高島易断 · 卦ごとの解説

高島易断 · 易経 第 5 卦 水天需、需は、孚あり。光りて亨る。貞にして吉。大川を渡るによい。

水天需、需は、孚あり。光りて亨る。貞にして吉。大川を渡るによい。

需は、孚あり。光りて亨る。貞にして吉。大川を渡るによい。

05 水天需

「需[31]」の字は古文ではと書き、もとは「天」に従う字であって、「而」の字ではない。下卦の乾である天と、上卦の坎である雲をかたどった象形文字である。大象伝に「雲、天上に在るは需なり」とあるのがこれである。音は須で、雨を部首とし、須を音符とする。この字は待つという意味である。詳しくは下の彖伝を参照。



需は、孚あり[32]。光りて亨る。貞にして吉。大川を渡るによい。



▲ 金文の需

九五は陽でありながら陰の中に陥り、三つの陽爻の進むのを待っている。三陽もまた進もうとしてまだ進めず、そのため心を同じくする信が得られる。しばらくは陰暗が消えきらなくても、乾の陽はまさに昇ろうとしており、おのずから光り輝いて亨通し、安らかに正を守れば吉である。危険なものは大川に及ぶものがない。上下が互いに信じ合い、陽が長じて陰が衰えるとき、進んでこれを渡れば必ず利益がある。ただし、時を待つことが大切である。坎と乾はともに内に実があるので「孚」という。互卦の離は光と舟を表す。坎の水は川であり、乾の健がこれに臨むので「渡るによい」という。

彖伝にいう。需とは待つことであり、険難が前にある。剛健であって陥らないので、その道は困窮し尽きることがない。「孚あり、光りて亨る。貞にして吉」とは、天の位に居り、正しく中を得ているからである。「大川を渡るによい」とは、進めば功を成すからである。

この卦は水気が蒸発して雲となり、雲が天に昇れば大雨の来るのをすぐにも待てるので、需という。また乾は内にある老父、坎は外にある中男であり、楼閣にもたれて子の帰りを待つ象である。さらに乾は進むこと、坎は川を表す。進もうとして大水に遭えば、水が引くのを待ってから進まなければならない。これらはいずれも需の意味である。需の象は一つではないが、飲食ほど急切なものはない。外卦の坎は飲食、互卦の兌は口を表す。そこで九五は「酒食をもって需つ」といい、象伝は「需は、君子もって飲食宴楽す」と述べる。万物は雨沢を待って生じ、人は飲食を待って生命を養う。これが需の意味である。

これを人事に当てはめると、内卦は自分であり、剛健な才力を備えて進もうとする。外卦は相手であり、危険な策を設けて自分を妨げる。進めば必ず険に陥るので、みだりに動いてはならず、ただ時を待つべきである。相手の奸計が露見するのを待つか、あるいは自分の運気が開けるのを待つか、それができて初めて進んで事を図れば、険阻の患いはない。しかし世の人は往々にして浮薄で軽躁であり、機会を待たず、気に任せて突き進む。そのため身を禍に陥れない者はない。この卦の下卦は乾で、「剛健であって陥らない」から、「その義は困窮しない」という。九五の時に至れば、危険は解け、志を得ることも特に容易で、大事を成し遂げられる。これを「孚あり、光りて亨る。貞にして吉。天位に居り、正しく中を得ている。大川を渡るによい。進めば功がある」というのである。易で「光」、また「光大」というときは、光明正大で、成功を奏することをいう。六十四卦のうち「大川を渡るによい」とするものは七つあり、需がその筆頭である。昔から舟や櫂を造って川を渡ってきたが、風波が荒いとき、忍耐できずに転覆して溺れることが多かった。だから需卦はまずこの戒めを示す。待つことができるからこそ、「大川を渡るによい」のである。諺に「急ぐ者は迂回を要す」というのはこのことだ。およそ人が事を行うとき、目先のことばかり思い煩うべきではない。早く進んで後悔するより、時を遅らせて功を円満にする方がよいではないか。大きくは功名を求めて国政を救い、小さくは財産を求めて家業を振興するにしても、すべて時を待って動くべきである。ゆえに「進めば功がある」という。

この卦を国家に当てはめると、下卦の乾は人民を表す。剛健な才力を携え、進んで政事に参与しようとする。上卦の坎は政府を表し、下にいる人民の急進を禁じ、法律を示す。人民は危険に陥ることを恐れて進むことができず、法の網が少し緩むのを待って、初めて進出を図ることができる。上にある政府は、下の民が恵みを待ち望んでいることを知り、その困難を憐れみ、雨沢を施して民の生活を蘇らせる。あるいは租税を減じ、衣食を整え、荒れ地を開墾して耕作に資し、あるいは米穀を施給して凶作や飢饉を救う。ゆえに繋辞伝は「需とは、飲食の道なり」という。下の人民は健やかに行う徳を備え、国事を進めようと考えないわけではないが、時運がまだ通じないため、やむなく隠居して志を守る。上下がともに需の道を守れば、幸福を得られるであろう。これが「孚あり、光りて亨る。貞にして吉。大川を渡るによい」という意味である。

この卦を総合して見ると、初九は二つの陽爻の後に従い、進もうとする志はあるが、険難に遭うことを恐れて軽々しく進まない。九二は三陽の主で、本来なら進めるが、前に坎の険があるため、進めば咎があることを恐れる。そこで悠然と時を待つ。まさに「君子は易に居りて命を俟つ」ということである。九三は剛が重なって中を得ず、独り進んで坎の険を渡り、災いを醸す。ただし敬慎であれば、なお敗れずに済む。六四は九五に近い位にあり、忠誠を尽くすことはできても、匡済の才に乏しく、下の三陽から疑われる。傷つくことを免れず、わずかに身を全うできるだけである。九五は剛健中正の徳を持って天命を待つので、需の道を尽くしている。ゆえに吉である。上六は爻の終わりに当たり、険に陥ることが極まって、もはや待つべきものがない。思いがけない来訪があっても、「これを敬えば終わりには吉」となる。これによって、需の時には、よく忍び、敬を守る者はみな禍を免れられると分かる。需の時の意義は、なんと大きいことか。

象伝にいう。雲が天の上にあるのが需である。君子はこれによって飲食し、宴楽する。

坎の雲が上にあり、乾の天が下にあって、陰陽の気がまだ交わらず、雨にならない。雲が天上にあっても、雨の兆しは散って再び晴れることがある。君子が才徳を養い、世に出て済世しようとしても、風雲がまだ会わず、その恩沢を施せないのもこれと同じである。天を怨み人を責め、栄達を求めて取り入るのは、時命を知らない小人のすることである。「飲食」とは、贅沢に酔い飽きることではない。孔子が粗食を食べ水を飲んだこと、顔回が一つの竹籠と一つのひょうたんだけで暮らしたことのようなものである。「宴楽」とは、情に溺れて安逸を楽しむことではない。磬を打つ暮らしで悲歌することができ、衛の門でゆったり暮らせることのようなものである。自分の位に安んじて行い、外にあるものを望まないので、「飲食宴楽」という。私は思うに、わが国の商人が当地での商売が合わず、外国へ出て心身を労して衣食を自ら図り、ある日内地の凶作を聞けば、海外で米穀を輸送販売して飢饉を救い、それによって利益を得ることもまた、待つ道である。

  【占い】
○ 戦争について占う:需は待つことである。雲が天上にあり、陰陽がまだ交わっていないので、まだ戦うべき時ではない。乾は君子を表し、また武人を表すので、主将のことをいう。坎は酒を表すから、「飲食宴楽」というのは、軍を動かす前にまず兵糧を備えることをいう。


○ 商売について占う:爻辞から考えると、穀物の運送売買、あるいは酒場を開く商売であろう。「雲、天上に在る」とは、雲は上にあるが雨がまだ降らないこと。おそらく資本がまだ集まっていないので、需という。

○ 功名について占う:風雲がまだ巡り合っておらず、なお待つべきものがある。

○ 病気について占う:飲食を調整し、安楽に過ごして気を紛らわせれば、長くたつうちに自然に治る。

○ 妊娠:男児が生まれる。

初九:郊に需つ。恒を用うるに利あり。咎なし。

初九:郊に需つ。恒を用うるに利あり。咎なし。

象伝にいう。「郊に需つ」とは、難を犯して進まないことである。「恒を用うるに利あり。咎なし」とは、常道を失っていないからである。

「郊」とは、遠く辺鄙な土地である。坎は水であり、険難である。「郊に需つ」とは、前途が坎の水に阻まれているので、川の水が減り退くのを待つことである。また乾は金を表す。旅人が金を懐にして途中で水に遭い、滞留する象でもある。乾の三爻は外卦の坎に対し、それぞれ居所の遠近によって辞を結び、「郊」「沙」「泥」とする。危険に次第に近づく象を取ったのである。この爻は水から最も遠く、あえて進んで険を冒さない。ゆえに「郊に需つ」という。これは「危邦には入らず、乱邦には居らず」という道理である。郊野で自ら耕し、世間に求めることなく、長くその節を変えないので、「恒を用うるに利あり」という。「恒」は変動しない意であり、「恒を用うる」とは始終変わらないことである。初九の患いはまだ遠いが、患いを思ってあらかじめ防ぎ、恒にその正を守れば、禍を免れられる。ゆえに「咎なし」という。この爻の体は乾である。乾は剛健で、その道は上へ進むのを常とする。また初九は六四と正しく応じているので、もし応じることを急げば、必ず危険を冒す恐れがある。今は遠い郊外に僻在して時機を待つ。だから象伝は「難を犯して進まない」という。

  【占い】
○ 戦争について占う:爻に「郊に需つ」とあるので、必ず郊外に屯営することである。坎は険難を表すから、前進すれば必ず危険がある。ゆえに象伝は「難を犯して進まない」という。初爻は卦の始めなので、初めて出軍することを知る。「恒」「需」とあるので、長く待つのがよい。恒を守ってから進めば、必ず咎はない。


○ 功名について問う。卦は初爻に属するので、初めて名を求めて世に出る者と知る。郊は草莽の地で、「郊に需つ」とは野に退いているのがよいということ。恒は久しいこと。「恒を用うるに利あり」とは、長く待ってから世に出れば利益があるということ。象伝の「難を犯して行かず」とは難に関わらないこと、「常を失わず」とは恒を守れることをいう。ゆえに咎はない。

○ 商売について問う。行商の道は、恒久をもって利とする。「郊に需つ」とは、前途に危険があることを知り、しばらく商品を郊外に積み置き、時を待って運ぶのである。象伝の「常を失わず」とは、商品に損失がないことを知る。

○ 病気について問う。「郊」とは田野の広々とした場所で、野外に出て静かに暮らし、病を養うのがよいということ。「咎なし」とは、病に害がないという意味である。

○ 妊娠:男児が生まれる。

【例】友人の左右田金作氏が来て告げた。ある会社は皆が利益が非常に多いと言っており、入社を考えている。前途の吉凶を占ってほしい。筮して需より井を得た。

断に曰く。この卦の内卦は乾で、乾は純陽、金に属する。外卦は坎で、水に属し、高きから下へ赴く性質がある。また坎は険であり、彼の会社が危険な計略を設け、株主の金を募って、加入者を皆危険に陥れることをいう。しかし、その会社の行動を観察し、実情と虚実をよく見極め、危険が収まってから入るなら、これが需の働きである。彖伝に「需は待つなり。険前にあり、剛健にして陥らず」とある。初爻の辞に「郊に需つ」とある。郊は郊外の地で、幸い危険からまだ遠い。あなたが誘いに乗らず、奸策に陥らず、慎重に変わらなければ、常を守れる者といえる。五月以後、その会社には必ず災難があり、投機家は皆退き、株券も下落する。その時に株券を買って入社すれば、その後、会社の運勢は必ず盛大になる。爻象はこのようであるから、しばらく時機を待つのがよい。

結果は占断のとおりになった。

九二。沙に需つ。小しく言あり。終に吉。

九二。沙に需つ。小しく言あり。終に吉。

彖伝に曰く。沙に需つとは、衍かに中に在るなり。小しく言あるも、吉をもって終わるなり。

「沙」とは水に近い土地で、九三の「泥」よりは険から遠く、比の初爻の「郊」よりは近い。「小しく言あり」とは、言葉の争いがあることをいう。易の辞では、患難の小さいものを「小しく言あり」という。二爻は初九より一段進み、次第に険へ近づくので、「沙に需つ」象である。剛陽の才があり、険を済うに足りるが、上には君長の応援なく、中には同僚の助けもない。ただ柔に居て中を守り、ゆったりと自らを処する。それが需の善である。しかし険に近づくため、大害にはまだ至らなくても、すでに小さな言い争いがあるので「小しく言あり」という。互卦は兌。兌は口で、喜ばしい言葉の象。坎は舌で、怒りの言葉の象である。相手が怒言を発しても、自分は和解できるので「終に吉」という。「衍」とは広やかなこと。胸中が広く、しかも忍耐できるので、ついには切り抜けられる。ゆえに象伝は「沙に需つとは、衍かに中に在るなり。小しく言あるも、吉をもって終わるなり」という。爻辞が変じて成就に至ることを「終」という。始めをもととして終わりを要するからである。「終に吉」とは、前に凶があり、後に吉となること。此爻が変ずると既済となり、その爻辞に「婦、その茀を喪う。逐うなかれ。七日にして得」とある。これによっても終に吉の意味が見える。

  【占い】
○ 戦争について問う。坎は隠伏を表す。爻象から見れば、砂漠の地に伏兵を置くのがよい。あるいは間者によって誤りが生じ、小さな挫折があるかもしれないが、最後には必ず吉となる。


○ 商売について問う。二爻の辰は寅で、上は天江四星に当たる。石氏は「天江明らかに動けば、大水具わらず、津梁通ぜず」と言う。そのため商品を運送できず、「沙に需つ」となる。沙は水辺である。多少の口舌はあっても商売に害はないので、「終に吉」という。

○ 時運について問う。沙は水と少から成り、水の少ない場所で舟を通せない。 「沙に需つ」とは、時運が思うように進まないということである。二爻の辰は寅で、上は箕に当たる。詩緯に「箕は天の口、気を出すことを主る」とある。「小しく言あり」とは讒言である。しかし待ってこれに対処すれば、ゆえに「終に吉」となる。

○ 妊娠:男児が生まれる。

【例】友人の永井泰次郎氏が北海道の商人に金を貸したところ、相手は期限を過ぎても返さなかった。督促の手紙を出したが返事がなく、そこで自ら現地へ行こうと思い、一卦を占ってほしいと頼んだ。筮して需より既済を得た。

断に曰く。需は座して時を待つ卦であり、自ら進んで彼の地へ行くのはよくない。彖に「孚あり」とあるので、相手は故意に引き延ばしているのではなく、商売上の思いがけない紛糾に奔走して暇がないのだと分かる。これを「小しく言あり」という。今後四月、五爻の時に至れば、相手は必ず金を返すことができる。これを「終に吉」という。

永井氏はこの占に従って行かず、後に四月となると、果たして占断のとおりになった。

九三。泥に需つ。寇の至るを致す。

九三。泥に需つ。寇の至るを致す。

象伝に曰く。泥に需つとは、災い外に在るなり。自ら寇を致すも、敬慎すれば敗れざるなり。

「泥」とは水際の湿った土、すなわち水辺の地である。「寇」とは坎の象で、大きな災いをいう。初九の郊は険からまだ遠く、九二の沙は険に次第に近づき、九三の泥では身がすでに険に接し、禍が目の前にある。この爻は乾卦の極に居て、剛に過ぎ中を得ない。そのため険難が前にあるのに意に介さず、自分の強さを頼み、上位から応じられているのを見て、時機を見分けず事情を察せず、ただ妄進して、目前の危険を救おうとする。坎の険が人を迫るのではなく、人が自ら進んで険に近づくのである。水が人を溺れさせるのではなく、人が自ら危険な水に戯れて溺れるようなものだ。ゆえに「寇の至るを致す」という。しかしこの時、慎重に考え重く構える心を持ち、軽挙妄動を戒め、早く悔い改めるなら、なお災いを免れることができる。象伝の「災い外に在る」とは、坎の険が外卦にあるという意味である。また「外」とは思いがけない事をいう。自分は相手を救おうとして、かえって相手に害される。これが九三の思いがけない事である。しかも災いが来て自分を害するのではなく、自分から災いを招き寄せるので、「自ら寇を致す」という。敬い慎んで自らを保ち、適宜を量って進めば、坎の険に囲まれても自分をどうすることもできず、自ら敗れずにすむ。だから「敬慎すれば敗れざるなり」という。名を争う者は毀れ、利を争う者は奪われる。これは寇の罪ではなく、自ら招いた災いである。この爻が変ずれば節となり、その辞に「節せざれば、すなわち嘆く。咎なし」とある。これによって敬慎の意味が分かる。また九三と六四は陰陽相比しているが、互いに助け合わず、かえって害し合う。易ではこのような比を害比という。

  【占い】
○ 戦争について問う。九三は内卦の終わりに居て、外卦に迫る。坎は寇でもあり、災いでもあるので、「災い外に在る」という。敵が来て侵すのは「寇至る」といい、自分から敵を招くのは「寇の至るを致す」という。必ず慎重に自らを保ち、まず敗れない地に立つべきである。


○ 商売について問う。「泥」とは拘泥すること。行商は流動をよしとし、拘泥してはならない。拘泥して変化できなければ、内に疑いが生じ、外に変事を招く。隠し方が粗雑なら海賊を招くことになる。どうして慎重でいないでよいだろうか。

○ 功名について問う。爻に「泥に需つ」とある。泥は水際の汚泥である。ここで待てば、必ず下流へ流され、上に達するのは難しい。敗れないとしても、かろうじて免れるだけである。

○ 婚姻を問う。『易』では寇と婚媾を並べて述べている。寇があるなら婚媾ではなく、怨み合う夫婦であるという意味である。「泥に需つ」は進まない象であり、婚事については必ず成就しない。

○ 妊娠:男児が生まれる。

【例】 明治十九年、佃島に監禁されていた時、西村三瀬および私を含む三人の身の上を占った。

私が佃島へ流されていた時、同囚の西村勝蔵、三頼周蔵と特に親しくしていた。ある日、二人はため息をついて言った。「われわれには大きな難事がある。互いに相談して計画しなければならない」。私が理由を尋ねると、二人は言った。「以前、役所で大きな会議があり、われわれ二人は使いに出された。仕事は多く、議論も長引き、夜になって次第に散会したので、ひそかに何事を議していたのか尋ねた。すると、獄官たちが次のように相談していたという。今は菜種油が安く、菜種が高い。高価な菜種を買って安い菜種油を製造するのは、徒刑囚を無駄に働かせ、かえって損失になる。今後は製油の仕事を廃し、この徒刑囚を横須賀船渠の築造に従事させる。徒刑囚の嘉右衛門は指揮に長じているから指揮を任せ、勝蔵は計算に長じているから計算を任せ、周三は医術に通じているから徒刑囚の病気を診察させる。今日としては良策である。また、この三人をよく見ると、皆それぞれ一癖があり、普通の者として扱うことはできない。将来放免すれば、何か事件を起こして再び獄に入る恐れがあり、罪の上にさらに罪を重ねることになる。それも哀れであるから、長く拘留して工事に使い、別の災いを生じさせない方が、仁の道でもある。」会議の内容はこのようであった。獄官たちがこの案を立てたのは、おそらく幕府の規則では官所の収入の半分を役得とし、吏員がその半分を蓄えることになっていたからである。この事が実施されれば、われわれ三人の災いは浅くない。あなたに占ってもらいたい」。そこでまず勝蔵のために占うと、需が節に変わった。

断に曰く。需とは待つことである。前に坎の険があり、乾の剛健がこれに臨む。水を渡ろうとして軽々しく進まない卦である。卦辞に「泥に需ち、寇を致す」とある。九三は内卦の終わりにあり、外卦の坎険に最も近いから、危地というべきである。象伝はこれを「災い外に在り」と解している。この災いは横須賀の事ではない。「外に在り」とは、必ず別の原因によって生じるものを指す。あなたは先々を考える人であり、法を犯して役を逃れたのではなく、また別の罪を犯すこともない。そうであれば、あなたの災いは病気であろうか。もし病にかかったなら、自らを大切にしなければならない。象伝に「自ら寇を致す。つつしみ慎めば敗れない」とある。

次に周三を占うと、鼎が旅に変わった。

爻辞に曰く。「鼎に実あり。我が仇、疾あり。我に即く能うものあり。吉」。

断に曰く。吉である。鼎は重い器で、容易に動かせない。まして中に実があるならなおさらである。また、巽風が艮山に変わる。山は止まり、移らないものであるから、その身が依然として動かないことが分かる。私を動かそうとする者は、すなわち「我が仇」である。今は「我が仇に疾あり、我に即く能わず」とある。「疾あり」とは力がないということで、私を動かせないことは明らかである。横須賀の事は憂うるに足りない。

最後に私を占うと、艮が漸に変わった。

爻辞に曰く。「頬に止まり、言葉に順序があれば、悔いは消える」。

私はこれに迷い、長い間よく考えた末、ようやく悟った。輔とは口や頬のことであり、「その輔に止まる」とは、みだりに言葉を発しないことである。その下に「言葉に順序があれば、悔いは消える」とある。私は後日、言葉の秩序を身につけ、それを上に立つ者に認められ、罪を免れることができるのであろう。

断はこのようであったが、当時は後日にどのように験が現れるか、まだ分からなかった。その後、勝蔵は果たして脚の病にかかり、危篤に近い状態となったが、周三が謹慎して看護したため回復した。周三はその任に当たっていた吏員を免職され、横須賀の事業もついに廃止となり、皆赦免された。私はさらに吏員の和田十一郎氏の身の上を占ったところ、事が道理にかなったので、刑期の半分を経た時点で赦免された。

【例】 明治二十七年五月、朝鮮国に東学党の乱が起こった。わが国と清国との間には天津条約があり、六月六日、わが国は軍を派遣した。二十三日には朝鮮兵とわが軍が交戦した。その事はもっぱら清国政府の命に従っていたため、清国との開戦の兆しが現れた。占うと、需が節に変わった。

断に曰く。この卦は天の上に水がある象である。天に黒雲が集まり、今にも雨が降ろうとしている。時を待って行動すれば、必ず功を奏する。内卦をわが日本とすれば、陽の剛健に乗じて進もうとしている。外卦を清国とすれば、坎険を設けてわが軍を陥れようとしている。しかし、わが方は剛健で陥らないため、困窮に至らない。五爻の時を待って進軍すべきであり、「需は孚あり、光り亨る。貞しければ吉。天位に位して、正中を得る」とある。「天位」とは九五の時を指す。「大川を渉るに利あり」とは海軍が必ず利益を得ること、「往けば功あり」とは陸軍が必ず成功することをいう。この卦は五爻・六爻の陰陽がそれぞれ正位を得ており、天の時を得る象である。三爻は陽をもって陰に就き、四爻は陰をもって陽に従うので、人の和を得る象である。ただ二爻は陽が陰位にあるため、地の利に大きく欠ける。今回の占は三爻を得た。これは本年六月に当たり、すでに危険な地へ向かおうとしているので、「泥に需つ」という。伝に「自ら寇を致す。つつしみ慎めば敗れない」とある。「泥に需つ」とは進退が思い通りにならないこと、「自ら寇を致す」とは自分からそこへ入ることをいう。四爻は七月に当たり、「血に需ち、穴より出ず」とある。この爻は三爻と五爻の間にあり、火を含む。穴から火が出て血を見る象なので、地雷に警戒しなければならない。この四十日間に、敵がわが軍を襲えない要地を選んで屯営し、八月上旬には五爻の気運に乗じて、一挙に大功を立てることができる。

これを反対から見ると、この卦は清国の気運が、需の下卦から讃、すなわち訟へ移ることを示している。次の通りである。

彖辞に曰く。「訟は孚あり、窒して惕る。中すれば吉、終われば凶。大人を見るに利あり、大川を渉るに利あらず」。

彖伝に曰く。「訟は、上は剛にして下は険。険にして健なるものが訟である。「訟は孚あり、窒して惕る。中すれば吉」とは、剛が来て中を得ること。「終われば凶」とは、訟は成就させてはならないこと。「大人を見るに利あり」とは、中正を尊ぶこと。「大川を渉るに利あらず」とは、淵に入ることをいう」。

この卦では、上卦の天を日本、下卦の水を清国とする。天の気は上へ昇り、水は流れ落ちて険に陥る。これを卦象に見ることができる。天は剛健で威があり、水は下に陥って危険と困難を示す。しかし困窮すれば奮起しようとし、公論に頼って正邪を争おうとするので、訟卦を得たのである。清国はこの逆運に遭い、計略や策謀がことごとく通じない。「訟は孚あり、窒す」という象である。天運がこのようであるから、「惕中吉、終凶」という。さらに訟の時は事を成し遂げる時ではないから、「訟は成るべからず」という。ただし五爻の時に至り、大人の意に従って事を処理すれば可能なので、「大人を見るに利あり」という。またこの卦で海軍を用いれば大敗し、軍艦が沈没する恐れがあるから、「大川を渉るに利あらず、淵に入る」という。

この占断を大本営の某高官に呈したところ、その月の二十八日、『国民新聞』と『報知新聞』の両紙に掲載された。わが国は需の盛運を得て、四十日後には陸軍が牙山・成歓の戦いに勝利し、海軍も豊島および黄海で大捷を収めた。清国は訟の逆運に遭い、陸軍は牙山と平壌で大敗し、軍艦まで沈没した。「淵に入る」という言葉は空しくなかった。占ってから四十日を数えると、三十九日目に大勝を得た。またこの戦争の結末は、需の上六に「招かれざる客三人来る。これを敬えば終わりに吉」とある。果たして後に露・英・米三国の公使が来て協議したが、これを敬い受け入れたので、終わりには吉となった。

六四。血に需ち、穴より出ず。[33]

六四。血に需ち、穴より出ず。[33]

象伝に曰く。「血に需つとは、順にして聴くことである」。

坎の陰は血の象、坎の険は穴の象である。この爻が上六とともに穴をいうのは、体が坎だからである。血は殺傷の地、穴は険しく陥る所である。この爻は坎の険しい殺傷の地に入り、寇に傷つけられるので「血に需つ」という。「血に需つ」とは、前爻の「寇を致す」を受けている。六四は陰が重なり、才力も弱く、坎険の初めにいる。一陰柔弱の資質で三陽に迫られ、大難の中心に臨むので、ただ時に従って順応し、険難と争わないことができる。小傷を受けても大凶には至らず、最後には険を脱する。六四は上に比の九五があり、その救いを受ける。九死を脱して一生を得るので「穴より出ず」という。孔子が匡人の囲みを解き、文王が羑里の難を脱したようなものである。雲は地から出て天に昇るが、穴を経ないものはない。そこから「穴より出ず」の意がある。またこの爻は外卦の初めにあり、出る象もある。変ずれば夬となり、決して出る意をもつ。象伝の「順にして聴く」とは、九五の教えに順従できることをいう。坎は耳を表し、聴く象がある。

  【占い】
○ 戦争を問う。四爻は坎の始めであり、坎は血の卦である。「血に需つ」とは戦で傷を受けること。「穴より出ず」とは、傷ついてもなお険を脱することができるという意味である。険を脱する方法は、強く争うことではなく、順って聴くことにある。順えば害を免れる。


○ 家宅を問う。「血に需ち、穴より出ず」とあり、幽谷を出て高木へ移る象である。順とは家道が順調になること。吉。

○ 商売を問う。爻辞から考えると、必ず鉱産物を採取する仕事であろう。「穴より出ず」とあるので、利益を得る。

○ 功名を問う。心血を絞り尽くしてこそ人の上に立てるということであり、需の血に需ち穴より出ずる象がある。

○ 病気を問う。吐血の症状であろう。気血を調え養い、陰陽を和順にすれば、おのずから険を脱して命を保てる。

○ 妊娠を問う。男児が生まれる。多少の危険と難儀はあるが、最後には安産となる。

【例】 明治十九年、知友の英国人で工学博士の某が来て告げた。「私には娘が一人あり、フランス公使館の書記官某氏の妻である。今まさに出産しようとしているが、難産に遭い、命は一刻を争う。どうか一筮して吉凶を占ってほしい」。占うと、需が夬に変わった。

断に曰く。需とは待つことであり、万事において待つことを本義とする。今、難産に臨んでいる以上、ただ分娩が速やかに進むのを待つしかない。爻辞が需というのは、速やかに産めないことを示す。九五ならなお待つ余地があるが、上六に至ればもはや待つ余地はない。この易理を知り、事の変化に応じるなら、別の治療法を求めるほかない。全卦を産婦の妊娠した身体と見ると、九三は産道の位置にある。陽爻が陰に変われば安産の意味になる。しかし今回得たのは陰の六四であり、陰柔が険にあるので、難産の象が明らかである。さらに四爻の位は腹部に当たり、母の腹を切り開く象がある。なぜか。「血に需つ」の血は産血ではなく鮮血であり、「穴より出ず」の穴は産道ではなく切開口である。外科医を呼び、別の妙術を施すべきである。九五の酒食の吉に頼って、治療を先延ばしにし、分娩を待つだけなら、上爻の「穴に入る」時に至って、母子ともに救えなくなる恐れがある。爻象は明らかである。急いで緊急の処置を施し、妊婦の安全を図るべきである。

某氏はこの占断を聞くと大いに喜び、すぐに医師へ知らせた。腹部を切開して分娩したところ、子は死んだものの、母は幸いにも命を取り留めた。

九五。酒食に需つ。貞しければ吉。

九五。酒食に需つ。貞しければ吉。

象伝に曰く。「酒食にして貞しければ吉なのは、中正による」。

五爻は剛健な陽で尊位にあり、中を得て正しい。自らの道を十分に尽くしている。このようにして待てば、何を待って得られないことがあろうか。『纂言』にいう。「万物は雨沢を需め、人は飲食を需め、天下は涵養を需める。需の時義は大なるかな」。飲食は、人々が各自生命を養うために必要とするものである。しかし人君は自分を養うために需めるのではなく、飲食をもって天下を養う。休養生息を実現し、天下の民が皆その楽しみを楽しみ、その利益を得て、深い仁と厚い恩沢の中に満ち足りるようにする。だから「貞しければ吉」というのである。ところが、豆や小さな升、わずかな釜鐘ほどの小恩に執着し、安逸をむさぼって警戒を忘れれば、築いた功業を失う者が往々にしている。これは中正を失うことである。象伝の「酒食にして貞しければ吉、中正による」は、深い戒めである。また九五の君徳はなお険の中にあり、人々の助けを必要とする。初爻は自ら耕して志を求めることを楽しみ、二爻は人の言葉を警戒して退き、三爻は慎みを守って災いを免れ、四爻に至って穴を出て進む。上爻では招かれずに人が来て、五爻では時運が幾度も好転し、賢者が一斉に進む。この時、君主は賢者に住まいと食事を与え、礼を厚くして養う。賢才もそれぞれ能力を発揮し、天下を救う。農事を教え、農民を明らかにし、田を図って授け、まず民の衣食の源を計り、天下に一人として凍え飢える者がないようにする。たとえ飢饉や凶作に遭っても、必ず租税を免じ、救済を行い、民の飢えを自分の飢えと感じる心をいっそう強くする。これこそ、長く続いて世を化する王道であり、需の道ではないか。彖伝に「需は孚あり、光り亨る。貞しければ吉。天位に位して、正中を得る」とあるのは、このことをいう。この爻が変われば泰となり、天下太平の象である。

  【占い】
○ 戦争を問う。爻辞に「酒食に需つ」とあり、勝利して軍を帰し、慰労し、功績を賞する象である。だから「貞しければ吉」という。


○ 功名を問う。鹿鳴の宴を楽しむ時である。吉。

○ 商売を問う。五爻には離の互卦があり、その辰は午、上には柳宿が当たり、付属星に酒旗・外厨がある。宴享や飲食を主るので、必ず酒館、穀物、食品などの商売である。さらに坎は人を表し、納れることを表すから、その商売は必ず余剰品を輸入する。ゆえに「貞しければ吉」。

○ 婚姻について占う。需の四爻は泰に変わり、泰の六五には「帝乙が妹を嫁がせ、幸福と大吉を得る」とあり、また九三には「食に福あり」とある。これはまさに「酒食をもって待つ」の意である。「福あり」ゆえに「正しければ吉」である。象伝は「中正を得ているから」といい、婚姻の正道を得ることをいう。

○ 六甲について占う。男児が生まれる。子を得れば必ず酒を用意して宴席を設けるのは、古今変わらない。だから爻辞に「酒食をもって待つ」とある。

【例】ある人が某県から来て言った。「これからある高貴な有力者を訪ね、お願いしたいことがある。その方の待遇がどうなるか占ってほしい」。筮して需から泰へ変じた。冒頭から断じて言う。「九五。酒食をもって待つ。正しければ吉」。

断じて言う。需とは、必要とし、待つ意である。疎遠でまだ会ったことのない者同士が偶然会えば、必ず大きな喜びがある。卦象もその通りである。これから見ると、あなたがその高貴な有力者を訪ねれば、相手は必ず喜んで迎え、ことさらに厚くもてなし、都に滞在させ、幾度も宴席に招いて旧事を語り合うだろう。敬愛を受けることができる。ゆえに「酒食をもって待つ。正しければ吉」という。

その後、その人が礼を述べに来て言った。「先生の占いに従って高貴な有力者を訪ねたところ、たいへん厚くもてなされ、願いもかないました。神妙な易の働きは、まことに霊験あらたかです」。

上六。穴に入る。招かぬ客三人が来る。これを敬えば、最後には吉。

上六。穴に入る。招かぬ客三人が来る。これを敬えば、最後には吉。

象伝はいう。「招かぬ客が来る。これを敬えば最後には吉」。位は正しくないが、大きな過失はない。

上六は四爻とともに坎の陰を成し、穴の象がある。上爻は外卦の終わりに位置し、外へ出ても進むところがないので、「穴に入る」という。「招かぬ客三人が来る」とは、内卦の三陽が、招かれなくても皆やって来ることをいう。ただ柔順で拒まず、嫉妬や争いの心なく、ひたすら敬礼をもって待遇するので、その三陽は剛強で決断力があっても、争って奪う意図を持たない。ゆえに「これを敬えば最後には吉」という。「これを敬う」の二字には、前爻の「酒食」の意が暗に含まれている。「最後には吉」の意は九二と同じである。上六は陰で険難の中にあり、もはや待つべきものはない。しかし敬意をもって下位の賢者にへりくだることができるので、失うところはない。ゆえに象伝は「位は正しくないが、大きな過失はない」という。

按ずるに、「位」とは六爻の六つの位置をいう。位が当たるとは正しい位置を得ること、位が当たらないとは正しい位置を得ないことである。これは易の通例である。しかし細かな違いもある。象伝で「位」というときは、多くの場合、九五の君位を指す。また、卦を生じる法に関して位を説く場合は、六爻の正位をいう。小畜・同人・大有・噬嗑・家人・帰妹・漸・渙・既済はいずれもこの例である。さらに象伝における「位」にはいくつかの意味がある。六爻の正位・不正位を説くものは、履の六三、否の六三、予の六三、噬嗑の六三、晋の九四、蹇の六四、解の九四、震の六三、豊の九四、旅の九四、兌の六三、中孚の六四、小過の九四、未済の六三である。三爻と四爻について説くのは、二爻と五爻の位置が正しくなくても、剛中・柔中の意義があるからである。また初爻と上爻は無位の地とし、通常は位を論じない。位が当たれば吉、当たらなければ凶だが、位が当たらないことを吉とする場合もあり、大壮六五の伝がその例である。九五について君位を専ら説くものには、比・否・巽・節の伝がある。また不当位に関する辞を結びつけるものには、需上六の伝、噬嗑の象伝、困九四の伝がある。不当位と位が当たらないとは、その意味が少し異なる。不当位は本来、単純に正位か不正位かをいうのではない。だから需の上六は、陰が陰位に居て正位を得ているのに、なお「不当位」と称される。「位」とは五爻の君位をいうので、需の上六と困の九四のように、君位に近い爻についてこれを説くのである。さらにこの卦中の「難」「敗」「寇」「血」「穴」「陥」「言」「孚」「入」「酒」「食」「宴」「楽」「郊」「沙」「衍」「聴」は、すべて坎の象である。聖人が象を観るには、実に妙用があることが分かる。別説では、「不速」とは招かずに来ることではなく、需が待つ意であることから、遅れてゆっくり来ることをいう。初・二・三・四の諸爻を見れば、「郊において」「泥において」「砂において」「穴から出る」とあり、いずれも少しずつ進むこと、急がず遅れて来ることを示している。「三人」とは、すなわち乾卦の三つの陽爻である。この説も通じる。

  【占い】
○ 戦争について占う。上爻は坎の終わりにあり、「穴」は坎の険をいう。「穴に入る」とは、険阻に頼って自ら守ることである。「三人」は内卦の三陽をいい、「招かぬ」とは自ら来ること、つまり敵兵が三方から包囲することをいう。険地に入った以上、再び戦うのはよくない。礼をもって接し、和解すべきである。ゆえに「これを敬えば、最後には吉」という。


○ 商売について占う。坎は労苦の卦であり、万物の帰するところなので、「穴に入る」という。穴とは洞窟、すなわち商品を貯蔵する場所である。「三人が来る」とは買い手の客をいう。敬礼をもって迎えれば、値がつき次第売れるので、「最後には吉」である。ただし坎は水の穴であり、商品をしまうには適さない。幸い客が来ればすぐ売れるので、「位は正しくないが、大きな過失はない」という。

○ 家宅について占う。この家は必ず暗く湿っているが、幸い三方から日光が差し込むので吉である。

○ 婚姻について占う。需の六が小畜に変わる。小畜の上九には「婦の正しさは危うい」とある。「婦」と呼ぶのはすでに嫁いだ女をいうので、「位は正しくない」とする。しかし「正しければ危うい」ので、かえって「最後には吉」である。「穴に入る」には、生きては同室に住み、死しては同じ墓に入る意がある。「三人が来る」とは媒酌人である。

○ 病気について占う。「穴に入る」は凶の象である。「最後には吉」とは、終わってから吉となることなので、病についても凶である。

○ 六甲について占う。男児が生まれる。「最後には吉」とあるので、必ず男の子であって吉となる。

【例】明治二十二年十二月、友人神保長兵衛の妻が胃癌を患って寝たきりになったので、その生死を占った。筮して需から小畜へ変じた。

断じて言う。需とは待つ意であり、また遊魂の卦でもある。遊魂とは、人の魂魄が身体を離れて外をさまようことをいう。天命はすでに尽きているが、なお遅れて待つところがあるので、しばらくは余命を保てる。

この占いでは上爻が全卦の終わりにあり、行くべき所がなく、行けば戻る。ゆえに病は癒えず死に、魂魄はその本に帰る。爻辞の「穴に入る」は埋葬の兆し、「招かぬ客三人が来る」は僧が来て葬送を行うこと、「これを敬えば最後には吉」は心を安らかに固めて成仏することをいう。この卦はもともと帰魂の卦ではないが、爻辞によって必ず死ぬと分かる。

その後、ほどなくして果たして亡くなった。

【例】かつて大阪に住み、私も知っていた中野梧一氏が、ある日新聞で自殺したと報じられ、世間ではさまざまな噂が飛び交った。私はその思いがけない出来事に驚き、このように俊才の人が、どうしてここまで窮迫したのかと思った。生前に聞いていれば、なお代わって処置することもできたが、今となってはどうしようもなく、残念なことである。ちょうど友人が訪ねて来てこの件を話題にし、死に至った理由が不明なのを不思議に思って、私に一卦を占うよう頼んだ。筮して需から小畜へ変じた。

断じて言う。中野氏は商業に従事していた。商業における「穴に入る」とは、鉱山の採掘事業ではないか。「招かぬ客三人が来る」とは、事業が思いどおりにならず、損得が釣り合わず、資金の負債が返済期に迫り、たびたび金主から厳しく督促され、逃れる策もなく、ついに心を決して自殺したことをいう。坎は憂いが加わること、心の病を表し、互卦の巽は風で、狂気の病の象である。またこの卦は遊魂の卦であり、神魂が定まらないことを示す。

その後、事実が伝わってきたが、果たしてこの占いのとおりであった。

【例】ある日、友人の伊東貞雄氏が来て告げた。「私の末の息子は幼い頃から京都の某呉服商の斡旋人をしているが、最近は長く消息が絶えていて、私はひどく心配している。どうか一筮してほしい」。筮して需から小畜へ変じた。

断じて言う。需は待つ意である。内卦の乾は老父、外卦坎の中男を待つので、消息の象である。今は上爻を得、その辞に「穴に入る」とある。おそらくご子息は同僚三人とともに花柳の巷に入り、女色に耽っている。しかしこの爻が変わると巽となる。巽は風であり、入る意であるから、今月末には必ず同僚とともに帰宅するだろう。果たして占いのとおりであった。

爻神の験は時に応じ、変化に応じて現れるので、固定的に解してはならない。この卦の「穴に入る」という一句も、すべて活用してこそ、その霊妙な変化が分かる。読者はよく味わい、考察すべきである[34]。他の爻も同じである。爻辞に豕の字が出れば、小さいものなら鼹鼠、大きいものなら象というように、その形に即して活用する。易の象を研究する者は、この道理を知らなければならない。

【例】明治三十一年、陸軍の運勢を占い、需から小畜へ変じた。

断じて言う。需は前に険があるので、時を待って進む象であり、これを需と名づける。我が国は兵備の不足を痛感し、軍備を拡張して国防を充実させようとしていた。欧州諸国は我が国の進歩の速さを称賛するとともに、将来どれほど恐るべき存在になるかをいっそう認識し、陸海軍の参謀をたびたび派遣して我が国の兵備を視察させた。ゆえに内には兵備を整え、外には来訪する賓客を礼遇し、国交をいっそう密にして疑念を起こさせない。これを「招かぬ客三人が来る。これを敬えば最後には吉」というのである。