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雷地豫。豫は、諸侯を立て、軍を動かすのによい。
16 雷地豫
按ずるに、「豫」という字は象形に従い、また「牙」にも従う。左側の牙が地面に垂れ下がる形は、大きなものを象徴する。象の性質は柔らかく緩やかで、進退に迷いが多い。外へ動くさまが安らかで、一方に伏し一方に仰ぎ、抑え込んだり隠したりしないので、安らかで抑制も隠蔽もないことを「豫」といい、そこからこの卦の名となった。卦体は下が坤、上が震である。坤は下にあって従い、上を載せる。震は上にあって動き、下を振るわせる。外にはのびやかに現れ、内に抑え込まないことをいうので、これを豫とする。豫は謙と相対する。序卦伝には、「大きなものを持ちながら謙でいられれば、必ず豫となる。ゆえにこれを受けるに豫をもってする」とある。これが豫が謙の次に置かれる理由である。
豫は、諸侯を立て、軍を動かすのによい。
▲ 甲骨文字の「豫」
「豫」は和らぎ悦ぶこと、「震」は動くこと、「坤」は順うことである。上が動き、下が順うので「利」となる。坤は国を表し、震は諸侯を表すから、諸侯を立てるのによい。坤は事業を表し、震は行動を表すから、軍を動かすのによい。動かなければ威勢がなく、順わなければ利益もない。順って動くからこそ、君主は立ち、民は従い、軍は出て功を立てる。これほど大きな利はない。ゆえに伝は「順って動く」という。万国を主宰し、大衆を集めるには、豫でなければならない。
象伝に曰く。豫は、剛が応じて志が行われ、順って動くのが豫である。豫は順って動くので、天地もそれに従う。まして諸侯を立て、軍を動かす場合はなおさらである。天地が順って動くから、日月の運行に過ちはなく、四時も乱れない。聖人が順って動けば、刑罰は明らかになり、民は服する。豫の時の意義は、なんと大きいことか。
卦の体は下が坤、上が震である。震は雷、坤は地なので、雷が地上に出て奮い起こる象となる。坤である地は静かで、純陰は閉じることを主とする。閉じることが極まれば、鬱結して通じなくなる。震は動きであり、陽気が動いて万物が生じるので、悦びとなる。九四の一陽は坤の交わりに当たり、静が極まって初めて動き、閉が極まって初めて開く。早すぎも遅すぎもせず、時に応じて順って動くので、豫という。天下の事で、道理に逆らって動く者は、心が常に苦しく、事も多く難しい。ただ道理に順って、ゆったりと急がず動けば、心は安らかで和らぐ。ゆえに「剛が応じて志が行われる」とは、すべて順って動くことにかかっている。順って動くことは、天にあっては「四時に過ちがない」ことであり、人にあっては動静が和順であることである。「諸侯を立てる」とは五国の屏藩を設けること、「軍を動かす」とは民を慰め、罪を討つことであり、いずれも豫楽の意義から出る。これを「剛が応じて志が行われ、順って動くのが豫」というのである。「順って動く」の三字こそ、この卦の徳性である。だから「天地もこれに従う。まして諸侯を立て、軍を動かす場合はなおさらである」という。以下の「天地が順って動く」からは、豫の働きが比べるものなく大きいことを述べる。「日月に過ちがない」とは、日月の運行に誤差がないこと。「刑罰が明らかで民が服する」とは、聖代の至治の基準である。訴訟や獄事が衰え、民が大いに畏れ、中正に協して服するのである。聖人は私心を持たず、ただ物に順って動く。善にはその善に順って賞し、悪にはその悪に順って罰する。少しも私情を抱かず、刑は過重にならず、罰も過不足なく、刑罰はおのずから明らかになる。これらはすべて「順って動く」徳から出る。三才の道も万物の理も、これを越えるものはない。だから「豫の時の意義はなんと大きいことか」という。彖伝は前に「順って動く」といい、後に「順をもって動く」という。前者は卦象の自然から説明したもの、後者は人事における作用から述べたものである。「天地」と「聖人」は対比されている。後文の「すなわち」は前文に対応するので、本来は「ゆえに」とすべきところだが、ここで「すなわち」としたことには深い意味がある。「天地が順って動く」とは、万古にわたって退転することのない必然の定理であり、それを受けて「ゆえに」と続くのである。易で単に「聖人」というときは、天子を指す。聖人の徳を備えた者であって初めて四海を富ませ、天子として尊ばれる。これを天命に順うという。文王・周公・孔子は聖人であったが、その時を得ず、その位を得なかった。したがって聖人が必ず天子の位にあるとは限らないので、後文では「すなわち」と受けている。ここがこの章の眼目であり、易の教えの本意である。ゆえに天地・日月・四時を客とし、聖人を主とする。重んずべきは聖人についての一文であるが、読者は往々にして急いで読み過ごしてしまう。
象伝で「大いなるかな」という表現を用いる卦は十二ある。その上に「時義」とするもの、「時用」とするもの、また単に「時」とするものがある。「時義大いなるかな」という卦は、豫・随・遯・姤・旅の五卦である。言葉は浅くても趣旨は深く、人に熟考させようとしている。「時用大いなるかな」という卦は、坎・睽・蹇の三卦である。いずれも好ましい事柄ではないが、聖人は時にこれを用いる。「時大いなるかな」という卦は、頤・大過・解・革の四卦である。いずれも大きな変事に因んで戒めを発している。要するに、それぞれの言葉には取るべき意味がある。
この卦を人事に当てはめると、この卦は柔爻五つ、剛爻一つなので、その人は柔らかさが多く、剛さが少ないはずである。柔は順うことを主とし、剛は動くことを主とする。柔は剛に応じてこそ行うことができるので、「応ずる」という。『剛が応じて志が行われ、順って動くのが豫』である。天の動き、すなわち日月の往来によって四時が定まり、聖人はこれにならって刑罰を定め、万民は服する。人は天地の間にいて聖人の化を受ける。人が下位にいる場合、実際に諸侯を立てるわけではないが、友を求め師を親しむことがこれに当たる。実際に軍を動かすわけではないが、邪を除き悪を憎むことがこれに当たる。何かを行うときは、すべて天地の順に法るべきであり、そうすれば行動が過ちを越えない。天地に順うことができれば、天地もまたその人に順い、長く安らかな豫を保たせる。しかし豫に溺れて反省しなければ、初六の「凶」、六三の「悔」、六五の「疾」、上六の「冥」に至り、自ら豫を失う。その豫は、かえって自分の憂いとなる。六二の「石のごとく介然」とし、九四の「疑うな」のようであってこそ、これを得ることができる。人は本来、道理に順って動くべきである。動きが道理に順えば、動いても咎はない。それが豫である。
この卦を国家に当てはめる。震は動きを表して上にあり、坤は順うことを表して下にある。上が動き、下が順うのは、上が威令を行い、下が皆これに従う象である。だから「万国を主宰し、大衆を集めるには、豫でなければならない」という。天下の人はそれぞれ異なるが、その心は同じである。天下の心はそれぞれ異なっても、その理は同じである。自分が道理に順って動けば、人は皆これに順う。九四の一陽は執政の位にあり、剛明の徳を備え、赫々たる威権によって国家を統治する。そのため卦中の諸陰は皆、和らぎ順い、悦んで服する。震は侯と建を表し、坤は国、臣民、順を表すので、臣民が服従する象となる。四は成卦の主であり、六五の君に近く、これを輔佐して万民を豫楽和順させる。政を行うに当たっては、すべて天道にならう。寒さが極まれば暖風が来て、暑さが極まれば涼風が来るように、世が好むものを好み、世が憎むものを憎む。賞罰は公明で、少しも私意がない。これが豫の時である。しかし執政は国家の重責を負い、威権を一手に握るので、どうしても人を逼迫するところがあり、群臣の「疑い」を招き、君心の「疾」を起こすこともある。尾が大きくなって動かせなくなるのは、恐るべきことである。ただ至誠を尽くし、疑念を抱かなければ、衆力を合わせて上位を安んじることができる。そうすれば君主の信任はいよいよ厚くなり、その功労を賞して侯に封じ、王命に服さない者があれば討伐を命じることもできる。上卦の震の方伯は動いてともに進み、下卦の坤の民衆は悦んで順う。これを「諸侯を立て、軍を動かすのによい」という。四の体は震であり、震は長子を表すので「侯を建てる」という。一陽が多くの陰を統率するので「軍を動かす」という。五爻以下には比の衆の象があり、比は国を建て侯に親しむことを表すので「侯を建てる」という。三爻以上には師の象があるので「軍を動かす」という。「利」の字は「侯を建てる」と「軍を動かす」の両方を包む。これが豫の時勢である。上下が悦び楽しむことが極まると、それは危険の基となる。これを謙に戻すべきであり、ひとたび転じるだけで天下の治乱安危が決まる。善は君主に帰し、過ちは自分に帰す。公の利益を図って独占せず、害をよく見極めて避けない。これが大臣が豫に処する道であり、そうしてこそ上下が交わって泰らかになる。
この卦を全体的に見ると、その要旨は「順って動く」の三字に尽きる。順いきったものは、動かなければ悦ばない。動いて順応するから悦ぶのである。まだ順っていなければ先に動かず、すでに順っていれば後れることもない。ただ気の働きが自然にそうなるだけである。豫の時は心に苦労がなく、意は満ち、楽しみが極まっている。楽しみの極みにいると、感情や欲望に任せ、遊びにふけって帰ることを忘れる。これは人情として避けがたい。聖人はこれを憂えた。そこで、まだ豫に至らないのに先に動くことを「豫を鳴らす」といい、動かずにいることを「石のように固い豫」といい、座して眺めることを「仰ぎ見る」といい、豫の時に当たって順うことを「導かれる」といい、豫が過ぎても自省しないことを「疾」といい、楽しみが極まって帰ることを忘れることを「冥」という。「鳴」「盱」「疾」「冥」の四つは、豫における咎、いわゆる豫を失う状態である。ただ六二の「石のごとく介然」とする者だけが、憂楽や治乱の機をよく見極める。だから順うには「貞」よりよいものはなく、動くには「由」よりよいものはない。「貞」によって順うのを待ち、「由」によって行動する。まだ豫でないところから豫に至れば、豫は必ず訪れ、すでに豫にあっても、それが憂いになることはない。天地聖人の限りない悦びは、ただ豫に安住する術を知ることから生まれる。この卦を読めば、聖人が世に対して懇々と諭す心が見えてくる。
按ずるに、六爻がいう「豫」はそれぞれ異なる。初六と上六の豫は安逸にふける豫、六二の豫は機に先んじて察する豫、六三の豫はためらい、九四の豫は和らぎ楽しむ豫、六五の「疾」は豫がないこと、彖伝の豫は人々が和合する豫、爻辞の豫は各人一身の豫である。要するに、悦び楽しむことは必ず大衆と共にすべきで、私的に独占してはならないことを示す。人事には豫がなくてはならないが、人の心には豫があってはならない。
大象伝に曰く。雷が地上に出て奮い起こるのが豫である。先王はこれにならって楽を作り徳を尊び、盛大に上帝を祀り、祖先を配祀した。
雷は時を得て地上に奮い出で、陽気が外へ発し、震動して音を生じる。その音は天地の和を鼓舞し、陰陽の気を発散させ、通じて和らかにする。これが豫の象である。そこで先王は震の動きにならって楽を作り、その音にかたどって盛んな徳を鳴り響かせた。また坤の順う性質にならって徳を尊び、その本体を明らかにして功績に報いた。楽が作られると、近くは家庭から遠くは国家まで、明らかな人事から幽玄な神霊の世界まで、用いないところはない。上帝に供物を献じて上帝が降り臨み、祖先を配して祭って祖先が来て受けるに至れば、幽なるものが感じ、明なるものが誠となる。これが豫が豫であるゆえんである。だから履は易における礼であり、豫は易における楽である。君主がこの意を体得し、万民を楽しく和らかにさせれば、豫の極みに至る。
【占い】
○ 時運を問う。目下は春雷が起こるように、まさに時運に恵まれている。万事吉。
○ 商売を問う。時は新商品が入ったばかりで、市価が急騰している。絶好の機会で、大いに利益を得る。
○ 家宅を問う。変動に注意せよ。神を礼拝し祖先を祭って福佑を祈れば、安泰を得る。
○ 病気を問う。祈祷がよい。
○ 戦争を問う。雷のように激しく風のように速く、必勝の兆し。
○ 功名を問う。いわゆる平地に一声の雷であり、ほどなく昇進する象である。
○ 失物を問う。自然に現れる。
○ 妊娠:男児が生まれる。
按ずるに、「豫」という字は象形に従い、また「牙」にも従う。左側の牙が地面に垂れ下がる形は、大きなものを象徴する。象の性質は柔らかく緩やかで、進退に迷いが多い。外へ動くさまが安らかで、一方に伏し一方に仰ぎ、抑え込んだり隠したりしないので、安らかで抑制も隠蔽もないことを「豫」といい、そこからこの卦の名となった。卦体は下が坤、上が震である。坤は下にあって従い、上を載せる。震は上にあって動き、下を振るわせる。外にはのびやかに現れ、内に抑え込まないことをいうので、これを豫とする。豫は謙と相対する。序卦伝には、「大きなものを持ちながら謙でいられれば、必ず豫となる。ゆえにこれを受けるに豫をもってする」とある。これが豫が謙の次に置かれる理由である。
豫は、諸侯を立て、軍を動かすのによい。
▲ 甲骨文字の「豫」
「豫」は和らぎ悦ぶこと、「震」は動くこと、「坤」は順うことである。上が動き、下が順うので「利」となる。坤は国を表し、震は諸侯を表すから、諸侯を立てるのによい。坤は事業を表し、震は行動を表すから、軍を動かすのによい。動かなければ威勢がなく、順わなければ利益もない。順って動くからこそ、君主は立ち、民は従い、軍は出て功を立てる。これほど大きな利はない。ゆえに伝は「順って動く」という。万国を主宰し、大衆を集めるには、豫でなければならない。
象伝に曰く。豫は、剛が応じて志が行われ、順って動くのが豫である。豫は順って動くので、天地もそれに従う。まして諸侯を立て、軍を動かす場合はなおさらである。天地が順って動くから、日月の運行に過ちはなく、四時も乱れない。聖人が順って動けば、刑罰は明らかになり、民は服する。豫の時の意義は、なんと大きいことか。
卦の体は下が坤、上が震である。震は雷、坤は地なので、雷が地上に出て奮い起こる象となる。坤である地は静かで、純陰は閉じることを主とする。閉じることが極まれば、鬱結して通じなくなる。震は動きであり、陽気が動いて万物が生じるので、悦びとなる。九四の一陽は坤の交わりに当たり、静が極まって初めて動き、閉が極まって初めて開く。早すぎも遅すぎもせず、時に応じて順って動くので、豫という。天下の事で、道理に逆らって動く者は、心が常に苦しく、事も多く難しい。ただ道理に順って、ゆったりと急がず動けば、心は安らかで和らぐ。ゆえに「剛が応じて志が行われる」とは、すべて順って動くことにかかっている。順って動くことは、天にあっては「四時に過ちがない」ことであり、人にあっては動静が和順であることである。「諸侯を立てる」とは五国の屏藩を設けること、「軍を動かす」とは民を慰め、罪を討つことであり、いずれも豫楽の意義から出る。これを「剛が応じて志が行われ、順って動くのが豫」というのである。「順って動く」の三字こそ、この卦の徳性である。だから「天地もこれに従う。まして諸侯を立て、軍を動かす場合はなおさらである」という。以下の「天地が順って動く」からは、豫の働きが比べるものなく大きいことを述べる。「日月に過ちがない」とは、日月の運行に誤差がないこと。「刑罰が明らかで民が服する」とは、聖代の至治の基準である。訴訟や獄事が衰え、民が大いに畏れ、中正に協して服するのである。聖人は私心を持たず、ただ物に順って動く。善にはその善に順って賞し、悪にはその悪に順って罰する。少しも私情を抱かず、刑は過重にならず、罰も過不足なく、刑罰はおのずから明らかになる。これらはすべて「順って動く」徳から出る。三才の道も万物の理も、これを越えるものはない。だから「豫の時の意義はなんと大きいことか」という。彖伝は前に「順って動く」といい、後に「順をもって動く」という。前者は卦象の自然から説明したもの、後者は人事における作用から述べたものである。「天地」と「聖人」は対比されている。後文の「すなわち」は前文に対応するので、本来は「ゆえに」とすべきところだが、ここで「すなわち」としたことには深い意味がある。「天地が順って動く」とは、万古にわたって退転することのない必然の定理であり、それを受けて「ゆえに」と続くのである。易で単に「聖人」というときは、天子を指す。聖人の徳を備えた者であって初めて四海を富ませ、天子として尊ばれる。これを天命に順うという。文王・周公・孔子は聖人であったが、その時を得ず、その位を得なかった。したがって聖人が必ず天子の位にあるとは限らないので、後文では「すなわち」と受けている。ここがこの章の眼目であり、易の教えの本意である。ゆえに天地・日月・四時を客とし、聖人を主とする。重んずべきは聖人についての一文であるが、読者は往々にして急いで読み過ごしてしまう。
象伝で「大いなるかな」という表現を用いる卦は十二ある。その上に「時義」とするもの、「時用」とするもの、また単に「時」とするものがある。「時義大いなるかな」という卦は、豫・随・遯・姤・旅の五卦である。言葉は浅くても趣旨は深く、人に熟考させようとしている。「時用大いなるかな」という卦は、坎・睽・蹇の三卦である。いずれも好ましい事柄ではないが、聖人は時にこれを用いる。「時大いなるかな」という卦は、頤・大過・解・革の四卦である。いずれも大きな変事に因んで戒めを発している。要するに、それぞれの言葉には取るべき意味がある。
この卦を人事に当てはめると、この卦は柔爻五つ、剛爻一つなので、その人は柔らかさが多く、剛さが少ないはずである。柔は順うことを主とし、剛は動くことを主とする。柔は剛に応じてこそ行うことができるので、「応ずる」という。『剛が応じて志が行われ、順って動くのが豫』である。天の動き、すなわち日月の往来によって四時が定まり、聖人はこれにならって刑罰を定め、万民は服する。人は天地の間にいて聖人の化を受ける。人が下位にいる場合、実際に諸侯を立てるわけではないが、友を求め師を親しむことがこれに当たる。実際に軍を動かすわけではないが、邪を除き悪を憎むことがこれに当たる。何かを行うときは、すべて天地の順に法るべきであり、そうすれば行動が過ちを越えない。天地に順うことができれば、天地もまたその人に順い、長く安らかな豫を保たせる。しかし豫に溺れて反省しなければ、初六の「凶」、六三の「悔」、六五の「疾」、上六の「冥」に至り、自ら豫を失う。その豫は、かえって自分の憂いとなる。六二の「石のごとく介然」とし、九四の「疑うな」のようであってこそ、これを得ることができる。人は本来、道理に順って動くべきである。動きが道理に順えば、動いても咎はない。それが豫である。
この卦を国家に当てはめる。震は動きを表して上にあり、坤は順うことを表して下にある。上が動き、下が順うのは、上が威令を行い、下が皆これに従う象である。だから「万国を主宰し、大衆を集めるには、豫でなければならない」という。天下の人はそれぞれ異なるが、その心は同じである。天下の心はそれぞれ異なっても、その理は同じである。自分が道理に順って動けば、人は皆これに順う。九四の一陽は執政の位にあり、剛明の徳を備え、赫々たる威権によって国家を統治する。そのため卦中の諸陰は皆、和らぎ順い、悦んで服する。震は侯と建を表し、坤は国、臣民、順を表すので、臣民が服従する象となる。四は成卦の主であり、六五の君に近く、これを輔佐して万民を豫楽和順させる。政を行うに当たっては、すべて天道にならう。寒さが極まれば暖風が来て、暑さが極まれば涼風が来るように、世が好むものを好み、世が憎むものを憎む。賞罰は公明で、少しも私意がない。これが豫の時である。しかし執政は国家の重責を負い、威権を一手に握るので、どうしても人を逼迫するところがあり、群臣の「疑い」を招き、君心の「疾」を起こすこともある。尾が大きくなって動かせなくなるのは、恐るべきことである。ただ至誠を尽くし、疑念を抱かなければ、衆力を合わせて上位を安んじることができる。そうすれば君主の信任はいよいよ厚くなり、その功労を賞して侯に封じ、王命に服さない者があれば討伐を命じることもできる。上卦の震の方伯は動いてともに進み、下卦の坤の民衆は悦んで順う。これを「諸侯を立て、軍を動かすのによい」という。四の体は震であり、震は長子を表すので「侯を建てる」という。一陽が多くの陰を統率するので「軍を動かす」という。五爻以下には比の衆の象があり、比は国を建て侯に親しむことを表すので「侯を建てる」という。三爻以上には師の象があるので「軍を動かす」という。「利」の字は「侯を建てる」と「軍を動かす」の両方を包む。これが豫の時勢である。上下が悦び楽しむことが極まると、それは危険の基となる。これを謙に戻すべきであり、ひとたび転じるだけで天下の治乱安危が決まる。善は君主に帰し、過ちは自分に帰す。公の利益を図って独占せず、害をよく見極めて避けない。これが大臣が豫に処する道であり、そうしてこそ上下が交わって泰らかになる。
この卦を全体的に見ると、その要旨は「順って動く」の三字に尽きる。順いきったものは、動かなければ悦ばない。動いて順応するから悦ぶのである。まだ順っていなければ先に動かず、すでに順っていれば後れることもない。ただ気の働きが自然にそうなるだけである。豫の時は心に苦労がなく、意は満ち、楽しみが極まっている。楽しみの極みにいると、感情や欲望に任せ、遊びにふけって帰ることを忘れる。これは人情として避けがたい。聖人はこれを憂えた。そこで、まだ豫に至らないのに先に動くことを「豫を鳴らす」といい、動かずにいることを「石のように固い豫」といい、座して眺めることを「仰ぎ見る」といい、豫の時に当たって順うことを「導かれる」といい、豫が過ぎても自省しないことを「疾」といい、楽しみが極まって帰ることを忘れることを「冥」という。「鳴」「盱」「疾」「冥」の四つは、豫における咎、いわゆる豫を失う状態である。ただ六二の「石のごとく介然」とする者だけが、憂楽や治乱の機をよく見極める。だから順うには「貞」よりよいものはなく、動くには「由」よりよいものはない。「貞」によって順うのを待ち、「由」によって行動する。まだ豫でないところから豫に至れば、豫は必ず訪れ、すでに豫にあっても、それが憂いになることはない。天地聖人の限りない悦びは、ただ豫に安住する術を知ることから生まれる。この卦を読めば、聖人が世に対して懇々と諭す心が見えてくる。
按ずるに、六爻がいう「豫」はそれぞれ異なる。初六と上六の豫は安逸にふける豫、六二の豫は機に先んじて察する豫、六三の豫はためらい、九四の豫は和らぎ楽しむ豫、六五の「疾」は豫がないこと、彖伝の豫は人々が和合する豫、爻辞の豫は各人一身の豫である。要するに、悦び楽しむことは必ず大衆と共にすべきで、私的に独占してはならないことを示す。人事には豫がなくてはならないが、人の心には豫があってはならない。
大象伝に曰く。雷が地上に出て奮い起こるのが豫である。先王はこれにならって楽を作り徳を尊び、盛大に上帝を祀り、祖先を配祀した。
雷は時を得て地上に奮い出で、陽気が外へ発し、震動して音を生じる。その音は天地の和を鼓舞し、陰陽の気を発散させ、通じて和らかにする。これが豫の象である。そこで先王は震の動きにならって楽を作り、その音にかたどって盛んな徳を鳴り響かせた。また坤の順う性質にならって徳を尊び、その本体を明らかにして功績に報いた。楽が作られると、近くは家庭から遠くは国家まで、明らかな人事から幽玄な神霊の世界まで、用いないところはない。上帝に供物を献じて上帝が降り臨み、祖先を配して祭って祖先が来て受けるに至れば、幽なるものが感じ、明なるものが誠となる。これが豫が豫であるゆえんである。だから履は易における礼であり、豫は易における楽である。君主がこの意を体得し、万民を楽しく和らかにさせれば、豫の極みに至る。
【占い】
○ 時運を問う。目下は春雷が起こるように、まさに時運に恵まれている。万事吉。
○ 商売を問う。時は新商品が入ったばかりで、市価が急騰している。絶好の機会で、大いに利益を得る。
○ 家宅を問う。変動に注意せよ。神を礼拝し祖先を祭って福佑を祈れば、安泰を得る。
○ 病気を問う。祈祷がよい。
○ 戦争を問う。雷のように激しく風のように速く、必勝の兆し。
○ 功名を問う。いわゆる平地に一声の雷であり、ほどなく昇進する象である。
○ 失物を問う。自然に現れる。
○ 妊娠:男児が生まれる。
初六。豫を鳴らす。凶。
初六。豫を鳴らす。凶。
象伝に曰く。初六の「豫を鳴らす」とは、志が窮することであり、凶である。
「鳴豫」とは、自ら得意になって喜びを言い立てることをいう。楽しみの情が心に動き、それが声に表れるのである。初爻は陰柔で才がなく、最下位にいて四爻と応じている。その寵愛を頼み、満足の心があふれ、喜びに堪えず、応じて自ら吹聴する。その凶は明らかである。だから「鳴豫、凶」という。象伝には「志、窮す。凶なり」とある。「窮」とは、満ち極まることをいう。初爻は志を得たばかりなのに、もう満ち極まっている。時運はようやく来たのに、志だけが先に窮してしまったので、凶なのである。別説では、「窮」は「凶」の下にかかり、志が凶窮するという。
按ずるに、豫の初六と謙の上六とは反対である。謙の上六は「謙を鳴らす」といい、九三に応じてそれを鳴らす。豫の初六は「豫を鳴らす」といい、九四に応じてそれを鳴らす。他人の謙を鳴らすのは吉だが、自分の楽しみを鳴らすのは凶である。ゆえに、「謙は鳴らしてよいが、豫は鳴らしてはならない」という。
【占い】
○ 時運を問う。初めの運はかなりよいが、ひとたび得意になると誇張し、ついには行き詰まる。
○ 商売を問う。初回は必ず利益を得るが、欲をかきすぎてはならない。
○ 家宅を問う。鳥の鳴き声や猿の叫びに驚かされるような怪異が起こる恐れがあり、凶。
○ 病気を問う。不利である。
○ 訴訟を問う。冤を鳴らしても正されない。自ら訴えを取り下げるのがよい。
○ 失物を問う。見つからない。
【例】ある日、私は横浜へ某友人を訪ねた。そこには先客がいて、私に一占を求めたので、筮すると豫が震に変じた。
私はこう断じた。この卦は九四の一陽が時と位を得て、威権が盛んであり、上下の五陰が皆これに従っている。今あなたが得たのは初爻で、四爻と陰陽相応し、大いに寵愛を受ける象がある。その寵愛を受け、権勢を借りて、かなり得意になっている様子が「鳴豫、凶」である。この占のとおりなら、身を慎み、行いをつつしむべきだ、と勧めた。客は憤然として去った。
客が帰った後、主人が私に語った。彼は自分の娘を某高官の妾にしており、しばしばその邸に出入りして、卑しくへつらうことは何でもしていた。時には高官の直筆の書状を借り、各地の郡県を歴訪して私利を図っていた。また豪商らの集会や宴席にも出て、高官の親族であるかのように振る舞い、世俗の人々をだましていた。今回、君の占断がその小人の心中を言い当てたため、彼は恥に堪えられず去ったのだという。
象伝に曰く。初六の「豫を鳴らす」とは、志が窮することであり、凶である。
「鳴豫」とは、自ら得意になって喜びを言い立てることをいう。楽しみの情が心に動き、それが声に表れるのである。初爻は陰柔で才がなく、最下位にいて四爻と応じている。その寵愛を頼み、満足の心があふれ、喜びに堪えず、応じて自ら吹聴する。その凶は明らかである。だから「鳴豫、凶」という。象伝には「志、窮す。凶なり」とある。「窮」とは、満ち極まることをいう。初爻は志を得たばかりなのに、もう満ち極まっている。時運はようやく来たのに、志だけが先に窮してしまったので、凶なのである。別説では、「窮」は「凶」の下にかかり、志が凶窮するという。
按ずるに、豫の初六と謙の上六とは反対である。謙の上六は「謙を鳴らす」といい、九三に応じてそれを鳴らす。豫の初六は「豫を鳴らす」といい、九四に応じてそれを鳴らす。他人の謙を鳴らすのは吉だが、自分の楽しみを鳴らすのは凶である。ゆえに、「謙は鳴らしてよいが、豫は鳴らしてはならない」という。
【占い】
○ 時運を問う。初めの運はかなりよいが、ひとたび得意になると誇張し、ついには行き詰まる。
○ 商売を問う。初回は必ず利益を得るが、欲をかきすぎてはならない。
○ 家宅を問う。鳥の鳴き声や猿の叫びに驚かされるような怪異が起こる恐れがあり、凶。
○ 病気を問う。不利である。
○ 訴訟を問う。冤を鳴らしても正されない。自ら訴えを取り下げるのがよい。
○ 失物を問う。見つからない。
【例】ある日、私は横浜へ某友人を訪ねた。そこには先客がいて、私に一占を求めたので、筮すると豫が震に変じた。
私はこう断じた。この卦は九四の一陽が時と位を得て、威権が盛んであり、上下の五陰が皆これに従っている。今あなたが得たのは初爻で、四爻と陰陽相応し、大いに寵愛を受ける象がある。その寵愛を受け、権勢を借りて、かなり得意になっている様子が「鳴豫、凶」である。この占のとおりなら、身を慎み、行いをつつしむべきだ、と勧めた。客は憤然として去った。
客が帰った後、主人が私に語った。彼は自分の娘を某高官の妾にしており、しばしばその邸に出入りして、卑しくへつらうことは何でもしていた。時には高官の直筆の書状を借り、各地の郡県を歴訪して私利を図っていた。また豪商らの集会や宴席にも出て、高官の親族であるかのように振る舞い、世俗の人々をだましていた。今回、君の占断がその小人の心中を言い当てたため、彼は恥に堪えられず去ったのだという。
六二。石のように確固として、日暮れまで待たずに退く。貞正であれば吉。
六二。石のように確固として、日暮れまで待たずに退く。貞正であれば吉。
象伝にいう。「日暮れまで待たず、貞正であれば吉なのは、中正を守るからである」。
「石のように確固として」とは、節操が堅く、動かされないことをいう。安逸を楽しむ道は、ほしいままにすれば正を失うので、豫の諸爻の多くは正位を得ていない。ただこの爻だけは、陰柔でありながら中正の位にあり、九四の剛とは応じも比しもせず、自らを守って独立する節操を持つ。その節操の堅さは、石のようである。人が楽しみに身を置くと、ある者は得意になり、ある者は未練がましく離れられず、ある者は惑って悟らない。これらは皆、中正を失った状態である。そのため、楽しみが来るとすぐ災いが続く。世に自らを守ることを知らない者は、たいていこのようになる。六二だけは節操が堅固で、外物に動かされず、楽しみに執着してはならないことを知り、日暮れまで待たずにそこから離れる。理を察することは明らかで、身を律することは堅く、機を見極めることは断然としており、患いを避けることも速やかである。だから「石のように確固として、日暮れまで待たず、貞正であれば吉」という。「介」とは、堅く確かで抜くことのできないことをいう。「三公の位と替えてもその節操を変えない」という意味である。固く節操を守れるからこそ中正なのであり、象伝は「中正を守るから」と述べる。中正であるからこそ、明らかに弁別し、速やかに悟ることができる。なお、この爻の互卦は艮で、艮は石を表すため、「石のように確固として」という象がある。
【占い】
○ 時運を問う。その人は品行が高く、世俗の盛衰に流されない。吉。
○ 商売を問う。自分の志を決め、悪徳商人に惑わされず、運搬も速やかで利益を得る。
○ 家宅を問う。家長は厳正に家を守り、不当な者の出入りはすぐに断つべきである。吉。
○ 戦争を問う。「山のように守り、火のように発する」とは、機を見極められることをいう。
○ 病気を問う。新しい病はすぐ治り、 오래いた病もすぐ終わる。一日のうちである。
○ 懐妊を問う。女児で、出産は間近である。
【例】明治二十二年、某局の属官某氏が訪ねて来て言った。「私は明治四年、局が創設された当初から一等属として奉職し、それ以来十八年、昼夜勉励し、さまざまな事務の渦中にあっても少しも怠ったことはありません。あなたもご存じのとおりです。新任の部下の多くは上級職に昇進し、今日私の上にいる者の大半は、かつて私の部下でした。彼らの昇進も、人に抜きんでた学問があってのことではありません。私は大いに不満で、本来なら辞職したいのですが、ほかに身の置き所がないのを恐れ、こうして鬱々としています。今後の運勢を占ってください。」筮すると、豫が解に変じた。
私はこう断じた。この卦は九四の一陽が権威を独占し、五陰は皆それに応じざるを得ない。今あなたが得たのは二爻で、九四とは応じも比しもない。したがって上官からの寵愛はとりわけ薄い。しかしあなたは品行が中正で、へつらうことをせず、ただ職務を堅く守ることに努め、石のように動かない。分を越えたことには汚されるのを恐れ、すばやく避ける。だから「石のように確固として、日暮れまで待たず、貞正であれば吉」という。ただし二爻から四爻へ進むと運気は一変し、三年後には必ず昇進できる。
その後、明治二十四年に、この人は果たして高等官に昇進した。
象伝にいう。「日暮れまで待たず、貞正であれば吉なのは、中正を守るからである」。
「石のように確固として」とは、節操が堅く、動かされないことをいう。安逸を楽しむ道は、ほしいままにすれば正を失うので、豫の諸爻の多くは正位を得ていない。ただこの爻だけは、陰柔でありながら中正の位にあり、九四の剛とは応じも比しもせず、自らを守って独立する節操を持つ。その節操の堅さは、石のようである。人が楽しみに身を置くと、ある者は得意になり、ある者は未練がましく離れられず、ある者は惑って悟らない。これらは皆、中正を失った状態である。そのため、楽しみが来るとすぐ災いが続く。世に自らを守ることを知らない者は、たいていこのようになる。六二だけは節操が堅固で、外物に動かされず、楽しみに執着してはならないことを知り、日暮れまで待たずにそこから離れる。理を察することは明らかで、身を律することは堅く、機を見極めることは断然としており、患いを避けることも速やかである。だから「石のように確固として、日暮れまで待たず、貞正であれば吉」という。「介」とは、堅く確かで抜くことのできないことをいう。「三公の位と替えてもその節操を変えない」という意味である。固く節操を守れるからこそ中正なのであり、象伝は「中正を守るから」と述べる。中正であるからこそ、明らかに弁別し、速やかに悟ることができる。なお、この爻の互卦は艮で、艮は石を表すため、「石のように確固として」という象がある。
【占い】
○ 時運を問う。その人は品行が高く、世俗の盛衰に流されない。吉。
○ 商売を問う。自分の志を決め、悪徳商人に惑わされず、運搬も速やかで利益を得る。
○ 家宅を問う。家長は厳正に家を守り、不当な者の出入りはすぐに断つべきである。吉。
○ 戦争を問う。「山のように守り、火のように発する」とは、機を見極められることをいう。
○ 病気を問う。新しい病はすぐ治り、 오래いた病もすぐ終わる。一日のうちである。
○ 懐妊を問う。女児で、出産は間近である。
【例】明治二十二年、某局の属官某氏が訪ねて来て言った。「私は明治四年、局が創設された当初から一等属として奉職し、それ以来十八年、昼夜勉励し、さまざまな事務の渦中にあっても少しも怠ったことはありません。あなたもご存じのとおりです。新任の部下の多くは上級職に昇進し、今日私の上にいる者の大半は、かつて私の部下でした。彼らの昇進も、人に抜きんでた学問があってのことではありません。私は大いに不満で、本来なら辞職したいのですが、ほかに身の置き所がないのを恐れ、こうして鬱々としています。今後の運勢を占ってください。」筮すると、豫が解に変じた。
私はこう断じた。この卦は九四の一陽が権威を独占し、五陰は皆それに応じざるを得ない。今あなたが得たのは二爻で、九四とは応じも比しもない。したがって上官からの寵愛はとりわけ薄い。しかしあなたは品行が中正で、へつらうことをせず、ただ職務を堅く守ることに努め、石のように動かない。分を越えたことには汚されるのを恐れ、すばやく避ける。だから「石のように確固として、日暮れまで待たず、貞正であれば吉」という。ただし二爻から四爻へ進むと運気は一変し、三年後には必ず昇進できる。
その後、明治二十四年に、この人は果たして高等官に昇進した。
六三。楽しみをうかがい望む。悔いあり。遅れれば悔いを生ず。
六三。楽しみをうかがい望む。悔いあり。遅れれば悔いを生ず。
象伝にいう。「楽しみをうかがい望めば悔いがあるのは、位が当たっていないからである」。
「盱」とは、目を大きく開いて見上げ、望みをかける象である。たとえば烏が飛ぶのを見て大空を仰ぎ、魚が泳ぐのを見て深い淵を見下ろし、恋い慕う心に堪えないようなものだから、「盱豫」という。六三は陰柔でありながら陽位にいて、中正を得ていない。見上げているのは、おそらく上の九四の権勢であり、そこに取り入ろうとしているのである。九四は一卦の主で、大臣の位にあり、威福を独占し、五陰は皆これに帰服する。六三はただ仰ぎ見て、その援助にすがり、楽しみを確かなものにしようとする。これを「盱豫」という。九四は、のぞき見をするその態度が中正でないとして卑しみ、ゆえに悔いがある。悔いを知ったなら、ただちに改め、六二のように節操を守り、決意して遠ざかり、日暮れまで待つべきではない。そうすれば何の悔いがあろう。もし一念では悔いと思い、別の一念では楽しみと思って、ためらい決断せず、いつまでも離れられないなら、悔いは必ず免れない。だから「悔いあり。遅れれば悔いを生ず」という。「遅」の一字は、頭上に一撃を加えるようなもので、ぼんやりした者を目覚めさせ、早く考え悟るよう促している。最も深く味わうべきである。象伝の「位が当たっていない」とは、柔が陽位に居て、優柔不断であるため、その位にふさわしくないということだ。この爻が変じると巽となり、決断できないことを表す。悔いを知ってもなお改めない、ためらい決断できない象である。
【占い】
○ 時運を問う。目下の運は悪くないが、自分の行いが正しくないため、悔いが生じる。
○ 商売を問う。商況を探るのは商人の腕である。しかし情報を得たら、売買はすぐ決断すべきで、少しでも遅れれば人後に落ちる。
○ 家宅を問う。盗難に注意し、早急に警備を整えるべきである。
○ 失物を問う。すぐ探せば見つかるが、遅れれば失う。
○ 訴訟を問う。速やかに決着させるのがよい。
【例】某県の官吏が友人の紹介状を携えて訪ねて来て、運勢を占ってほしいと頼んだ。筮すると、豫が小過に変じた。
私はこう断じた。この卦は九四の一陽が時を得て、上下の五陰が皆これに応じている。今あなたが得たのは三爻で、四爻と陰陽親しく比しているので、上官と気が合うことがわかる。しかし他人から見れば、上官にへつらい、その威福を借りて振る舞っているように見られる恐れがある。今後は注意し、後日の悔いを招かぬようにすべきだ。後に聞くと、上官は他県へ転任した。この人はその後ろ盾にすがろうとしたが、事は成らず、ついに職を辞した。
象伝にいう。「楽しみをうかがい望めば悔いがあるのは、位が当たっていないからである」。
「盱」とは、目を大きく開いて見上げ、望みをかける象である。たとえば烏が飛ぶのを見て大空を仰ぎ、魚が泳ぐのを見て深い淵を見下ろし、恋い慕う心に堪えないようなものだから、「盱豫」という。六三は陰柔でありながら陽位にいて、中正を得ていない。見上げているのは、おそらく上の九四の権勢であり、そこに取り入ろうとしているのである。九四は一卦の主で、大臣の位にあり、威福を独占し、五陰は皆これに帰服する。六三はただ仰ぎ見て、その援助にすがり、楽しみを確かなものにしようとする。これを「盱豫」という。九四は、のぞき見をするその態度が中正でないとして卑しみ、ゆえに悔いがある。悔いを知ったなら、ただちに改め、六二のように節操を守り、決意して遠ざかり、日暮れまで待つべきではない。そうすれば何の悔いがあろう。もし一念では悔いと思い、別の一念では楽しみと思って、ためらい決断せず、いつまでも離れられないなら、悔いは必ず免れない。だから「悔いあり。遅れれば悔いを生ず」という。「遅」の一字は、頭上に一撃を加えるようなもので、ぼんやりした者を目覚めさせ、早く考え悟るよう促している。最も深く味わうべきである。象伝の「位が当たっていない」とは、柔が陽位に居て、優柔不断であるため、その位にふさわしくないということだ。この爻が変じると巽となり、決断できないことを表す。悔いを知ってもなお改めない、ためらい決断できない象である。
【占い】
○ 時運を問う。目下の運は悪くないが、自分の行いが正しくないため、悔いが生じる。
○ 商売を問う。商況を探るのは商人の腕である。しかし情報を得たら、売買はすぐ決断すべきで、少しでも遅れれば人後に落ちる。
○ 家宅を問う。盗難に注意し、早急に警備を整えるべきである。
○ 失物を問う。すぐ探せば見つかるが、遅れれば失う。
○ 訴訟を問う。速やかに決着させるのがよい。
【例】某県の官吏が友人の紹介状を携えて訪ねて来て、運勢を占ってほしいと頼んだ。筮すると、豫が小過に変じた。
私はこう断じた。この卦は九四の一陽が時を得て、上下の五陰が皆これに応じている。今あなたが得たのは三爻で、四爻と陰陽親しく比しているので、上官と気が合うことがわかる。しかし他人から見れば、上官にへつらい、その威福を借りて振る舞っているように見られる恐れがある。今後は注意し、後日の悔いを招かぬようにすべきだ。後に聞くと、上官は他県へ転任した。この人はその後ろ盾にすがろうとしたが、事は成らず、ついに職を辞した。
九四。楽しみの源となり、大いに得る。疑ってはならない。朋が集まり、かんざしのように一つにまとまる。
九四:楽しみによって、大きな得を得る。疑ってはならない。友がかんざしのように集まる。[77]
象伝にいう。「楽しみの源となり、大いに得るとは、志が大いに行われることである」。
一つの剛陽で諸陰を統率する九四は、一卦の主である。諸陰が楽しむのも、皆九四の楽しみから生じて豫となるので、「楽しみの源」という。四爻は五爻に近く、大臣の位にいて、柔弱な君を補佐し、天下の重責を担い、諸々の柔を包容し、ひとり信任を受ける。任務は大きく責任は重いので、「大いに得る」という。ただ、信任が重すぎると疑いを招きやすい。誠を開いて公にすれば、疑念は自然に消える。「疑ってはならない」からこそ、諸柔を率いて上に仕えることができる。それは、かんざしが多くの髪を貫いて乱さないようなものである。「盍」は合わせること、「朋」は多くの柔をいう。四爻は剛でありながら陰位にいるので、諸柔と同類となって朋とすることができる。だから「疑ってはならない。朋が集まり、かんざしのように一つにまとまる」という。疑いはすき間を生み、すき間は忌み嫌う心を生み、それは人々の心を離散させ、あらゆる事を混乱させる。たとえ安らかで楽しい大業があっても、最後まで成し遂げられない。ゆえに「疑ってはならない」と戒めるのである。猜疑がすべて絶え、上下が心を一つにし、至誠をもって事を図り、群力を合わせて公に従い、賢人が集まり、徳と恩沢が広く施されれば、天下の豫を成し遂げることができる。これがその意味ではないか。象伝の「志が大いに行われる」とは、志を得れば恩沢が民に加わり、功績が後世に及ぶということである。大道の行われることも、豫を通して成し遂げられるのであり、交泰の道に近づくのである。この卦を初爻から見れば、権臣であり、その豫は安逸である。四爻から見れば、政を任された賢臣であり、その豫は和らぎである。易の道がこのように変化し、一定の場所にとどまらないのである。
【占い】
○ 時運を問う。目下、まさに大運が開け通じている。
○ 商売を問う。各地の品物を集め、大いに利益を得る。
○ 家宅を問う。家門は安らかに順調で、財福を得る。大いに栄える家である。
○ 功名を問う。まさに出仕して冠を弾く慶びを占う。
○ 訴訟を問う。これによって訴えはやみ、双方とも喜ぶ。
○ 行人を問う。必ず満載して帰って来る。
○ 旅行を問う。ここから進めば道中ずっと順風で、大いに喜ぶことができ、「疑うな」といえる。
○ 懐妊を問う。男子が生まれ、育ちも早く、将来は貴い身分となる。
○ 失物を問う。すぐに見つかる。
【例】ある日、某紳士が来て、某高官の運勢を占ってほしいと求めた。筮すると、豫が坤に変じた。
私はこう断じた。この卦は、春雷が時を得て地上に奮い出し、積もった陰を払い、陽和を開く象である。これを国家に当てれば、讒言を退け、賢人を登用し、太平をもたらす大補佐であろう。この爻の九四は一陽で、執政の大位にあり、国の重任を担う。上には君徳を受け、下には群才を集めるので、その志を大いに行い、豫順のめでたさを開くことができる。今、某高官の運勢を占ってこの爻を得た。その高官が剛毅で有為、早くから徳望を著していることはいうまでもない。ただ爻辞の「疑うな」という二字こそ、最も慎重に考えるべきである。ひとたび疑心が生じれば上下が互いに猜疑し、諸政が乱れ、太平の治に至ることはできない。だから「疑うな。朋が集まり、かんざしのように一つにまとまる」という。これはその高官が特に心すべきことである。
その紳士は易の理の精妙で適切なことに深く感じ入り、「後日、私から某高官に伝えましょう」と言った。
【例】明治二十八年四月九日、わが国と清国との講和交渉について占い、筮すると、豫が坤に変じた。
この卦は、雷が地上に出て奮い立つ象であり、威武と和楽を兼ね備える。今四爻を得た。爻辞に「由豫、大いに得る」とあるのは、両国の講和が成立した後、大いに事を成すことができ、豫順のめでたさがここから来るという意味である。また「疑うな。朋が集まり、かんざしのように一つにまとまる」とあるのは、これより両国が互いに猜疑せず、唇と歯のように支え合い、天下の友好国とも喜びを共にすることをいう。まるでかんざしが万筋の髪を貫いて一つにするようである。講和成立は前もって判断できた。四月十七日、果たして講和条約が成立した。
この卦の大象は、「先王は音楽を作って徳を尊び、盛んに上帝に薦め、祖考に配した」と述べる。ここでいう「上帝」「祖考」とは、伊勢大神宮以下、歴代の皇霊を指す。
象伝にいう。「楽しみの源となり、大いに得るとは、志が大いに行われることである」。
一つの剛陽で諸陰を統率する九四は、一卦の主である。諸陰が楽しむのも、皆九四の楽しみから生じて豫となるので、「楽しみの源」という。四爻は五爻に近く、大臣の位にいて、柔弱な君を補佐し、天下の重責を担い、諸々の柔を包容し、ひとり信任を受ける。任務は大きく責任は重いので、「大いに得る」という。ただ、信任が重すぎると疑いを招きやすい。誠を開いて公にすれば、疑念は自然に消える。「疑ってはならない」からこそ、諸柔を率いて上に仕えることができる。それは、かんざしが多くの髪を貫いて乱さないようなものである。「盍」は合わせること、「朋」は多くの柔をいう。四爻は剛でありながら陰位にいるので、諸柔と同類となって朋とすることができる。だから「疑ってはならない。朋が集まり、かんざしのように一つにまとまる」という。疑いはすき間を生み、すき間は忌み嫌う心を生み、それは人々の心を離散させ、あらゆる事を混乱させる。たとえ安らかで楽しい大業があっても、最後まで成し遂げられない。ゆえに「疑ってはならない」と戒めるのである。猜疑がすべて絶え、上下が心を一つにし、至誠をもって事を図り、群力を合わせて公に従い、賢人が集まり、徳と恩沢が広く施されれば、天下の豫を成し遂げることができる。これがその意味ではないか。象伝の「志が大いに行われる」とは、志を得れば恩沢が民に加わり、功績が後世に及ぶということである。大道の行われることも、豫を通して成し遂げられるのであり、交泰の道に近づくのである。この卦を初爻から見れば、権臣であり、その豫は安逸である。四爻から見れば、政を任された賢臣であり、その豫は和らぎである。易の道がこのように変化し、一定の場所にとどまらないのである。
【占い】
○ 時運を問う。目下、まさに大運が開け通じている。
○ 商売を問う。各地の品物を集め、大いに利益を得る。
○ 家宅を問う。家門は安らかに順調で、財福を得る。大いに栄える家である。
○ 功名を問う。まさに出仕して冠を弾く慶びを占う。
○ 訴訟を問う。これによって訴えはやみ、双方とも喜ぶ。
○ 行人を問う。必ず満載して帰って来る。
○ 旅行を問う。ここから進めば道中ずっと順風で、大いに喜ぶことができ、「疑うな」といえる。
○ 懐妊を問う。男子が生まれ、育ちも早く、将来は貴い身分となる。
○ 失物を問う。すぐに見つかる。
【例】ある日、某紳士が来て、某高官の運勢を占ってほしいと求めた。筮すると、豫が坤に変じた。
私はこう断じた。この卦は、春雷が時を得て地上に奮い出し、積もった陰を払い、陽和を開く象である。これを国家に当てれば、讒言を退け、賢人を登用し、太平をもたらす大補佐であろう。この爻の九四は一陽で、執政の大位にあり、国の重任を担う。上には君徳を受け、下には群才を集めるので、その志を大いに行い、豫順のめでたさを開くことができる。今、某高官の運勢を占ってこの爻を得た。その高官が剛毅で有為、早くから徳望を著していることはいうまでもない。ただ爻辞の「疑うな」という二字こそ、最も慎重に考えるべきである。ひとたび疑心が生じれば上下が互いに猜疑し、諸政が乱れ、太平の治に至ることはできない。だから「疑うな。朋が集まり、かんざしのように一つにまとまる」という。これはその高官が特に心すべきことである。
その紳士は易の理の精妙で適切なことに深く感じ入り、「後日、私から某高官に伝えましょう」と言った。
【例】明治二十八年四月九日、わが国と清国との講和交渉について占い、筮すると、豫が坤に変じた。
この卦は、雷が地上に出て奮い立つ象であり、威武と和楽を兼ね備える。今四爻を得た。爻辞に「由豫、大いに得る」とあるのは、両国の講和が成立した後、大いに事を成すことができ、豫順のめでたさがここから来るという意味である。また「疑うな。朋が集まり、かんざしのように一つにまとまる」とあるのは、これより両国が互いに猜疑せず、唇と歯のように支え合い、天下の友好国とも喜びを共にすることをいう。まるでかんざしが万筋の髪を貫いて一つにするようである。講和成立は前もって判断できた。四月十七日、果たして講和条約が成立した。
この卦の大象は、「先王は音楽を作って徳を尊び、盛んに上帝に薦め、祖考に配した」と述べる。ここでいう「上帝」「祖考」とは、伊勢大神宮以下、歴代の皇霊を指す。
六五。持病があるが、長く死なない。
六五。持病があるが、長く死なない。
象伝にいう。「六五の持病は剛に乗るからであり、長く死なないのは中を失っていないからである」。
「貞疾」とは、固まった病、すなわち治る見込みのない病をいう。上下が逸楽にふけるのは、まさにこの「貞疾」の症状である。この爻は柔で中を得て尊位にあり、九四を信任している。九四は陽剛で権力を得、衆陰が皆これに帰服している。六五の柔弱な君は、権力を専らにする臣に制せられ、楽しもうとしても自由になれず、戦き恐れ、胸中はいつも凍りつくようで、常に身に固疾を抱えるようである。だから「貞疾」という。疾は豫の反対であり、書経の金縢には「王に疾あり、豫まず」とある。六五は陰柔ではあるが、君位を得ていることは貞であり、下に制せられていることは疾である。権力を失っていても、その位までは失っていないので、「長く死なない」という。孝経に「天子に諫臣七人あれば、無道であっても天下を失わない」とあるのは、このことである。太平が長く続くと、君主はいつも安逸にふける。剛暴によって勢力を失わなければ、必ず柔弱によって権力を失う。上では孤立し、下へ権力が移り、すぐに滅びなくても、国事は日に日に悪くなる。君主たる者、どうして戒めないでよいだろうか。象伝の「中を失っていない」とは、四爻に迫られて心には常に病があるものの、幸い中を得ているため滅びてはいないということだ。しかし「まだ滅びていない」といえば、ほとんど滅びに近づいているということでもある。危ういことだ。
按ずるに、六二と六五はいずれも「貞」である。貞とは利益に志を向けないことなので、どちらも「豫」とはいわない。しかし貞のあり方が異なるため、六二は吉、六五は疾となる。六二はもともと四爻に従うことを潔しとせず、進むべきなら進み、そうでなければ退くので吉である。六五は陰で陽位に居り、力がなくて四爻を制することができず、それでいて心中深く疑い、忌み嫌っている。そのため、その貞はただ疾となるだけである。貞が疾であっても、その内に守るものは失われていないので、「長く死なない」という。ここから、貞を守ることが頼りになるとわかる。
【占い】
○ 時運を占う:その人は本来たいへん尊貴だが、生まれつき柔弱な性質のため、自ら奮い立つことができない。
○ 商売を占う:基盤は非常によいが、人の用い方を誤ったため、金銭が他人の手に渡り、ほとんど損失を招くところである。
○ 家宅を占う:借りて住む者に家産を侵され、所有者のほうがかえって主導権を失うおそれがある。
○ 戦争を占う:副将が権限をほしいままにし、総帥は威信を失う。軍を失うまでには至らないが、災いを免れたのは幸いである。
○ 病気を占う:病を抱えながら余命を保つ症状である。
○ 子どもを占う:男児が生まれるが、必ず病を持つ。
○ 失物を問う:見つかる。
【事例】 知り合いの富豪某氏が、自分の運勢を占ってほしいと頼んできた。得卦は豫が萃に変じた。
私は次のように判断した。この卦を一家のこととして見れば、家産が豊かな象である。四爻の一陽が権力をほしいままにし、上下五陰がすべてこれに応じている。これは一家の中で、古参の家令が家政を統轄し、主人は空名の地位にいるだけのようなものである。今、あなたは天下でも指折りの富豪であり、幾代も受け継いだ家業を、ひとりの有能な家令に全面的に任せ、諸事を統轄させている。そのため主人は自ら決めることができず、かえってその者に制せられている。安楽ではあっても自由がなく、まるで長患いを身に抱え、心のうちに大いに苦しんでいるような状態である。幸い、祖先の家訓を守れば、家運を失墜させずにすむ。これを「正しさを守れば病は続いても、つねに死ぬことはない」というのである。
【事例】明治二十八年十月以来、横浜の本宅に仕える四十五歳の女中が病にかかり、危篤に近い状態となった。多くの医師が治らないと言った。得卦は豫が萃に変じた。
私は次のように判断した。豫は、雷が地中から現れて奮い立つ象である。人についていえば、春の陽気を得て、精神がなお外へ発する力を保ち、衰亡にはまだ至っていないことを示す。この病は重いが、まだ死には至らない。ただし、いったん速やかに快復しても、以前のように強健には戻らず、残された息を長らえる程度であろう。これを「正しさを守れば病は続いても死なず、内なるものはまだ滅びていない」という。果たしてほどなく快復し、明治三十二年の現在も存命である。
象伝にいう。「六五の持病は剛に乗るからであり、長く死なないのは中を失っていないからである」。
「貞疾」とは、固まった病、すなわち治る見込みのない病をいう。上下が逸楽にふけるのは、まさにこの「貞疾」の症状である。この爻は柔で中を得て尊位にあり、九四を信任している。九四は陽剛で権力を得、衆陰が皆これに帰服している。六五の柔弱な君は、権力を専らにする臣に制せられ、楽しもうとしても自由になれず、戦き恐れ、胸中はいつも凍りつくようで、常に身に固疾を抱えるようである。だから「貞疾」という。疾は豫の反対であり、書経の金縢には「王に疾あり、豫まず」とある。六五は陰柔ではあるが、君位を得ていることは貞であり、下に制せられていることは疾である。権力を失っていても、その位までは失っていないので、「長く死なない」という。孝経に「天子に諫臣七人あれば、無道であっても天下を失わない」とあるのは、このことである。太平が長く続くと、君主はいつも安逸にふける。剛暴によって勢力を失わなければ、必ず柔弱によって権力を失う。上では孤立し、下へ権力が移り、すぐに滅びなくても、国事は日に日に悪くなる。君主たる者、どうして戒めないでよいだろうか。象伝の「中を失っていない」とは、四爻に迫られて心には常に病があるものの、幸い中を得ているため滅びてはいないということだ。しかし「まだ滅びていない」といえば、ほとんど滅びに近づいているということでもある。危ういことだ。
按ずるに、六二と六五はいずれも「貞」である。貞とは利益に志を向けないことなので、どちらも「豫」とはいわない。しかし貞のあり方が異なるため、六二は吉、六五は疾となる。六二はもともと四爻に従うことを潔しとせず、進むべきなら進み、そうでなければ退くので吉である。六五は陰で陽位に居り、力がなくて四爻を制することができず、それでいて心中深く疑い、忌み嫌っている。そのため、その貞はただ疾となるだけである。貞が疾であっても、その内に守るものは失われていないので、「長く死なない」という。ここから、貞を守ることが頼りになるとわかる。
【占い】
○ 時運を占う:その人は本来たいへん尊貴だが、生まれつき柔弱な性質のため、自ら奮い立つことができない。
○ 商売を占う:基盤は非常によいが、人の用い方を誤ったため、金銭が他人の手に渡り、ほとんど損失を招くところである。
○ 家宅を占う:借りて住む者に家産を侵され、所有者のほうがかえって主導権を失うおそれがある。
○ 戦争を占う:副将が権限をほしいままにし、総帥は威信を失う。軍を失うまでには至らないが、災いを免れたのは幸いである。
○ 病気を占う:病を抱えながら余命を保つ症状である。
○ 子どもを占う:男児が生まれるが、必ず病を持つ。
○ 失物を問う:見つかる。
【事例】 知り合いの富豪某氏が、自分の運勢を占ってほしいと頼んできた。得卦は豫が萃に変じた。
私は次のように判断した。この卦を一家のこととして見れば、家産が豊かな象である。四爻の一陽が権力をほしいままにし、上下五陰がすべてこれに応じている。これは一家の中で、古参の家令が家政を統轄し、主人は空名の地位にいるだけのようなものである。今、あなたは天下でも指折りの富豪であり、幾代も受け継いだ家業を、ひとりの有能な家令に全面的に任せ、諸事を統轄させている。そのため主人は自ら決めることができず、かえってその者に制せられている。安楽ではあっても自由がなく、まるで長患いを身に抱え、心のうちに大いに苦しんでいるような状態である。幸い、祖先の家訓を守れば、家運を失墜させずにすむ。これを「正しさを守れば病は続いても、つねに死ぬことはない」というのである。
【事例】明治二十八年十月以来、横浜の本宅に仕える四十五歳の女中が病にかかり、危篤に近い状態となった。多くの医師が治らないと言った。得卦は豫が萃に変じた。
私は次のように判断した。豫は、雷が地中から現れて奮い立つ象である。人についていえば、春の陽気を得て、精神がなお外へ発する力を保ち、衰亡にはまだ至っていないことを示す。この病は重いが、まだ死には至らない。ただし、いったん速やかに快復しても、以前のように強健には戻らず、残された息を長らえる程度であろう。これを「正しさを守れば病は続いても死なず、内なるものはまだ滅びていない」という。果たしてほどなく快復し、明治三十二年の現在も存命である。
上六:暗く楽しみに溺れる。成し遂げたことに変化があれば、咎はない。
上六:暗く[78]楽しみに溺れる。成し遂げたことに変化があれば、咎はない。
象伝はいう。暗く楽しみに溺れる者が上にいる。どうして長く続くだろうか。
「冥豫」とは、楽しみに目がくらみ、引き返すことを知らない者である。この爻は陰柔の性質をもって楽しみの極みに居り、欲望をほしいままにして顧みず、極度の快楽にも飽くことがないので、「冥豫」と呼ぶ。上六は豫卦の終わり、卦の最上位にあり、情欲と逸楽に任せて自分の非を悟らない。まるで幽冥の部屋に入ったようである。下卦の坤は冥を意味し、従順に過ぎることの咎である。上卦の震は動を意味し、動けば変じ、変ずれば改まる。だから「変ずれば咎なし」となる。私情や欲望に溺れる人も、変えることを知らない点に苦しんでいる。この爻には雷のように激しく動く性質がある。たとえ暗迷がすでに固まっていても、ひとたび陽剛が発動すれば、志を改め行いを変え、正しい道へ帰ることができる。いったい何の咎があろうか。象伝の「冥豫在上、何可長也」は、逸楽は長続きしないことを示し、人に反省して自らを新たにするよう勧めている。ゆえに爻辞は「冥」の凶を責めず、むしろ「変ずれば咎なし」と称えるのである。その意味は深い。この爻が変ずれば晋となり、暗迷の咎はなくなる。易で「変ず」といわれる場合は、変卦を見なければならない。
【占い】
○ 時運を占う:今の悪運は極みに達し、まもなく好運が来る。心機一転して奮起すれば、大いに成し遂げることができる。
○ 商売を占う:計画を改め、古きを捨てて新しきに従えば、必ず利益を得る。
○ 家宅を占う:古い住居は不利である。転居するか改築すれば吉。
○ 戦争を占う:別の総帥を派遣し、旗印と戦法を改めれば勝てる。あるいは別の道から進軍するとよい。
○ 訴訟を占う:訴えをやめて和解すれば、咎はない。
○ 子どもを占う:ひと月を過ぎてから出産し、女児を得る。
【事例】友人某が来て言った。「今は商売が繁忙な時期だが、別に機を見て着手したい事業がある。成否を占ってほしい」。得卦は豫が晋に変じた。
私は次のように判断した。「冥豫」とは楽しみに目がくらみ、いわゆる溺れて悟らない状態である。商売においては、妄想的に利益を求め、その害を知らないことをいう。急いで志を改めてこそ、咎を免れる。爻の象はこのようであるから、戒めを知るべきである。
某氏はこの言葉を聞いて大いに感じ入り、旧業に戻ったので、破産を免れた。
象伝はいう。暗く楽しみに溺れる者が上にいる。どうして長く続くだろうか。
「冥豫」とは、楽しみに目がくらみ、引き返すことを知らない者である。この爻は陰柔の性質をもって楽しみの極みに居り、欲望をほしいままにして顧みず、極度の快楽にも飽くことがないので、「冥豫」と呼ぶ。上六は豫卦の終わり、卦の最上位にあり、情欲と逸楽に任せて自分の非を悟らない。まるで幽冥の部屋に入ったようである。下卦の坤は冥を意味し、従順に過ぎることの咎である。上卦の震は動を意味し、動けば変じ、変ずれば改まる。だから「変ずれば咎なし」となる。私情や欲望に溺れる人も、変えることを知らない点に苦しんでいる。この爻には雷のように激しく動く性質がある。たとえ暗迷がすでに固まっていても、ひとたび陽剛が発動すれば、志を改め行いを変え、正しい道へ帰ることができる。いったい何の咎があろうか。象伝の「冥豫在上、何可長也」は、逸楽は長続きしないことを示し、人に反省して自らを新たにするよう勧めている。ゆえに爻辞は「冥」の凶を責めず、むしろ「変ずれば咎なし」と称えるのである。その意味は深い。この爻が変ずれば晋となり、暗迷の咎はなくなる。易で「変ず」といわれる場合は、変卦を見なければならない。
【占い】
○ 時運を占う:今の悪運は極みに達し、まもなく好運が来る。心機一転して奮起すれば、大いに成し遂げることができる。
○ 商売を占う:計画を改め、古きを捨てて新しきに従えば、必ず利益を得る。
○ 家宅を占う:古い住居は不利である。転居するか改築すれば吉。
○ 戦争を占う:別の総帥を派遣し、旗印と戦法を改めれば勝てる。あるいは別の道から進軍するとよい。
○ 訴訟を占う:訴えをやめて和解すれば、咎はない。
○ 子どもを占う:ひと月を過ぎてから出産し、女児を得る。
【事例】友人某が来て言った。「今は商売が繁忙な時期だが、別に機を見て着手したい事業がある。成否を占ってほしい」。得卦は豫が晋に変じた。
私は次のように判断した。「冥豫」とは楽しみに目がくらみ、いわゆる溺れて悟らない状態である。商売においては、妄想的に利益を求め、その害を知らないことをいう。急いで志を改めてこそ、咎を免れる。爻の象はこのようであるから、戒めを知るべきである。
某氏はこの言葉を聞いて大いに感じ入り、旧業に戻ったので、破産を免れた。