、心で万物の幽玄な道理を見、内には自分の身心を省み、外には天下の形勢を観察すべきである。どうして密かに探り、のぞき見ることをよい策とできようか。象伝は「女性の貞正としての隙見も、やはり恥ずべきである」という。女性にとって貞正はよいので、女性がのぞくのはまだ過ちとはいえないが、男子なら恥である。「また」という字は初爻の「吝」を受けている。初爻は小人をもって君子を戒め、二爻は女性をもって男子を奮い立たせるのである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を占う：目下の運はよくないので、ただ守りに徹するのがよい。女性が占えば大いに吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を占う：養蚕・絹糸業は大吉、その他はよくない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を占う：必ず女性が家を主宰し、吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を占う：陰寒の症状だが、害はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 出行を占う：家族を伴って行くべきである。旅人なら、必ず家族を連れて帰る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失物を占う：戸の隙間にある恐れがあり、のぞけば見つかる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十三年、貴族院について占い、観から渙へ変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。観は四陰が時を得て、上から二陽を圧する卦であり、臣民が勢いを得て君位を犯そうとする象がある。今、四爻を得た。ある高官が清国へ渡航して交渉するが、必ず君命を辱めず、相手国の王もきっと賓客の礼をもって敬い迎えるであろう。「国の光を観る。王の賓となるによろしい」とはこのことである。","六三：我が生を観て、進退する。","六三：我が生を観て、進退する。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「我が生を観て進退する。まだ道を失ってはいない」。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「我が生」とは、行動や施為として自分から発するもの、すなわち意念の発動を指し、これを「生」ともいう。「我が生を観て、進退する」とは、自分の志が正しいか邪か、自分の行いが通じるか塞がるかを省察し、それに応じて進退することである。また「進」とは剛に向かって進むこと、「退」とは柔へ戻ることをいい、繋辞伝の「変化するものは進退の象である」とはこのことである。三爻は上下の間、下卦の上にあり、進むことも退くこともできる。二爻よりやや高い位置にあり、見識も少し勝るので、「我が生」の適否をよく見て進退を決められる。徳を測って位に就き、能力を量って官に居り、可能か否かに従って進退する。これが「我が生を観て進退する」である。世に出て天下の事を成し遂げ、行いが滞りなく通じるなら進めばよい。出ても天下の事を成せず、行いが塞がるなら退けばよい。出処進退は、ただ自分で決めるのである。象伝の「まだ道を失ってはいない」とは、自分の才徳を観察し、時の可否を見極めて、進退去就に心を用いることをいう。まだ道を得ていなくても、身を誤り時を失う憂いはない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を占う：目下の運は平凡である。徳を測り力を量り、みだりに動かなければ、得るものはなくても失うものもない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を占う：慎重に扱い、買える時に買い、売れる時に売り、時勢を聞いて値を定めれば、決して損はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を占う：古い家に住むのがよく、移転はよくない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を占う：軍情をよく観察し、機に応じて変化すれば、決して敗れない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 旅人を占う：帰心はなお迷っていて、まだ決めかねている。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を占う：心を静めて自養すれば、無事を保てる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　失物を問う。すぐに見つかる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】友人が訪ねて来て言った。「同業者三人で力を合わせ、北海道で漁業を創業したいと思います。前途の吉凶を占ってください」。筮して観から漸へ変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。観は風が地上を行く卦である。風というものは目で見ることができず、物が揺れて初めて風の存在を知る。事業を占えば、席上の談論や最初の胸算用は容易に見えても、実際には思いがけない変動に遭う象がある。今、三人が連合して漁業を始めようとしているが、他の二人はあなたに比べて才知も資力も下であり、途中でたちまち退く恐れがある。あなたに独力で成し遂げる力がないなら、決して着手してはならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n その後、某はこの占いを用いず、他人と連合した。二人は途中で挫折しなかったが、某は予算外の費用まで先に支出し、多額の金も貸し出した。折悪しく海魚が不漁で、功を奏することができず、かえって大敗を喫した。","六四：国の光を観る。王の賓となるによろしい。","六四：国の光を観る。王の賓となるによろしい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「国の光を観るとは、賓客を尊ぶことである」。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「王」とは九五を指す。陽は明るく陰は暗い。九五は陽爻なので光明の象がある。君と言わず国と言うのは、「君」が陽の位に当たる一人の君主を指すのに対し、「国」は朝廷と百官全体を含むからである。「国の光を観る」とは、国内の風俗の美醜、政教の盛衰を観ること。「光」とは国の輝きである。「王の賓となる」とは、古く賢者を人君が賓客の礼で遇したことをいう。ゆえに在地から王朝に仕えに来る者を賓と呼んだ。上に明君がいれば、才徳を抱く士は皆、王朝に進んで仕え、君主を補佐し、天下を安らかに治めようと願う。これが君子の志である。四爻は尊い五位に近く、一卦の主であり、王の文飾と献上を整え、その光が四方に及ぶ。だから「国の光を観る。王の賓となるによろしい」という。項氏は「正位を踏むので賓となり、正しくなければ敵となる」と言う。国に観るべき光があれば賓となり、観るべき光がなければ敵となるのである。四は陰柔で陰位に居り、その位を正しく得ている。纂言はこれを陰の正を得たものといい、従順に効があり、跋扈しないのである。象伝は「賓を尊ぶ」という。賓とは書経の「四門に賓す」とある意味で、敬礼して迎えることだ。この卦は四陰二陽で、剥は五陰一陽である。陰が盛んになって陽を逼迫するため、どちらも勢いは危険である。六四は四陰の首領で、進んで君側に迫るが、五爻は賓客の礼で尊び、礼を厚くするだけで権力は与えない。まさに観を善く処するものといえよう。剥の六五には「魚を貫く。富をもって人を寵すれば、利あらざるなし」とある。この爻と剥の六五を照らし合わせて見ると、その意味がわかる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を占う：目下は盛運に当たり、利益を求めてもよく、名を求めればなお吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を占う：海外へ運送して販売するのがよい。利益を得るだけでなく、名声も得られる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を占う：必ず喜事が門前に至り、近隣にも光を添える。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を占う：必ず大勝し、功を論じて賞を受け、名を史冊に残す。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を問う。不利である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 旅人を占う：帰らない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　妊娠：男児が生まれ、しかも貴い身分となる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を占う：正当な側が勝つ。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治七年、某高官が清国へ渡航することについて占い、観から否へ変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。観は四陰が時を得て、上から二陽を逼迫する卦であり、臣民が勢いを得て君位を犯そうとする象がある。今、四爻を得た。高官が清国へ渡航し、その国と談判する事があるが、必ず君命を辱めず、相手国の王もきっと賓客の礼をもって敬い遇するであろう。「国の光を観る。王の賓となるによろしい」とはこのことである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n その高官は果たして占いのとおり、君命を辱めず任務を全うして帰朝した。","九五：我が生を観る。君子に咎なし。","九五：我が生を観る。君子に咎なし。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「我が生を観るとは、民を観ることである」。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「我が生を観る」は六三と同じ辞だが、意味は異なる。五爻は尊位にあって中正を履み、陽位に最初に現れる一人である。上にある剛陽は観の主であり、四海の内は我によって教化される。治道の盛衰も風俗の美醜も、すべて我から発して広がるので、他人ではなく自分を観るのである。自分の教化が善ければ、天下に君子の風が行き渡り、咎はない。「我が生を観る」とは、中庸にいう「これを身に本づけ、これを庶民に徴す」という意味である。象伝の「我が生を観るとは民を観ること」とは、王者が中国を一人の身とみなし、民心の帰趨がすべて自分から出ることをいう。自分を観ることが、そのまま民を観ることなのである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を占う：目下の運は正道を得ている。正しい道を行けば、何事にも不利はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を占う：私が主意を定めて行えば、売買・運送のすべてによろしい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を占う：この家は必ず私が建て、君子が住むので、大いに吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を占う：まず自軍をよく観察すべきである。いわゆる己を知ってこそ敵を知るのであり、大勝を得られる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を占う：命は天にあり、咎はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　旅人を問う。すぐに帰る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失物を占う：なお身辺にあり、まだ失っていない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 懐妊を占う：貴子が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】友人の某氏が会社の社長に推選されることになり、会社の盛衰を占ってほしいと請うた。筮して観から剥へ変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。この卦の名は観であり、上下が互いに観る意味がある。下が上を観るのは、その威儀を仰ぐためであり、上が下を観るのは、その賢否を察するためである。今、五爻を得て「我が生を観る」とあるのは、返って自分を観ることをいう。自分が善くなければ、どうして人の善を望めよう。自分が善ければ、人の不善をおのずから化することができる。ゆえに人を観るより自分を観る方がよい。今、あなたは社長に選ばれ、一社の主となる。社内のすべての事は、あなた一人から発するのである。まず自ら内省せよ。社員が従うか背くかは皆あなたの向背を見て決まり、社運の盛衰もまたあなたにかかっている。よく自らを省察しなさい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n その人はこれを聞いて努力奮励し、社員も職工も皆その風格に感化された。","上九：その生を観る。君子に咎なし。","上九：その生を観る。君子に咎なし。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「その生を観る。志はいまだ平らかでない」。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 上爻は剛明の才徳を備え、五爻の上に居り、一卦の終わりに位置する。高いが位はなく、その一動一静が人々の注目を集める。すでに人々から観られている以上、自ら「その生を観」ないわけにはいかない。五爻と徳を同じくするので、その観も五爻と同じである。「我が生を観る」は発施する政教を観ること、「その生を観る」は平素の行義を観ることで、少し違いがある。しかし要するにどちらも君子を目指すので、咎はない。象伝の「志はいまだ平らかでない」とは、極みにいる者は危ういということをいう。位はなくても畏れを忘れず、「志はいまだ平らかでない」という語から、その慎み深さと警戒がわかる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を占う：盛運はすでに過ぎた。身を振り返って省みれば、失うものはない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を占う：この種の商品はまもなく品切れとなり、私が値を得て自然に利益を得る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を占う：古い宅地であり、子孫も生業も栄え、利益があって咎はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を占う：軍事はまもなく終わり、すぐに凱旋できる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を占う：寿命は長くない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を占う：すぐに決着する。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　妊娠：男児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治十八年の暮れ、鳥尾得庵君が訪ねて来られ、朝夕『易』の道理について語り合った。私が「『易』の道理は玄妙であり、今日、その道に精通している者は、もはやごくわずかでしょう」と言うと、鳥尾君は「天下は広く、人材も多いのに、どうして一人や二人、理解できる者がいないことがありましょう」と言われた。私は「私が『易』の道理を研究して二十余年になりますが、感応の力は、わずかに咸の初爻に達したにすぎず、いまだその奥義を究めることができません。孔子以来、神明の変化を真に体得した人は、世にあってもその名を聞かれることが少ないのです。このことから見れば、彼此と卜筮を論じ立てる者は、皆その皮相を語っているにすぎません」と答えた。何度か論じ合った後、鳥尾君は「有る無しを論じて言葉を費やす必要はありません。一度占って決めるのがよいでしょう」と言い、占うと観が比に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断に曰く、上爻は卦の外、位のない場所である。この卦の彖辞は、冒頭で神道を説いており、神明にかたどった卦の例である。六爻を三才に配すると、五は天位であり、上爻は五の上にある。これを天子の父、すなわち天という。今、上爻を得たのは、「その生を観よ」という言葉が、私に明らかに内省を教えているのである。私は『易』の道を、果たして少しでも見通せたのか。私自身が見通せない以上、他の人もまたまだ見通せていないと知ることができる。また、時についていえば上爻は未来である。今日そのような人物がいなくても、後世には精妙に理解する者が現れるかもしれない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 鳥尾君はうなずいて言われた。「これによって、今の時代にはそのような人がいないことが分かりますね」。私も試しに一度占ってみることにした。占うと節が需に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 爻辞にいう。「六三。節せざれば、すなわち嘆く」。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「節せざるの嘆き、また誰をか咎めん」。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 今の時代に、真に『易』の道に通じた者を求めるのは、霜月に春の花を探し、暑い夏に冬の穀物を欲するようなものだ。その得られなさは天命であって、人の咎ではない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 『易』の霊妙さは、二度の占いが一つの趣旨を示した。私たちはともに深く嘆息して別れた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】親しい友人が三階建ての家を建てようとして、建築学士に設計図を描かせ、実現できるかを占ってほしいと求めた。占うと観が比に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断に曰く、この卦の彖辞は冒頭に「大観、上に在り」とある。「観」は高殿・楼観の観でもあり、高楼の象を含んでいる。今、上爻を得たので、学士の見識は高く巧みであり、欧米諸国の著名な建築図を手本にして描いたものと分かる。このように建てれば、壮観ではある。しかし、ヨーロッパの風土・気候はわが国と異なるから、家屋の建築もそれに応じて異ならなければならない。建築家はその趣旨をよく理解し、適宜折衷すべきである。わが国は夏を基準に建てるのに対し、かの国々は冬を基準に建てる。したがって、わが国の家屋を西洋式に倣えば、夏は風が乏しく暑さに苦しみ、冬は日光が乏しく寒さに苦しむことになる。その他、事務室などでは、昼間でも明かりを消せない部屋が生じることもある。この建物が完成した後、食い違いが生じ、改造や変更を重ねることになる恐れがある。ゆえに象伝は「その生を観よ、志はいまだ平らかならず」と言うのである。",null,"周易、易経、高島易断、第20卦、風地観、六十四卦、卦辞、爻辞、占断",1787044936278]