[{"data":1,"prerenderedAt":28},["ShallowReactive",2],{"metaeast_zhouyigaodaoyd_ja-gaodaoyiduan-52":3},{"slug":4,"archived":5,"date_created":6,"date_updated":7,"title":8,"seotitle":9,"seodescription":10,"htmlcode":11,"number":12,"content":13,"title1":14,"content1":15,"title2":16,"content2":17,"title3":18,"content3":19,"title4":20,"content4":21,"title5":22,"content5":23,"title6":24,"content6":25,"title7":26,"content7":26,"seo_keywords":27,"og_title":8,"og_description":10},"gaodaoyiduan-52",false,"2026-08-11T01:18:28.408Z","2026-07-04T14:35:17.000Z","艮為山。艮はその背に止まり、その身を得ず。その庭を行きても、その人を見ない。咎なし。","高島易断 第52卦 艮為山_卦辞原文と卦の解説_東方玄学庫","高島易断第52卦・艮為山の解説：卦辞「艮。其の背に艮まり、其の身を得ず。其の庭を行き、人を見ず。咎なし」と、断辞および実占例の詳しい解説。","&#19955;",52,"艮。その背に止まり、その身を得ず。その庭を行きても、その人を見ない。咎なし。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 52　艮為山 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 艮は陰二爻と陽一爻から成り、地の体を得ている。坤の上爻が変じて乾となるため、乾の最上位の陽爻を得る。乾は天であり、本来動くものだが、天の最上爻は動きの極みに達して静となるので「止」を表す。陽一爻が坤地の上に高くそびえるため、山の象となる。卦は震と反対である。震は内から陽一爻が起こり、艮は外で陽一爻が塞ぐ。内から起これば動き、外で塞げば止まる。序卦伝にいう。「震は動くことである。物はいつまでも動き続けることはできない。止めるものとして、これに艮を受ける。艮は止である。」これが艮が震に続く理由である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 艮［60］。その背に止まり、その身を得ず。その庭を行きても、その人を見ない。咎なし。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 艮の卦は、上に一本の奇爻が高くそびえ、下に二本の偶爻が分かれて並ぶ。上の奇爻は人の道を象徴し、下の二偶爻は人の身体を象徴する。人は頭から下の前面、眉目や手足が二偶で表されるが、背骨だけは背中をまっすぐ下る奇となる。だから眉目や手足は動くが、背は動かない。動かないのが艮であり、艮は止である。ゆえに「その背に止まる」という。人は顔を向け合って初めて会う。背に止まれば互いに背を向けて会わない。背は後ろ、身は前にあるので「その身を得ず」という。艮は門庭である。心が背を向ければ、行動も背を向ける。背を向ければ出会わず、出会わなければ必ず見ない。だから「その庭を行きても、その人を見ない」という。いずれも背から意味を取っている。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 彖伝にいう。艮は止である。止まるべき時には止まり、行くべき時には行く。動静ともに時を失わなければ、その道は明らかである。止まるべきところに止まるとは、定まった所に止まることである。上下は敵応して交わらない。だからその身を得ず、その庭を行いてもその人を見ない。咎はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦は上下とも山であり、二つの山が並び立つ象である。二山が並び立てば互いに行き来せず、これが止の象である。人はただ静を止、動を行と見るが、静にも静の止があり、動にも動の止があることを知らない。止むことは止むことであり、行くこともまた止である。「所」とは止まる場所が定まっていること、「時」とは止まる場所が一定しないことである。止まることが時にかなえば、その時そのものが止まる所となる。一見定まりがなくても、実は定まっているのである。艮の三爻と上爻の陽は、乾の三爻と上爻の陽と同じである。乾の三爻は「時とともに行う」といい、乾の上爻は「時とともに極みに至る」という。静かに閉じ、動いて開くことは、太古からその時を失ったことがない。天の時を失わなければ、天の止もその所を得る。だから止まることも、行くことも、動くことも、静まることもでき、少しの妨げもない。これが光明の根本である。人がその所に止まることができれば、人と天が一つになり、心身は自然に明るくなって障りがなくなる。これが『大学』のいう明徳の趣旨である。止まる所を知り、定まり静まることを経て、思慮して得るに至れば、自然に時とともに進退できる。「明徳を明らかにする」という本体が働きとして現れるのであって、仏教の「虚無寂滅」の教えが借りて託すものでは決してない。「上下は敵応して交わらない」とは、応は必ず一方が剛、一方が柔でなければならず、双方とも剛、または双方とも柔なら「敵応」となる。「敵応」とは応がないことだ。八純卦はすべて爻が応じないのに、ひとり艮についてこのようにいうのは、艮が山を重ね、止まるべき所に止まり、険しく向かい合って互いに交わらないため、止の義を得るからである。『音会』によれば、「身の北側を背という」。背は耳目の届かないところなので、内には身を見ず、外には人を見ない。だから「その身を得ず、その庭を行いてもその人を見ない」という。互いに交わらず止まるので、止まることに咎はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を人事に当てはめると、『彖伝』が「背」「身」「見る」といい、いずれも人体に取った象である。また「行く」「止まる」「動く」「静まる」というのも、ほかならぬ人事をいう。人事には、動から静に入るものもあれば、静から動に入るものもある。静から動へ移るのは震である。震は上に二陰、下に一陽が発するので、陽の動きである。動から静へ移るのは艮である。艮は下に二陰、上に一陽がそびえるので、陽の止まりである。陽が止まるとは、静であって単なる静ではなく、動であって単なる動でもない。静がないのでも動がないのでもなく、時に動き、時に静まり、止まるべきときには止まり、行くべきときには行く。だから動静において貴いのは、「その時を失わない」ことである。老子が玄を説き、仏家が無を説くように、ただ静をもって動を制し、枯れ果てた断滅の境へ逃れるなら、その道は必ず暗くなり、明らかでなくなる。これは陰で陽を止め、止めるべきものを止めるのであって、艮の止め方ではない。艮の止まりは、時をよく見きわめ、その場所を得るものである。ゆえに陽が陰を止めるのである。艮の上の一画は乾となり、乾は明を表す。三爻から上は離の象で、離は光を表す。ゆえに「その道は光明である」という。卦爻の上下は互いに応じないので、「相与せず」という。相与しなければ、互いに引き動かすものもなく、見ても見ないように、聞いても聞かないようになる。人が見聞に動かされなければ、天下の事に対して思い煩うこともない。そこで背を得て、もはや身を得ず、行動は自分にあり、もはや他人を見ない。このように人事に処すなら、人事にどんな咎があろうか。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦を国家に当てはめると、「艮は止まる」という。暴力を止め、乱れを平定するのである。艮は下に二陰が伏しており、密かに不軌を企てる意を含むが、上に一陽があってこれを抑え、二陰がひそかに動くことを許さない。だから止まるのである。「背」とは、見えないものをいう。「その背に止まる」とは、まだ見えない時に止めること、つまり乱れが芽生える前に先んじて防ぐことである。したがって、止める働きは時を得ることにあり、止まる象は人体から取る。人体は陽気の集まるところであり、背は陰に属する。陰は暗く、陽は明るい。陽をもって陰を止め、止める場所を得ているから、「その道は光明である」という。聖天子が陽位に出て政治を執り、群陰が退いて伏し、止まって動かない。すべてが明るい天下のもとで、知らぬ間に感化されていく。これがその象である。六爻は初爻が四爻に応じ、二爻が五爻に応じ、三爻が上爻に応じる。多くは上が動けば下が応じ、下が動けば上が応じ、互いに引き合う。ただ八つの純卦だけは上下が一体なので、互いに応じない。艮は「山を重ねる」という。山には前と後ろがあり、人にも身と背がある。前の山は後ろを見られず、人は自分の身から自分の背を見ることができない。これが、互いに交わらないということである。だから「その身を得ず、その庭を行くも、その人を見ない」といい、咎がないのである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n この卦全体を、説文の説に従って見ると、艮は本来「かたい」「たけし」という意味で、「匕」と「目」から成る。匕目とは、目を上に向け、下を見ない形である。これは、強情で前へ進まない意を表す。六書本義では、匕から成り、二つの目を並べた形を取るという。艮の彖伝が「艮は止まる」というのは、まさに強情で進まないという意味である。「その人を見ない」とは、目を上に向けて下を見ない象であり、艮が山を並び立てるのも、二つの目を並べた象を取ったのである。要するに、一動一静は天地自然のふいごであり、一行一止は人身に定められた枢機である。卦体は、一陽が二陰の上に止まる形で、外は実、内は虚、内に陰の虚があり、外を陽の実が覆う。これは人が北を向いて背を立て、内を見、内を聞くようなものである。だから「その道は光明である」という。卦位では艮と震が互いに因果となる。震は艮の止まりによって生じ、艮は震の動きによって生じる。天下には、止まらない動きもなく、動かない止まりもない。止まってから動くので震が艮に先立ち、動いてから止まるので艮が震に続くのである。六爻の象はすべて人体から取る。初爻は「趾」、二爻は「腓」で、ふくらはぎ、後ろにある部分である。三爻は「背骨」、四爻は「身」。心を言わないのは心が前にあるからで、背を言わないのは背骨がすでに背を表すからである。五爻は「あごの支え」で、顔そのものではなく、その横の支えをいう。上爻は卦の外にあるので、何を止めるかを言わず、「厚く艮す」といい、山がさらに高くなる象を表す。爻象を見ると、内側の三爻は外側の三爻ほど吉ではない。二爻は「心快からず」、三爻は「心を薫す」といい、初爻だけがなお利を得る。四爻は「咎なし」、五爻は「悔い亡ぶ」、上爻は「終わり厚し」という。だから艮は外側の爻ほど吉が多い。天下の事は、終わってよく止まるなら、善くないものはない。大切なのは、止まる時を得ることである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。山を重ねるのが艮である。君子はこれにならい、思いを自分の立場から外へ出さない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 卦象では、一つの山の外にさらに一つの山があり、二山が向かい合い、その勢いが連なっている。だから「山を重ねる」という。八つの純卦はすべて上下が一体で、互いに連絡している。ただ艮だけは上下二つの山が、それぞれ自分の場所に止まり、行き来しない。これが艮の止まりである。君子は艮の象にならう。艮にとって山が止まる場所であるように、人にとってはその地位が止まる場所である。よく考えても、決してそこから外へ出ようとはしない。これは中庸にいう「その位に素して行い、その外を願わない」ということである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。時運は平々凡々。退いて守るのがよく、みだりに動いてはいけない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う。各々が境界を守るべきで、領外へ進もうなどと考えてはならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を問う。本業を堅く守るのがよく、思いがけない財を貪ってはならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 功名を問う。旧来を守るのがよく、幸運を当てにして無理に出世を求めてはならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う。この家は場所が狭いが、むやみに改築してはならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻を問う。縁は前世から定まっている。富を欲しがり、貧しさを嫌ってはならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を問う。曲がったことを正しいことにしてはならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失せ物を問う。元の場所を探せば、見つかる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を問う。「止まる」とは終わりを意味する。病を抱えたまま、ただ寿命を延ばすだけである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。","初六。つま先を止める。咎はない。長く正しさを守るのがよい。","初六。つま先を止める。咎はない。長く正しさを守るのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。つま先を止めるとは、まだ正しさを失っていないことである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 艮の初めにあって、つま先の位置に当たる。人が動くにも止まるにも、必ずつま先から始まる。だから心を止めようとするなら、まず身を止め、身を止めようとするなら、まずつま先を止める。つま先が止まれば、みだりに動かず、みだりに動かなければ、止まるべき所に止まって失うものがない。ゆえに「咎なし」という。吉凶・悔吝は、たいてい動きから生じる。つま先を止めるとは、動きの初めを止めることであり、人欲が芽生える前に抑え、天理が現れる前に保つことである。初めに計ったことこそ、長く守らなければならない。だから「長く正しさを守るのがよい」という。象伝の「まだ正を失っていない」とは、陰が陽位にいるため位は正しくないものの、止まるべき所に止まっているので、初めの基礎は正しいという意味である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。運の道は始まったばかり。着実に守って進み、みだりに前進しなければ、自然に咎を免れる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う。軍を山麓に置き、静かに守るのがよく、みだりに動いてはならない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を問う。足るを知るべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 功名を問う。初歩は小さくても、正道を失わない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う。この家は山麓近くにあり、長く住むことができ、咎はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻を問う。末永く仲むつまじく、咎はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を問う。足の病で歩きにくく、しばらくは治りにくい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を問う。正しさを失っていないので、咎はない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 行人を問う。足が動かせないため、しばらく帰ってこない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失せ物を問う。必ず失ってはいない。地面の人目につかない所を探すとよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 六甲を問う。女児が生まれる。足の病に注意すること。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十四年、某大臣の運勢を占い、艮が賁に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。艮は二つの山が並び立つ卦であり、二山が並び立てば前へ進めない。止まって動かない象である。今、貴下が運勢を占ってこの初爻を得た。「趾」とは足の指である。人が動くときは足が前に出る。「その趾を止める」とは足の指が動かないことであり、全身もそれにつれて動かなくなる。これは象伝のいう「君子は思いをその位から出さない」という意味である。貴下は長く正道を守り、今の爵位を保つべきで、さらに任用や昇進を求める必要はない。もしみだりに動けば、咎を免れないだろう。","六二。ふくらはぎを止める。従うものを救い上げられず、その心は快くない。","六二。ふくらはぎを止める。従うものを救い上げられず、その心は快くない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。従うものを救い上げられないとは、退いて命を聞くこともまだできないということである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「腓」は本義では足のふくらはぎ、正字通ではすねの後ろの肉という。腓は趾の上にあるので、二爻の象となる。咸の二爻は「その腓に感じる」といい、咸は感応を主とする。艮の二爻は「その腓を止める」といい、艮は止まりを主とするので、安らかに静まり動かない。しかし趾も腓もともに動く部分で、本来は止まりたくない。止めるべきなのは心である。心が止まろうとすれば趾は止まらざるを得ず、趾が止まれば腓もそれに従う。だから腓は趾に従って動き、また止まるものなのである。「拯」は助けること。「その随を拯わず」とは、三爻の「限」が上にあって、かがんで聞こうとしないことをいう。趾と腓が連れ立って動くので、二爻の心は「快からず」となる。象伝の「退いて聴かず」とは、その動きを救うこともできず、退いて命を聞き、その止まりに従うこともできないという意味である。だから心が快くないのである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。運の道に障害がある。足を包んで前へ進まず、心のままに動いてはいけない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う。止まるとは進まないこと。堅く守って動かず、しかも外からの援軍もないので、心配が募る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を問う。商品が止まって売れず、大いに憂うべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 功名を問う。一寸も進めず、しかも大きな後ろ盾の助けもないので苦しむ。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を問う。「腓」には衰える意もある。詩経に「草木みな腓る」とあるのは、秋風に傷められることをいう。この病も秋の病に違いなく、薬の力では救えない恐れがある。大いに心配である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻を問う。「腓」には避ける意もある。避けて、縁を断つのがよい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】友人石坂氏の依頼に応じ、鉱山の件を占い、艮が蠱に変じた。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。艮は山であり、腓は山のふもとの上にある。彖伝が「その背に止まる」というように、背は身の後ろであり、爻が取る象もすべて後ろにある。鉱山について占ってこの爻を得たので、鉱脈の穴は山の背側にあるとわかる。初爻は趾、二爻は腓であり、腓は趾の上にあるから、その穴は股の下、足の上にあるとわかる。「艮は止まる」とは、事についていえば停止を意味する。趾や腓は本来動くことを好み、止まることを好まないので、止まると出れば、その心は必ず快くない。今、まず言い出した者が停止を提案し、従う者も救う力がないので、退くのがよい。五爻の「悔い亡ぶ」を待ち、その助けを得てから再び関わるべきである。爻数から見れば、三年後になる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【例】明治二十七年冬至、戦後の情勢を占い、艮が蠱に変じた。これを内閣総理大臣に呈した。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断にいう。卦体は山に取り、卦象は身に取る。身は本来動くものだが、山は止まって動かない。また艮は震と反対で、震は動き、艮は止まる。これは、動きが極まって止まるということである。今、戦後の情勢を占って艮の二爻を得た。初爻は趾、二爻は腓である。腓は趾より上に進み、曲げることも伸ばすこともでき、その動きは特に強く、力も勝る。戦後の情勢についていえば、以前よりいっそう強くなる象である。戦後、多額の賠償金を得て、従軍した兵士たちは皆、自分たちの武威を誇り、しばしば文官を見下すようになった。朝廷の大臣たちは全局を考え、この賠償金で軍備を拡張することを第一としなければならないが、軍人の心に従うことはできない。そのため軍人の心はどうしても快くない。さらに序卦伝は「艮は止まる」という。大戦の後は休養すべきで、焦って動いてはならない。古人は武器を止めることを「武」と呼んだが、これがその証である。武士の心はもともと動きを好み、静けさを好まない。止められて動けなくなれば、多くが鬱々として楽しまないのも当然である。腓の動きを見れば、腓が自ら動くときは心が動かしている。武士が動く場合も、武士自身が自由に決められるのではなく、朝廷がそうさせるのである。ここは朝廷が静かに鎮めて統御すべきところである。","九三。腰で止め、背骨を裂く。危うい。心を苦しめる。","九三。腰で止め、背骨を裂く［61］。危うい。心を苦しめる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。腰で止めるとは、危険が心を苦しめることである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「限」とは門の敷居、内と外との境界である。三爻では内卦と外卦の間に一画が横たわるので、敷居の象となる。「裂」とは分かつことをいい、虞氏本では「裂」とする。「夤」は「脢」と通じ、馬氏は「背骨の両側の肉」と説く。咸卦五爻には「脢」とあり、易伝は「背にあるものを脢という」といい、鄭氏は「脢は背肉である」とする。したがって夤と脢は字は異なるが、意味は同じである。「薰」は「熏」と通じ、焼き焦がす意である。艮卦三爻の「限」は、身体の上下を隔てて通じなくする。その結果、心と背が二つに分かれ、門の敷居が内外を隔てるようになる。これは仏教でいう「心を降伏する」ことである。心を力ずくで抑えようとすれば、心は火であるから、その火が上へ燃え上がり、胸中のわずかな空間を激しく焦がす。消すことができなければ、心は危うくなる。詩経に「憂える心は燻る」とあるのはこのことである。しかし、心はもともと空しく霊妙で、物に感じてすぐに通じるものではないか。咸卦の「その背肉に感じる」と艮卦の「その敷居に止まる」とは、一方が感じ、一方が止まるだけで、本来二つの道ではない。彖伝のいう「時に止むべきなら止まり、時に行くべきなら行き、動静ともに時を失わない」ということである。心の自然に任せるべきで、隔絶を止めることと考えてはならない。隔絶して止めるのは心を定めようとすることだが、かえって心を危うくする。心を力で制することなどできようか。人の身体は、脈絡・血気が上下前後を必ず巡り通じ、滞るところがないからこそ、心もおのずから安らかである。もし上が下らず、下が上らなければ、脈絡は通じず、血肉は裂ける。心が安らかでいられようか。ゆえに「危うい」という。象伝が「厲」を「危」と改めるのは、「危」の方が「厲」よりいっそう恐るべきだからである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。運の順逆にかかわらず、時に従うべきであり、無理に抑えつけるのは危うい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う。両軍が対峙して、それぞれ境界を争っている。どうして境界線を引いて守るだけで済もうか。守勢に固執する者は危うい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を問う。商品は流通してこそ利益が得られる。まして今日の万国通商では、輸出入を互いに取り引きしている。もし鎖国して自ら限界を設ければ、必ず貧困に至る道であり、非常に危うい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 功名を問う。一芸だけを固く守る者は、決して大器ではない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う。家を治めるには内外の出入りを厳格にするのがよいが、隔絶してはならない。隔絶すれば金財が通じず、家運は危うくなる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻を問う。婚姻は本来、天の結び合わせによるものだ。もしただ家柄の門戸に固執すれば、二つの姓を結ぶ喜びは成就しない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 疾病を問う。上下が通じず、血脈も通らない隔ての病であり、病勢は危うい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 訴訟を問う。上下の情が通じず、曲直を分けるのが難しい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 懐妊を問う。女児が生まれるが、難産に注意せよ。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【事例】ある人が、ある高官の運勢を占ってほしいと訪れ、艮が剝に変わる卦を得た。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じていう。爻象は血脈が通じず、心と背が裂けることを示し、勢いはかなり危うい。今、貴下が運勢を占ってこの爻を得たのであれば、政府の内外において、貴下は人々との情誼が合わないことが多いと知れる。その原因は、地位が高くなりすぎ、人との往来を軽んじたことにある。そのため勢力は隔絶し、情意も通じず、ほとんど孤立するに至っている。才智があっても、それを発揮する場がなく、この身は危うい。爻辞の「その敷居に止まり、その背肉を裂く。危うい、心を燻す」とは、まさにこの象である。貴下は旁らに咸卦の道を求めるべきだ。咸卦五爻には「その背肉に感じる」とあり、そうすれば悔いはない。","六四。身に止まる。咎なし。","六四。身に止まる。咎なし。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「身に止まる」とは、自分自身の身に止まることである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 「身」とは全体としての人をいう。これを分けていえば、一身にも上下の区別がある。六四は下卦の上、上卦の下に位置し、心の位、すなわち一身の中央に当たる。陰柔で正位にあり、上には六五が比しているので、「止まるべき所に止まり」、身を清く保つことができる。天下全体を善くすることはできなくても、自分自身を善くすることはできる。内卦の三爻に比べれば、やや優れている。ただし陰が陰位に居るので、大きな働きをする力には乏しく、わが身を天下の模範とするだけである。ゆえに「身に止まる。咎なし」という。三爻は心をいい、四爻は身をいう。心は虚、身は実であり、人は虚を内に含みながら実践すべきである。そうしてこそ、仏教的な虚無の弊に陥らない。象伝が「その身に止まる」と解するのは、躬も身の意だからである。身をもって心を止めることは、大象のいう「思い、その位を出でず」に当たる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。運は柔順で、自らを保てば咎を免れる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う。進攻や勝利は望みにくいが、わが身に傷敗がなければ、何の咎があろうか。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を問う。本金を守るだけである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 功名を問う。得もなく失もない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う。安居して咎なし。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○　婚姻を占う。平凡である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 病気を占う：病を抱えながら余命を保つ症状である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 失物を問う。まず身の回りを探せ。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【事例】明治二十年、ある高官の運勢を占い、艮が旅に変わる卦を得た。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じていう。四爻は上下の交わりの間にあって、心の位に当たる。心は内、身は外であるから、「身に止まる」とは身心を兼ねていうのである。しかし艮は止を主とし、止まれば事をなさない。功を立てるには足りず、ただ咎を免れることを求めるだけである。今、貴下が運勢を占って艮四爻を得た。爻辞の「身に止まる」は、身を保ち命を安んずる象である。四爻は尊位に近いので、貴下の爵位はすでに顕れていると知れる。職分を慎んで守り、朝夕怠らず、一身の声望・禄位を保全して、この太平の福を安らかに享受すべきである。何の咎があろうか。大象のいう「君子は思い、その位を出でず」とは、まさに貴下に当てはまる。","六五。頬に止まる。言葉に秩序があり、悔いは消える。","六五。頬に止まる。言葉に秩序があり、悔いは消える。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「頬に止まる」とは、中正を得ているからである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 五爻は外卦の中央にあり、その左右に二つの陰爻が並ぶので、頬の象がある。咸卦上爻に「頬は口を動かして喜ばせるもの」とあり、頬は言葉を発するところである。「頬に止まる」とは、言い誤りをしないことをいう。君子の道は、言葉が少なければ悔いも少ない。「頬に止まる」とは、頬を止めて一言も発しないことではない。ただ時を得てから言うのである。時を得て言えば、言葉には順序がある。黙るべき時には黙り、語るべき時には語る。語黙ともに時を失わないので、悔いがなくなる。象伝が「中正」で解するのは、上爻が中正を得ているからこそ、「言葉に順序があり」「悔いがない」という意味である。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。運は中正を得ており、悔いも憂いもない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う。行軍中は、流言や妄言を広めて軍心を乱すことを最も忌む。「頬に止まる」とは妄言を慎むことであり、そうすれば号令は厳明になり、向かうところ敵なしである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を問う。商況は軍情に似ており、情報を漏らしてはならない。「頬に止まる」とは、言葉が要点を得ることである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 功名を問う。巧みな言葉は退けられ、正しい直言は取り上げられる。言葉が中正であれば、立ち話だけで卿相に抜擢されることもある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う。この家は中正の位置を得ており、住んで悔いはない。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻を問う。仲人の言葉には虚言が多いので、聞く側は慎むべきである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 疾病を問う。歯を食いしばって口から声が出ない症状であろう。声が出るようになれば、病は治せる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【事例】明治二十四年十一月、貴族院議員日野西公と神道総裁稲葉正邦が来訪して言った。「今年の春、悪疫が流行し、三条相国以下、二、三人の元老が相次いで急逝した。まことに国家の不幸である。その後まもなく大津の暴挙、濃尾の震災、さらに伊勢神宮の庭燎が風もないのに突然消えるということまで起こった。これらはいずれも思いもよらぬ凶変で、古来まれに聞くことであるのに、今年に限って重なって現れた。国家が興る時には必ず祥瑞があり、国家が滅びる時には必ず妖異があるという。これはその兆しではないか。恐れずにいられようか。今、議会の開設が近づいており、上下の臣民が最も注目している。どうか一占して、議院の興廃を見ていただきたい。」私は答えた。「私は昨年十二月にすでに占い、爻辞を松方総理と宮内大臣土方公らに提出した。その卦爻は、艮が漸に変わるものであった。」 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じていう。大象は「山を兼ぬ」といい、二つの山が並び立って往来を阻み、上下が通じない象である。今、衆議院を占って艮の五爻を得た。爻辞の「頬に止まる」とは、衆議の口を止め、根拠のない言葉がみだりに上聞に達しないようにすることである。「言葉に序あり」とは、議員の発言が秩序正しく整ってこそ、聞き入れられるという意味である。爻象は、今回の議論では無礼な発言が多く、政府を困らせようとする者が現れ、ついには勅命によって解散されることを予告しているようであり、それは勢いから見て避けがたい。たとえ議論がすべて秩序正しくても、「悔いなし」にとどまり、功を立てるには足りない。衆議院の兆しはこのようなものである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 両公はこれを聞いて大いに感じ入り、十二月になると、衆議院は果たして勅命によって解散された。","上九。厚く止まる。吉。","上九。厚く止まる。吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 象伝にいう。「厚く止まることの吉」とは、厚みをもって終えるからである。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 上爻は艮の終わり、すなわち止まることの極みにある。「敦」とは厚くすること。泰山は土壌を退けないからこそ高くなるというが、これが敦厚の意味である。上爻が敦厚をもって自らを止めるので、吉を得る。艮六爻のうち、吉をいうのは上爻だけである。艮の道は上爻によって尽くされるからである。この心を固く守り、止まるべき所を知れば、山のように厚重で、動かすことも揺るがすこともできない。これ以上の吉はない。象伝が「厚く終える」と解するのは、厚く止まれば安らぎ、厚みをもって終えるほどますます厚くなるという意味である。艮が「終わりを成す」のもこの厚さにあり、「始めを成す」のもまたこの厚さにある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 　　【占い】 \u003Cbr> \n ○ 時運を問う。運はここまで来れば、もはや進む余地がない。ただ厚みをさらに加えることで、吉を得る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 戦争を問う。地位はすでに極みに達している。肝要なのは兵力をさらに充実させることで、必ず吉を得る。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 商売を問う。上等な商売で、値は高く品はよく、利益は必ず大きい。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 功名を問う。必ず上位に選ばれる。吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 家宅を問う。代々忠厚な家柄で、吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 婚姻について問う。吉。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 疾病を問う。もともと体が丈夫なので、薬を用いなくても快方の兆しがある。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n ○ 妊娠について問う。女児が生まれる。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 【事例】明治二十七年三月、ある高官が来訪し、運勢を占ってほしいと求め、艮が謙に変わる卦を得た。 \u003Cbr> \n  \u003Cbr> \n 断じていう。上爻は重なる艮の極、すなわち兼山の頂にある。山は厚重を本体とし、高くなるほど厚くなる。ゆえに卦全体の意味は上爻に帰結し、上爻だけが吉を得ている。これは晩年の運が通達することを示す。今、貴下が運勢を占って上爻を得た。貴下は人民の上に立ち、爵位は高く、人々から仰ぎ見られて、まさに山のようである。しかも常に忠厚の心を抱き、権勢をもって人を侮ったことがない。「敦」とは厚いこと、「艮」とは止まることである。貴下は止まるべき所に止まり、厚みにさらに厚みを加えるべきである。自分に対しても人に対しても、吉を得ないことはない。大運の盛んなことは、ここに明らかである。",null,"周易、易経、高島易断、第52卦、艮為山、六十四卦、卦辞、爻辞、占断",1787044936489]