高島易断 · 卦ごとの解説

高島易断 · 易経 第 48 卦 水風井。井は、邑を改めても井は改めない。失うものも得るものもなく、往来する者は皆井を用いる。あと少しで汲み上げるところなのに、まだ縄を井戸へ下ろしていない。瓶を壊せば凶。

水風井。井は、邑を改めても井は改めない。失うものも得るものもなく、往来する者は皆井を用いる。あと少しで汲み上げるところなのに、まだ縄を井戸へ下ろしていない。瓶を壊せば凶。

井。邑を改めても井は改めない。失うものも得るものもなく、往来する者は皆井を用いる。あと少しで汲み上げるところなのに、まだ縄を井戸へ下ろしていない。瓶を壊せば凶。

48 水風井

この卦は上が坎、下が巽である。巽は風を表し、また木を表す。風はよく入り、木はよく出る。巽が坎の下にあるので、水中に入り、しかも水を汲み出すことができ、桔槔の象となる。坎は水を表し、また穴を表す。地中の穴から水が出るのが井戸である。卦は困から来る。困では沢が涸れて「水なし」となるが、その反対なら水がある。坎はまた平を表し、水面ほど平らなものはない。これがこの卦を井と名づける理由である。

井。邑を改めても井は改めない。失うものも得るものもなく、往来する者は皆井を用いる。あと少しで汲み上げるところなのに、まだ縄を井戸へ下ろしていない。瓶を損なえば凶。



▲ 金文「井」

「井」とは通じるもの、万物が共に用いるものをいう。古代、都邑を建設するときは、必ず井戸を掘って民を養った。たとえ邑を移し改めても、井戸の制度は改めなかった。人は井戸から養いを得るが、そのために井戸が損なわれることはないので「失うものなし」という。井戸は人を養うが、その功を自ら得ることもないので「得るものなし」という。ただ行く者が行き、来る者が来るのを見て、井戸から養いを得た人は井戸に功を帰すことがない。「繘」は物を下へ引くためのもの、「瓶」は水を入れて上へ運ぶためのもの。まだ縄を下ろしていないのに瓶が壊れれば、井戸は空しく設けられ、縄も空しく宙に垂れるだけである。だから「凶」という。

彖伝にいう。巽は水に入り、水を上げる。井は人を養って尽きることがない。邑を改めても井は改めないのは、剛が中にあるからである。あと少しで届くのに、まだ縄を井戸へ下ろしていないのは、まだ功がないからである。瓶を壊すので凶となる。

巽の木が水に入るので、桔槔の象を取る。『荘子』によれば、木を削って器械を作り、後ろを重く前を軽くし、水を挙げることは水を引き出すようで、その名を桔槔という。井戸の上で水を回して汲む轆轤であり、「巽は水に入り、水を上げる」と言うのである。巽は縄を表すので繘の象となり、坎は空を表すので瓶の象となる。縄で瓶をつなぎ、水を引き上げるのである。井戸には水があり、汲んでも尽きないので「井は養って窮まらない」という。三陰三陽の卦体はもと乾・坤から来る。坤は邑を表し、坤の五が坎に変わると井となる。井が成れば坤の邑は変わるが、坎の井は変わらない。ゆえに「邑を改めても井は改めない」という。伝がいう「剛中」とは坎の彖伝に由来し、坎の五の「満たず、ただ平ら」という意味である。井が井である根拠はここにある。しかし井戸は自ら人を養うことはできず、汲み取る者があって初めて養いの功が現れる。繘は水を下へ引き、瓶は水を満たして上へ運ぶ。繘と瓶は汲水の要具である。井戸に届いても縄を下ろさなければ、井戸は空しい設置となり、何の功があろうか。瓶まで壊れれば縄も役に立たず、凶は明らかである。「汔」はほとんど、「繘」はつるべ縄、「羸」は鉤の付いたつるべをいう。繋辞伝に「井は徳の地なり」とあるのは、その養いを取ったのである。井戸が尽きることなく養うのは、王者の政治が民を養うことのたとえである。井戸を汲むのは水を得るため、政治を行うのは民を得るためである。途中でたちまち止まり、全功を捨ててはならない。孟子が、井戸を掘って泉に届かなければ、なお井戸を捨てたのと同じだと言ったのも、まさにこの趣旨である。

この卦を人事に当てはめてみると、「井」は節制を意味する。井戸は水を節して養いに備えるものであり、人が財を節して用に備えるのと同じである。国には治乱があり、邑はそれによって変わるが、井戸はそこにあり続ける。人が水を汲んでも、汲まなくても、それによって得失が生じるわけではない。「井」にとって得失は本来関わりがないのである。人が財を扱う場合も同じである。他人のために財を捨てた人の話は聞くが、財のために人を捨てた人の話は聞かない。奪い取って去る者は財を求めて去り、喜び勇んで来る者は財を求めて来る。財は地中にあり、人が任意に取っても尽きることがない。水が井戸にあり、人が任意に汲んでも枯れることがないのと同じである。しかし、水を汲むには手ぶらで行くことはできない。卦体では下に坎の水、上に巽の木があり、坎の水は井戸、巽の木は桔槔を表す。また巽は縄でもある。互卦の離は瓶、兌はその口、すなわち井口を表す。これは、桔槔が縄で瓶を引き、井口から下ろして水を汲み上げる象である。彖伝のいう「水に入りて水を上ぐる」は井の象であり、場所が変わっても改まらないのが井の徳である。ところが、井戸の縄がまだ下ろされていなければ水を上げることができず、井戸は功をなさない。瓶がすでに弱っていれば、井戸に落ちようとして、汲む者に凶となる。彖は井について述べているが、単に井戸だけを述べたのではない。天下の事で、その源を節して流れを通じさせるものは、すべて井の道理で見ることができる。卦では坤の五爻が坎に変じ、乾の初爻が巽に変じている。乾は働きを表し、役立つものは財、生活を厚くするものは養であり、いずれも人事の要である。養うべきものを持ちながら、何を養うべきかを知らなければ、井戸はほとんど空の器となる。財を持ちながら、その用い方を知らなければ、財はついに空しく浪費される。これは財の過ちではなく、人が善く取れないことの過ちである。だから君子は「民を労し、相助を勧め」、天下の源流を通じるのである。

この卦を国家に当てはめると、「井」とは養うことをいう。民が何によって養われるかに従って民を養うのであり、井戸自身は自分が養っていることを知るわけではない。王者は徳によって民を養い、民が利益とするものに従って民に利益を与えるが、王者は利益を口にしたことがない。巽は入ること、坎は信、井は静を表す。入るから通じ、資源が尽きない。信だから深く、変化しても移らない。静だから安らかで、応じても疲れない。これが剛中の徳である。君子は井の徳にならい、淵のような深さによって自己を修め、汲み上げて養う力によって民に恵みを施す。己を推して民に及ぼせば、利益はあまねく行き渡る。しかし君子がこの徳を備えていても、遇うか遇わないかは天に任せるほかない。井戸には人を養う力があっても、汲むか汲まないかは人にかかっている。その間には得もあれば失もあり、吉もあれば凶もあるが、それは人が自ら招くものである。君子の徳は、決してそのために変わることはない。水を汲む器には縄と瓶があり、縄は下り、瓶は上がる。その仕組みは非常に敏捷である。これを捨てて用いなければ、器は廃れ、井戸も廃れる。政治の道具は徳と礼にある。徳によって導き、礼によって整えれば、その化は神妙である。しかし、これを緩めて張らなければ、道具が壊れ、政治もまた壊れる。だから易を作った者は、功をなさないことを戒め、凶があることを警告したのである。それは、完成を目前にして功績を荒廃させる者を、深く惜しんだものでもある。

この卦を総合して見ると、「井」は「困」の反対である。序卦伝には、「上で困窮したものは必ず下へ返る。ゆえにこれを受けるのが井である」とある。雑卦伝には、「井は通じ、困は相遇する」とある。位を易えれば「渙」となり、渙の伝には「木に乗れば功あり」とある。井が舟ではなく桔槔を取るのは、いずれも巽の木を用いるからである。旁通は「噬嗑」であり、噬嗑は養うことを意味し、井の養いの義を含む。下卦は「革」で、革は改めること、「邑は改まるが井は改まらない」という象を持つ。要するに、井は井戸であり、汲んでも尽きない。その用は養いを取ることにあり、場所を得ても変わらない。その徳は剛が中にあることにある。汲むか汲まないかにかかわらず、井戸そのものには得失がない。一人が汲めば、別の人も汲む。ただ人の往来に任せているだけである。それなのに縄を捨て、瓶を弱らせ、井戸は食用にならないと思うなら、自ら井戸を捨てたことになる。井戸には咎がなく、汲む者が凶となるのである。卦全体の象は坎を主とし、井戸の中を表す。陰の虚は水を汲み出す口である。初爻は陰で下にあるから「井泥」。二爻は陽を承けるが坎の象がないから「敝漏」。三爻は位を得て上爻に応じるから「福を受ける」。四爻は徳を修め過ちを補うから「井甃」。五爻は陽剛・中正なので美しい泉となる。上爻は養いの功を完成するから「井収」となる。卦の時で論じると、巽の初めは春夏の境に当たり、水が増して濁るので井に泥がある。二爻は離の夏に当たり、水には魚が多い。三・四爻は秋で、秋の水は澄む。三爻は坤だから泉が地上に流れ出る。四爻は兌だから、その破損を表す。五・六爻は冬なので、井水は冷たく清冽である。上爻は坎の終わりであり、水による養いの完成である。おおむね下卦の坎水は東南へ流れ、時を失って機会に遇わないので不吉である。上卦の水は西北へ帰り、その方位を得るので、多くは吉である。

象伝にいう。『木の上に水があるのが井である。君子はこれにならい、民を働かせ、助け合うよう勧める。』

上は坎の水、下は巽の木であり、その象は「木の上に水がある」である。これは彖伝のいう「水に入りて水を上ぐる」の象である。君子はこの象を味わい、その徳を修めて、「民を労し、相助を勧める」のである。「労」は民の力を用いること、「勧」は導き励ますこと、「相」は互いに助けることである。坎は労の卦であり、互卦の兌は悦を表す。悦びをもって民を働かせるのである。兌はまた口、巽は同じこと、交わりを表し、心を同じくして助け合う象がある。ゆえに「相」という。天下の民は限りなく、一人の力で養い尽くすことはできない。そこで君子は民を呼び集め、助け合うよう勧め、近隣や一族が親しみ、貧しい者や難儀する者が互いに救うようにする。教え導き、誘い励まして、互いに生かし養う道を尽くすのである。そうすれば、民を養う仕組みは広く行き届き、養いから漏れる者が一人もなくなる。これが「井は養いて窮まらず」という意味である。

  【占い】
○ 時運を問う:今は木と水が互いに生じる運に入っており、助け合って事を成すのにまことによい。


○ 戦争を問う:水が木を消す象があり、水軍に災いがある。力を尽くして助け合えば、危険を脱することができる。

○ 功名を問う:「木の上に水がある」のは、春雨を得て生長する象であり、功名が望める。

○ 商売を問う:元金を上回る利益を得る象があり、吉。

○ 家宅を問う:この家の梁柱は、水気で腐る恐れがある。急いで修繕するとよい。

○ 婚姻を問う:坎は男、巽は女。男が女の上にあるのは陰陽の正しい関係であり、吉。

○ 病気を問う:腎水が急にあふれている。急いで調整・治療すべきである。

○ 妊娠:男児が生まれる。

初六:井戸の泥水は飲めず、古井戸には鳥もいない。

初六:井戸の泥水は飲めず、古井戸には鳥もいない。

象伝にいう。『井戸の泥水は飲めない』とは、下にあるからである。『古井戸に鳥がいない』とは、時に見捨てられているからである。

「古井戸」とは、壊れて手入れされなくなった井戸である。「禽」は、桔槔の軸、すなわち縄を動かす軸をいう。軸に鳥の形を刻んだので「禽」と称したのである。あるいは、軸の回る音が鳥の鳴き声に似ていたからともいう。初爻は最下にあるので井底を表し、水は涸れ、泥は汚れている。そこで「井戸の泥水は飲めない」という。廃井となり、井戸は長く放置すると毒を生じるので、人は飲まないのである。井戸が廃れれば、桔槔の鳥形の軸も腐ってなくなる。ゆえに「古井戸には鳥もいない」という。象伝は「井泥」を「下」と解し、泥が井底にあるため飲めないとする。「旧井」を「時に捨てられる」と解し、井戸が古びて廃れたため時世に見捨てられるというのである。『魯語』の「名魚を取り、川の禽に登る」について、韋昭は、川の禽とは鼇や蜃の類だと注している。『易林』の遁から井へ変じた辞には、「老いた川は空しく、古井戸には魚がいない」とある。したがって、ここでいう「禽」を蜃・蛤・魚・蛙の類と解する説にも根拠がある。

  【占い】
○ 時運を問う:時は過ぎ、運は衰え、世に用いられていない。


○ 戦争を問う:武器が朽ちて古び、勝利できない恐れがある。

○ 商売を問う:商品が古びて腐敗し、売ることができない。

○ 功名を問う:年老いて用いられない。

○ 病気を問う:古い持病であり、治らない。

○ 婚姻を問う:人品が卑しく、旧知の縁であっても成就しない。

○ 訴訟を問う:必ず正当な判断を得られない。

○ 六甲を問う:男児が生まれるが、育てにくい恐れがある。

【例】友人某が来て気運を占ってほしいと請い、「井」が「需」に変じた。

断じていう。井戸はすでに古び、泥があって鳥もいない。廃井である。人に当てれば、運は退き、時運は衰え、必ず世に捨てられて用いられなくなる。占者がこれを得た。思うに、その人は人品・行状が卑しく、人に見捨てられ、進んで用いられる日を望むのは難しい。卦爻では初爻と四爻が応じている。初爻の古井戸も、四爻が修めれば咎はない。今のあなたはなお古井戸のままで、泥の中の辱めに甘んじ、自ら悔い改めようとしない。ゆえに結局は世に見捨てられ、再び用いられることはない。

九二:井戸の谷で小魚を射る。甕は破れて漏れる。

九二:井戸の谷で小魚を射る。甕は破れて漏れる。

象伝にいう。『井戸の谷で小魚を射る』とは、共にする相手がいないからである。

「井谷」とは泉の穴である。『漢書』溝洫志に「井の下が互いに通じ、水を通すものを井渠という」とあるように、井戸には横に通じる孔穴がある。二爻が動くと体は艮となり、艮は穴である。「鮒」は小魚であり、『子夏伝』は蛙とする。井は五月の卦なので、蛙が出るのである。『爾雅翼』には「鮒は鰿である」とあり、今の鯽に当たる。二爻の体は巽で、巽は風、風は虫を主る。蛙も魚も、結局は甲殻・鱗をもつ虫類から離れない。「鮒を射る」とは、昔、魚を射たことをいう。『淮南子』時則訓には、「冬の最後の月には漁師に初めて漁を命じ、天子自ら魚を射に行く」とある。『史記』には、「秦の始皇帝が芝罘へ行き、魚を射て巨魚を得た」とある。井谷に巨魚はいない。射るのはただ鮒である。「甕」は水を入れる器で、瓶に類する。二爻から四爻までの互卦は兌で、兌の口を表し、下の巽は底が破れている象なので、「甕は破れて漏れる」という。これは彖がいう「その瓶を弱らせる」に当たる。井の水は上に汲み上げてこそ功があるのに、底の抜けた破れ甕のように水が下へ流れ落ちるのでは、井の養いの功に何の関係があろう。わずかに鮒を射ることだけを能とするのは、君子が取らないところである。

  【占い】
○ 時運を問う:得るものは小さく、失うものは大きい。


○ 戦争を問う:敵の計略に誤ってかかり、軍が幽谷に入り、釜が破れ、兵糧も欠けて脱出できない。

○ 功名を問う:空名を射当てても、どうして長く続こうか。

○ 商売を問う:思いがけない財を貪って、本来得るべき利益を失う。

○ 婚姻を問う:家柄が低く、評判も傷つき衰えている。よくない。

○ 家宅を問う:この家には廃井があり、井口が壊れていて、水は飲めない。

○ 病気を問う:下から漏れる病であり、治療すれば治る。

○ 失物を問う:物はすでに壊れ損じており、見つかっても役に立たない。

○ 六甲を問う:男児が生まれるが、この子に障害がある恐れがある。

【例】友人某が来て気運を占ってほしいと請い、「井」が「蹇」に変じた。

断じていう。井は「養う」と称するが、井戸は自らを養えず、人がそこから取って養いとするのである。ところが水を取らず鮒を取る。取るべきでないものを取り、井の義を失っている。今あなたが気運を占って井の二爻を得た。あなたはもともと学問を好み、井戸に源があるような人であることが分かる。病は、もっぱら傍流を尊び、正学に努めないところにある。それは、谷の水が井戸の横穴から流れるようなもので、鮒を射ることは井戸から本来得るべきものではない。結局、井の養いの義と何の関係があろうか。「甕は破れて漏れる」とは、井戸の水が下へ流れ、人の品位・境遇が日ごとに下落することをいう。この爻象はまさにあなたへの警告である。世情に通じることを求め、身をもって実践し、いたずらに空しい評判を盗むな。

【例】明治三十年、司法省の気運を占い、「井」が「蹇」に変じた。

断じていう。この卦の下三爻は井戸の中の水、上三爻は水を汲んで用に供することを表す。ゆえに下三爻は不吉で、上三爻はすべて吉である。わが国は近年、外国人の雑居を許し、欧米諸国の規則にならって法律を定めた。わが国人が欧米諸国に居住する場合も欧米の保護を受けるので、わが国もまた彼国の旅人を保護する。まったく同じ仕組みである。今、二爻を得た。立法において、小利を貪るあまり、かえって大体を失う恐れがある。「井戸の谷で小魚を射り、甕は破れて漏れる」ということである。外交を司る者は、十分に注意すべきである。

九三:井戸をさらって清めても、飲まれず、我が心は痛む。汲んで用いることができる。王が明らかであれば、皆その福を受ける。

九三:井戸をさらって清めても、飲まれず、我が心は痛む。汲んで用いることができる。王が明らかであれば、皆その福を受ける。

象伝にいう。『井戸をさらっても飲まれない』とは、行く者が心を痛めるのである。『明王を求める』とは、福を受けることである。

「渫」は治める、すなわち井戸をさらって汚れを除くことである。初爻は泥、二爻は漏れ、三爻は巽の終わりにあり、巽には潔め整える義がある。ゆえに「井戸をさらう」という。さらえば泥は除かれ、漏れは塞がり、清らかで飲める水になる。それなのに飲まれないのは、井戸の咎ではない。人が身を洗い徳を修め、その恩沢が人を養うに足りていても、当局者はそれを知らず、傍観者だけが知っているようなものである。「我」は傍観者が自分を指していう。これほど清らかな泉を、まるで捨て物のように見捨てるのを見れば、私は心を痛める。井戸を浚って修めたなら、これほど汲んで用いるのに適した井戸はない。それを用いないのは、甚だ不明である。どうして明王が現れてこれを用いないことがあろうか。これは、人々がその登用を祈り求めている姿である。「王」は五爻を指す。三爻から五爻までは互卦が離なので、明王を表す。陽は福を表す。王者が賢才を登用すれば、徳と恩沢が広く施され、遠近の者が皆福を受ける。賢者の福は明君の福であり、天下の福でもある。「並びにその福を受く」とは、一つの井戸の利益が万戸に及ぶことである。

(付記)「井」は震宮五世の卦である。病厄を問うて下卦を得た場合は、おおむね治らない。下卦が変われば瓶の体が破れ、水を汲めなくなる。これは彖辞のいう「その瓶を弱らせる、凶」に当たる。破損を補修するのは、病人が医者を得て治療するようなもので、凶であってもなお救うことができる。この象はこのようであり、私はこの二十年来、幾度も占い、そのたびに験を得て、一度も外れたことがない。

  【占い】
○ 時運を問う:才能を抱えながら用いられないのは、命がそうさせている。


○ 戦争について占う。武器はすでに整い、兵士も使える状態だが、惜しいことに主将がいないため、士気が衰えている。まことに残念なことである。

○ 商売について占う。商品が四方から集まっていることは明らかで、利益を得られる。しかし、運搬して売買する者がいなければ、ただ無用に委ねられるだけである。

○ 栄達について占う。才能はあるが運命に恵まれず、世に見捨てられている。二年後、第五爻に至るころには、登用される望みがある。

○ 婚姻について占う。今はまだ成らないが、第五爻に至れば必ずまとまる。二年後のことである。

○ 家宅について占う。この家にはきっと、長年埋もれた古井戸がある。これをさらい、修繕するのがよい。この水を汲んで飲めば一家に福がある。さらわず、飲まないなら、大いに惜しいことである。

○ 病気について占う。必ず心神が安らがない病である。この卦の泉の水を飲めば治るだろう。

○ 妊娠:男児が生まれる。

【例】明治二十六年一月、年始の挨拶のため、たまたまある貴顕を訪ねた。貴顕は私を見て言った。「近ごろ、何か不思議な易断はないか。」私は答えた。「易の象は精妙で、誠心が通じれば、奇妙でないものはありません。昨年十月、杉浦重剛君らと星岡茶寮で会い、衆議院の議会の結末を占ったところ、井の第三爻を得ました。当時、政府と衆議院は意見が合わず、情勢は非常に険悪でした。その後、天の裁きを仰ぎ、初めて公平な解決を得ました。これがいわゆる『往来する者が井戸の秩序を保つ』ということです。」

断は次のとおりである。井戸は一つであるのに、そこから水を取る者は多い。だから「行き来する者が井戸で井戸らしくする」といい、多数の象がある。井戸を初めて掘るときは、多くの人の力に頼って完成する。井戸ができれば、皆がそこから水を得て養われる。これは、議案を立てるのも多くの人が唱えることに頼り、議案が決まれば皆がそれに従って行動することにたとえられる。衆議院では、人民の生活にはなお不足が多いとして、官費を節約し財政を整理し、国家の富の源を開こうと主張した。政府は、議員が政体を理解せず時勢にも通じていないため、両者の議論が一致しないと言った。これは、水を汲みに来た者が井戸水の清濁を互いに論じ、双方とも汲むのをやめ、結局何の役にも立たないようなものである。いったい何の助けになろうか。局外の者が心配するのも当然で、まさに「井戸をさらっても飲まれず、私の心は痛む」ということである。政府が議院を認めず、議院が政府を力で迫ろうとし、双方が各々の見解に固執したため、ついに衝突に至った。この勢いは途中で止められない。そこで天皇の裁断を仰ぐほかなくなった。爻辞にいう「汲むことができ、王が明らかならば、ともにその福を受ける」とはこのことである。幸い、聖上は至仁至明で、双方の事情を程よく調整された。政府は譲れるところを譲り、議院は受け入れられるところを受け入れ、適宜の中で予算の基準を定め、上下がそれぞれの事情を満たせるようにした。これこそ天下が「ともにその福を受ける」のである。

これを聞いた貴顕は、私が時事を臆測し、ただ易を借りて説を立てたのだろうと言った。私は答えた。「これは易の理が事前に機微を察知し、事に貫徹しているのです。私はただ易によって易を論じただけで、時事との符合も当然、易の外から出たものではありません。」

【例】明治二十三年七月、新潟裁判所長の富田禎次郎氏が訪ねてきた。氏は旧知の人で、数年会っていなかった。再会して互いに久しぶりの話を交わすと、氏は言った。「今日訪ねてきたのは、以前の易断のお礼を申し上げるためです。」そして、以前占いを求め、井の第三爻を得た経緯を詳しく語った。

爻辞にいう。「井戸をさらっても飲まれず、私の心は痛む。汲むことができ、王が明らかならば、ともにその福を受ける。」これは、井戸水は本来清らかなのに、誰も汲まないため、井戸が人を養う功を施せないという意味である。人に才能と徳があっても、用いる者がなければ、その力を発揮するところがない。必ず明君に認められ、抜擢されて用いられてこそ、一人だけでなく天下が「ともにその福を受ける」のである。爻位から推し量れば、第五爻は任用の日、上爻は大任を担う時であり、およそ三、四年の間に当たる。必ず応験があるだろうと申し上げた。今日までに、断辞は一つ一つ霊験を示し、わずかな誤りもなかった。私はひそかに喜び、特に礼を述べに来たのである。

六四。井戸を煉瓦で積む。咎はない。

六四。井戸を煉瓦で積む。咎はない。

象伝にいう。「井戸を煉瓦で積む。咎はない」とは、井戸を修繕することである。

「甃」とは、煉瓦を積んで井戸を築き、井戸が崩れるのを防ぐことである。この卦では三つの陽爻が泉を、三つの陰爻が井戸を表す。初六は最も下にあるので「泥」といい、上六は最も上にあるので「収」といい、四はその間にあって正位を失わないため、「甃」という。井戸は汚れて修繕されないことによって壊れ、ついには役に立たなくなる。四はこれを煉瓦で固めるので、「咎はない」となる。四が井戸を固めるからこそ、五の「寒泉」が現れ、それによって人を養うことができる。すべて四の修繕に頼るのである。井戸を修める功は、決して小さいとはいえない。

  【占い】
○ 時運について占う。ちょうど運勢が変わる時に当たる。自らを修め整えるべきである。咎がないだけでなく、上進も望める。


○ 商売について占う。旧業を整理するのがよく、自然に利益を得られる。

○ 栄達について占う。身を修めて名を立てれば、二、三年後に大いに志を遂げられる。

○ 戦争について占う。詩にいう「我が矛戟を修め、あなたとともに事を起こす」という時である。

○ 婚姻について占う。なお時を待つ必要がある。

○ 家宅について占う。この家は改修すれば吉である。

○ 懐妊について占う。女児を生む象がある。

【例】横浜港町の居留地近くに、魚鳥・野菜・獣の市場があった。この市場は各国との開港条約によって設けられたもので、商売は非常に盛んであった。ある日、友人が来て言った。「近ごろ横浜市場で商人たちが大いに争い、ついに休業するに至った。仲裁に出ようとする者もいるが、処理の方法が見つからない。そこで一占をお願いしたい。」筮すると、井が大過に変わった。

断は次のとおりである。市場の商売についていえば、双方には相互の関係がある。井戸の水を汲むためのつるべ縄と桶のようなものだ。井戸があっても縄と桶がなければ、どうして水を汲めようか。縄と桶があっても井戸がなければ、結局役に立たない。同じ市場で商売している以上、利益があればともに利益を得、害があればともに害を受ける。互いに争えば、必ず双方とも敗れる。今、第三爻を得た。その辞に「井戸を煉瓦で積む。咎はない」とある。「甃」とは、治めること、井戸が壊れたため再び修繕することである。今、両家の商売はこの争いによって損なわれているが、出て修繕する者は第四爻である。つまり四は中央にいて仲裁する人である。四が仲裁すれば、五の「寒泉」を再び飲めるようになる。四と五の間には一爻ある。一爻を一月とすれば、来月には必ず和解し、旧業を再開するだろう。

【例】清国とフランスが安南をめぐって争っている事情について占った。本年三、四月に事端が起こり、今日まで和戦の確かな知らせがない。新聞各紙の報道も、すべて巷のうわさや伝聞に基づくもので、十分に信頼できない。そこでまず清国について筮したところ、井が大過に変わった。

断は次のとおりである。この卦の徳は、井戸が尽きることなく人を養うことにある。井戸が大きく、そこから養いを得る者が多いという意味である。これは清国の大きさにたとえられる。物産は豊かで、諸外国は皆、清国と交易してその恩沢を受けることを望んでいる。すでに汲んだ者は去り、まだ汲んでいない者は来る。その交易品は尽きることがなく、井戸の水を汲んでも尽きないのと同じである。ただし清国は航海術がまだ精巧でなく、自国の力で物産を運び出すことができない。井戸の水が自ら外へ出られず、必ず人に汲んでもらって初めて物を潤すようなものである。ゆえに今回の安南事件で、フランスと戦おうとしても、結局は戦わない。井戸水が自ら動けないのと同じく、清国は必ず開戦しないと知ることができる。万一、清国が開戦を決意すれば、諸外国との交易に大きな障害が生じる。局外中立の国々は必ず立ち上がって仲裁し、あらゆる手段で保護するだろう。これは煉瓦で井戸を固め、汚れが入らないようにするのと同じである。「井戸を煉瓦で積む。咎はない」とはこのことである。井の第四爻から革の第四爻までは七年である。これから七年の間に、清国には必ず改革の変化がある。ことわざに「唇亡びて歯寒し」という。わが国もまた厳重に備えておくべきである。

九五。井戸の水は清く、冷たい泉を飲む。

九五。井戸の水は清く、冷たい泉を飲む。

象伝にいう。「寒い束の食とは、中正である。」

「冽」とは水が清らかなことである。井戸水が上にあるので清い。五は坎の主で、中正の位にある。坎は寒泉を表し、十二支の子は水で北に属するので寒いという。水の性質を考えると、冬は温かく、夏は冷たい。陰の中に陽を納め、陽の中に陰を納めるのがその性質である。井は五月の卦なので、清く、しかも冷たい。孟子は「夏の日には水を飲み、冬には湯を飲む」と言った。まさに夏の盛りにこの冷たい泉を汲んで飲むのは、時にかなっている。井は三爻でさらわれ、四爻で固められると、泥が取り除かれ、漏れが塞がる。そこで五爻の寒泉が現れ、再び多くの人がこれを飲むようになる。こうして福を受ける者も多くなる。王者の徳が人民を潤し、あまねく天下に及ぶのも同じである。井の互卦は噬嗑であり、噬嗑は食を意味する。だから「井戸の水は清く、冷たい泉を飲む」という。

  【占い】
○ 時運について占う。家運は必ず寒素であるが、幸い時を得ているので、進んで用いられる望みがある。


○ 商売について占う。井戸から寒泉が出るのは、財源が長く続く象であり、利益を得られる見込みがある。

○ 栄達について占う。品行が中正であれば、鼎に養われるような栄誉を享受できる。

○ 家宅について占う。廉泉譲水の風がある。

○ 婚姻について占う。家風は清白で、苦楽をともにする、夫婦の正しい道である。

○ 病気について占う。外寒内熱の症である。寒涼の薬を服すのがよい。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】明治二十二年、山県伯の運勢を占い、井が升に変わった。

断は次のとおりである。井戸は人を養うためのものだが、汲まれなければ、泉が清くても、その養いの功を施すことができない。これは、賢者が人民に恵みを施す力を十分に持っていても、登用されなければ、賢才は下位にとどまり、その恵みを行う方法がないことにたとえられる。今、山県伯の運勢を占って井の第五爻を得、さらに升に変じたので、伯は才能と徳が深く、志操が清らかで、質素な境遇から身を起こして顕要に昇ると知った。その恩沢の広がりは、「王が明らかで」「汲むことができ」、天下が無窮に「ともにその福を受ける」のと同じである。爻に「井戸を煉瓦で積む」とあるのは、伯の気性が清明であることをたとえる。「冷たい泉を飲む」とあるのは、人民が伯の徳を食むと、一口の冷泉を飲んだかのように、たちまち胸や腹の内が涼やかになることをたとえる。伯の恩恵は尽きることなく、伯の栄誉と顕達もまた、まだ終わる時がない。

この年、山県伯は果たして内閣総理大臣となった。この占辞は、当時、三条公と伊藤伯に申し上げた。

上六。井戸を収めても覆いを掛けない。誠があれば大いに吉。

上六。井戸を収めても覆いを掛けない。誠があれば大いに吉。

象伝にいう。「上にあって大吉」とは、大いに成就することである。

「収」とは、ろくろを巻き上げることをいう。「幕」は井戸の蓋である。「幕をしない」とは、彖伝のいう「往来井井」、すなわち汲む者が多く、昼夜を問わず取っても尽きないことをいう。井戸はその所有を独占せず、利益を私しない。人に任せて汲み、灌漑させるので、「幕をしない」という。上六は坎の極にあり、陰爻が二つに開いている形は、蓋をしない象である。「孚」は五を指す。五は「王明」であり、汲むことのできる者を用いる。「元吉」の元は大という意味で、井戸の利益が大きいから吉もまた大きい。「在上」とは、上六が井戸の口にあり、人を養う功がここから出ることをいう。「大成」とは、井戸が人を養う道がここで大いに成就することをいう。爻辞では、陰柔が上にあるものは多く不吉だが、上にあって「元吉」となるのは井の一卦だけである。

  【占い】
○ 時運について占う。功徳が世に認められ、信用を人々から得ている。「大成」「元吉」は運勢が極盛であることを示す。


○ 栄達について占う。大いに用いられ、大任を受ける象がある。一官一邑の小さな地位ではない。

○ 商売について占う。商務が集まり、利益は豊かである。長く続き、大きくなり、どこへ行っても吉である。

○ 婚姻について占う。上爻は三爻に応じ、三爻には「ともにその福を受ける」とあるので、両姓とも吉である。

○ 戦争について占う。軍が出発するときは幕を撤する。「幕をしない」とは、幕を撤して前進することである。一戦で功を成すので、「大成」という。吉。

○ 病気について占う。「幕」は「暮」とも通じ、朝夕にはすぐ治るという意味である。吉。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】明治三十年、貿易の景況を占い、井が巽に変わった。

断は次のとおりである。この卦は下が巽の木、上が坎の水で、彖伝にいう「水に入り、水の上に上る」という象であり、井戸の水を汲み上げる象である。上爻に至れば井戸の功用はすでに成る。「幕をしない」とは、王弼のいう「その有を独占せず、その利を私しない」ということである。今、外国商人がわが国の商人と交易している。わが国は自ら輸出せず、外国商船が運び去るのを待っている。これは井戸水が人に汲まれるのを待つようなものである。内卦の三爻は井水を飲まない象で、商品の売れ行きが盛んでないことを示す。外卦の三爻は泉が美しく飲める象で、汲む者が多い。四爻は七、八月、五爻は九、十月、上爻はすでに井戸口にあるので十一、十二月に当たる。まさに百貨が集まり、販売と運送が盛んになる時であり、生糸だけを見ても大量輸出が行われ、貿易にとって最良の景況となる。

果たして上半期は生糸の商況が振るわなかったが、七、八月以後、次第に動き始め、十一、十二月には相場が千フラン以上に上がり、すべて外国商人に買われ、国内の機械織物工場はかえって休業した。