高島易断 · 卦ごとの解説

高島易断 · 易経 第 25 卦 天雷無妄。無妄は、元いに亨りて貞しきに利あり。正しからざれば眚あり。往くところあるに利あらず。

天雷無妄。無妄は、元いに亨りて貞しきに利あり。正しからざれば眚あり。往くところあるに利あらず。

25 天雷無妄

「無妄」[117]とは誠のことであり、これは『中庸』のいう「至誠は息むことなし」にほかならない。序卦伝は「復すれば妄りでなくなる。ゆえに次に無妄を受ける」と述べる。無妄の誠は天の道であり、復して無妄となるのは、人が自ら誠にする道である。この卦は上が乾、下が震である。乾は健、震は動を表す。健やかに動くことは天にかなう動きであり、天にかなうことがすなわち誠である。古代の聖人の経典や注釈はみな誠を説くが、「咎なし」という二字が独自に現れるのは易だけである。朱子は『中庸』の「誠」を解して「真実で妄りでないこと」といい、易の「無妄」を解して「実理が自然に現れること」といった。要するに、道理から自然に現れるものが天であり、天は誠、誠は無妄である。その趣旨は一つである。

無妄は、元いに亨りて貞しきに利あり。正しからざれば眚あり。往くところあるに利あらず。

「元いに亨りて貞しきに利あり」とは、四徳を完全に備えるのはただ乾だけだという意味である。他の卦が「元いに亨りて貞しきに利あり」と言うのは、みな乾から来るからである。この四字をまとめて言えば、ただ正しいということに尽きる。正しければ妄りでない。ゆえに無妄を「元いに亨りて貞しきに利あり」という。これは自然な実理であり、天から受けたもので、一毫の私意も差し挟めない。私意を差し挟めば正しくなく、正しくなければ妄となり、妄であれば必ず多くの過ちが生じる。だから「眚あり」という。すでに妄りでないなら、妄りにどこかへ進んではならない。ゆえに「往くところあるに利あらず」という。

彖伝にいう。「無妄は、剛が外より来たりて内に主となる。動いて健、剛中にして応じ、大いに亨りて正しきは、天の命なり。正しからざれば眚あり、往くところあるに利あらず。無妄にして往けば、何くに之かん。天命枯れず、どうして行えようか。」

この卦は、内に震、外に乾を置く。「剛」とは乾である。「剛は外より来たり、内に主となる」とは、無妄では初九が卦の主爻であり、震の初九の剛が乾から来ているので、「剛は外より来たる」というのである。これは内卦と外卦について述べたものだ。動くのは下、健やかなのは上であり、「動いて健やか」とは、動きが健の力を得ていることをいう。「剛中にして応ず」とは二爻と五爻を指す。九五は陽剛・中正で、無妄の天に当たり、六二も中正の位にいてこれに応ずるので、その応じ方が正しいのである。彖伝で「大いに亨る」といえば「元いに亨る」の意であり、「正を以て」といえば「貞にして利あり」の意である。乾の四徳は天の命である。天が命じるものは誠と正、すなわち無妄である。天から命を受ければ、天は必ずこれを信じ、どこへ行ってもよく、吉でないことも利でないこともない。「それ正しからざれば」とは、自ら天命に背くことである。天は必ずこれを保護せず、いったいどこへ進めようか。さらに進めば、進むほど妄に入る。妄は天に逆らうことであり、天に逆らう者を天は助けない。どうして行ってよいことがあろうか。程伝は「正しからず」の二字を、邪心がなくても正理に合わなければ妄である、と解している。「正しからず」と「正しくない」とは全く同じではなく、正と不正の間の見分けは極めて微妙である。「其」の字は三爻と上爻を指す。三爻の「災」、上爻の「眚」は、その過失がごく細かなものだからである。「正しからず」の二字は、まさに体得して吟味すべきである。

この卦を人事に当てはめると、この無妄の誠は生まれながらに備わり、混じり気なく私心のない、いわゆる天命の性である。卦は復から来ている。復は乾の陽一爻を受けて「天地の心」とする。「天地の心」とは無妄の真の根元であり、「元亨利貞」の四つは、すべてこの一心である。古来の聖人で、堯・舜の中を執り、湯王の中を用い、孔子の時中を行った者こそ、「大いに亨りて正しきを以てす」といえる、天命を完全に体現した者である。下って顔回は、己を克服することを待って己を抑え、礼を回復することを待って礼に復したが、なお人為に頼っていた。無妄に対しては、まだ一歩及ばない。明らかに理に背かなくても、理から少しでも偏れば、動いて動き過ぎ、健やかで健やか過ぎ、剛で剛過ぎ、進んで正を失うことになる。そこにはすでに眚があり、天は助けず、進もうとしても進む先がない。ここに至れば人事は行き詰まる。卦は内に震、外に乾を置く。震は動であり、人に天に合して動くことを教える。天に従って動けば無妄、人の欲に従って動けば妄である。易の戒めは明らかで、六爻の辞はみな天に任せることを説き、背けば咎がある。初爻は卦徳を完全に備え、行うことに吉がなく、志の遂げられないこともない。二爻は当然の理に従い、利益を計らず、進むにも私心がない。四爻は剛でありながら私心がなく、守れば貞で、咎は自ずからない。五爻は中正を兼ね備え、病があっても「薬を用いるな」といえる。ただ三爻と上爻だけは、妄に近づかざるを得ない。三爻の「災」は得に引かれて生じ、五爻の「眚」は行うことに窮して生じる。これが彖伝のいう「正しからざれば眚あり」である。初・二・四・五の四爻を見れば、人が天に合すれば吉でないことも利でないこともない。三・上の二爻を見れば、わずかな不注意にも過失が続く。聖人となるか狂人となるかは、このほんの一線を争う。人は努めるべきところを知らずにいられようか。

この卦を国家に当てはめれば、無妄とは、唐・虞以来の授受、危うきものと微かなものを精密に見きわめて一つにする、千古にわたる治道の真伝である。これを得れば治まり、失えば乱れる。すべては大君の真実無妄なる一心にかかっている。卦は内に震、外に乾を置く。乾は君であり天、震は動であり行である。乾は君を天に合わせるので健剛となり、震は動いて行うことができるので、進めば吉となる。古の帝王が身を慎んで南面し、無為にして治めたのは、ただよく天命を受け継いだからである。そこで天の時に盛んに応じれば、時はすべて順調となり、万物を養育すれば、物はすべて生長する。時も一つの無妄であり、物も一つの無妄である。無妄をもって時に応じ、無妄をもって物を育てるのである。先王は天に則って政治を行った。雷が天下を行くように、時に任せて動く、それが無妄の内にあるということにほかならない。六爻を通覧すれば、戒めは明らかである。初爻は温恭が満ちあふれ、誠が至れば物は自然に感化するので、「無妄、往けば吉」という。二爻は言わずして信を得、動かずして敬われ、治めようと意図しなくても自然に治まるので、「行くところあれば利あり」という。三爻は意図して治を求め、一方を得て他方を失うので、災いがある。四爻は剛柔を調和させ、その道を長く守れるので、「咎なし」。五爻は道によって自らを治め、乱をもって乱を治めようとはしないので、「薬を用いるな、喜びあり」という。上爻は大きな功を好み、功績を急ぐため、行いが過ぎてしまうので、「利するところなし」という。国家を治める者は、その無妄を保ち、「正しからざるもの」を除き、健やかに動き、剛でありながら中を得るべきである。そうすれば四時が行われ、万物が生じ、天に応じ人に順い、徳の美しい感化が行われ、「大いに亨りて正しきを以て」、天下が治まるであろう。

この卦を通覧すると、上は乾、下は震で、動きが天に合し、剛が中を得るので、名を無妄という。無妄とは、実在する理を完全に備え、意外な望みや私意からの期待が全くないことをいう。実理の自然に従えば、進んで利でないことはない。実理が否定するところに出れば、動くたびに咎を得る。禍福の到来には、思いがけないものもある。福が天から降るのは天の助けであり、禍が天から降るものとしては、六三の災、九五の疾がそれである。自ら招く禍は、「正しからざる」ことによる「眚」である。六爻の中で、吉・利・災・疾・喜・眚という語は、いずれも禍福を指す。初爻は卦の主で、元来の善を完全に備えるので吉。二爻は自然に従い、人為を借りないので利。四爻は止まるべきところに止まり、恒久に守るので咎なし。上爻は卦の終わりにあり、極まって再び動くので眚がある。爻象は、およそ初めに動くものは最後に静まり、初めに静まるものは最後に動く。この卦では、初爻の「往けば吉」、二爻の「往くところあれば利」は、いずれも動きを取っている。三爻の「災」、四爻の「貞」、五爻の「疾」は、すべて守って動くなと励ますもの。上爻の「眚」は、動きが極まったことを戒める。卦体は乾の健と震の動である。だから初めの象は多く動を示すが、動きが極まれば静に返るので、終わりは必ず静である。これを知れば、無妄の卦を論じることができる。

象伝にいう。天の下を雷が行き、万物は無妄を共にする。先王はこれに則り、盛んに時に応じて万物を養った。

「天の下を雷が行く」とは、陽気が盛んに発し、万物を鼓舞して動かすことである。万物はこれと共に動き、冬ごもりの虫は震えて目覚め、草木は芽を出し、翼あるものは飛び、足あるものは歩く。すべてが勢いよく発育し、それぞれが性命を正しく全うして、少しも差妄がない。これを「物、無妄を共にす」という。天の象に則り、天の時に盛んに応ずるとは、時に順う教化を広めることであり、万物を養育するとは、生物を生長させる働きを助けることである。そうして時が行われ、物が生じ、物は一つ一つ与えられたものを完全に受け、春には生じ、養われ、長じ、すべてがその宜しきを得る。これによって、わが心中の万物がすべて備わり、天下の万物も共に育つ。これが、性を尽くし、物を尽くすということである。

  【占い】
○ 時運を問う。今は運が時にかなっており、何事もみなよい。吉。


○ 商業を問う。大旱の折に雨を待ち望むように、雷が一声響けば、皆が首を長くして待つ。商品が到着すれば、飛ぶように売れ、あらゆる面で利益を得る。大吉。

○ 家宅を問う。この家では時々音がするが、忌むべき障りはない。家運は非常に盛んで、家族も繁栄する。吉。

○ 戦争を問う。風雷が席巻する勢いがある。必ず正々堂々の旗を立て、堂々たる陣を構えるべきで、謀略で勝とうとすれば、かえって災いを招く恐れがある。

○ 病気を問う。胸中に積滞があり、動かしてもまだ解けていない。時に応じて運動すれば、積滞は自然に消化する。「薬を用いるな、喜びあり」。

○ 旅人を問う。すでに出発しており、今日中に帰れる。

○ 婚姻を問う。両家は平素から行き来があり、門を相対している。大吉。

○ 妊娠を問う。男児で、分娩は安らかである。吉。

○ 失物を問う。太鼓のそば、または碾き臼の下、あるいは臼の脇にあるかもしれない。探せば見つかる。

○ 天候を問う。一雨あればすぐ晴れる。

初九。無妄なれば、往けば吉。

初九。無妄なれば、往けば吉。

象伝にいう。無妄にして進めば、志を得る。

初爻は内卦の主である。震の初爻の剛は乾から来ているので、彖伝は「剛は外より来たる」という。初めて生じた陽は、誠が一つでまだ分かれておらず、雑じりけも起こっていない。性に従って動くので、動けばすべて善い。天に合して動くからである。ここから進めば、行く先々で吉となるので、「往けば吉」という。象伝の「往けば志を得る」とは、誠には通じないところがなく、志も遂げられるので、進めば志を得るということである。

  【占い】
○ 時運を問う。今は吉。ただ家に閉じこもって守るより、外に出て行動するのがよい。


○ 商業を問う。行商には利があるが、店を構えて待つ商いには不利。

○ 家宅を問う。転居がよい。吉。

○ 戦争を問う。攻撃がよい。吉。

○ 病気を問う。外へ出て治療を受けるのがよく、吉。

○ 旅人を問う。別の用事でどこかへ向かったのかもしれない。吉。

○ 妊娠を問う。男児で、来月出産できる。吉。

○ 婚姻を問う。婿入りなら吉。

○ 失物を問う。外へ出て探すとよい。

【例】角力士の毛谷村六介は土佐の人で、体格が大きく、体重は三十貫余りであった。明治十七年の某月、私は友人某氏と両国回向院で角力を見た。友人は特に毛谷村を好み、その前途を占ってほしいと頼んだ。筮して無妄が否に変じた。

断にいう。この卦は上に乾、下に震があり、乾は父、震は長男である。上体は大きく健やかで、下体は小さく弱い象がある。また震は足を表す。初爻が変じると震の体が壊れるので、必ず足の病を主る。この人は足を傷める恐れがある。下の六二は「耕さずして獲を求めず、田を開かずして耕地を求めず」といい、農夫がその業を廃する象である。これから見ると、この力士は来年にはおそらく角力を廃し、別の仕事に就くであろう。翌年、明治十八年、六介は果たして足を折り、他の仕事に転じた。

六二。耕さずして獲を求めず、田を開かずして耕地を求めず。すなわち行くところあれば利あり。

六二。耕さずして獲を求めず、田を開かずして耕地を求めず。すなわち行くところあれば利あり。

象伝にいう。耕さずして獲を求めないとは、まだ富んでいないということである。

乾は郊外や野を表し、震は禾稼を表すので、この爻は農の象を取っている。耕して収穫を得、荒地を開いて田を得るのは、本来、意外な望みではない。しかし、耕して収穫を期待し、荒地を開いて田を期待するなら、心に期するものがある。無妄における期待は、それ自体が妄である。爻辞の「耕さずして獲を求めず、田を開かずして耕地を求めず」とは、耕すべき時には耕すが、収穫を得ようという心を持たず、開墾すべき時には開墾するが、田を得ようという意図を持たないことをいう。先天に任せ、後から起こす人為を借りない。道を学ぶ者が俸禄を得るためではなく、徳を修める者が名を求めるためではないのと同じである。自分のなすべきことを尽くし、外から来るものを計らない。このようであれば無妄であり、無妄なら「行くところあれば利あり」となる。妄念がなければ、自然に妄行もなく、進むところすべて利となる。象伝の「いまだ富まず」とは、二爻が柔で正位を得、中にあって内が空しく無欲で、富もうという心を持たないことをいう。まだ富んでいなくても、妄りに富を望まないことこそ無妄である。

  【占い】
○ 時運を問う。今は運が正しく、思いがけない財貨が入る。大いに利あり。


○ 商業を問う。計画しなくても得るものがあり、大いに利益を得る。吉。

○ 家宅を問う。この家は相続した財産か、あるいは人のために管理している邸宅であろう。

○ 戦争を問う。前方で敵が寝返る象があり、勝たなくても勝つ形となる。

○ 病気を問う。「薬を用いるな、喜びあり」。

○ 婚姻を問う。婿入りの縁である。

○ 旅人を問う。外地で利益を得ており、しばらく帰らない。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】明治十四年一月、私は熱海で入浴していた。同浴者には華族の島津公、成島柳北などがおり、暇にまかせて談笑した。その後、大隈・伊藤両君をはじめ諸君も入浴に来られた。その時、大隈君が一同を見渡して言った。「今、露清両国が境界を争い、両国は委員を派遣して協議しているが、議論は決せず、和戦もまだ定まらない。各国が注目しているところである。高島氏、どうか一占を願いたい」。私は命に応じ、筮して無妄が履に変じた。

断にいう。清国は我が隣国なので内卦に当て、外卦を露国とした。無妄の内卦は震で、震は木、たとえば木槌である。外卦は乾で、乾は金、たとえば大鐘である。今、清国政府を見るに、力はまだ足りない。清が露に抗するのは、木槌で大鐘を打つようなもので、大鐘はそのまま、木槌が先に砕ける。ゆえに清は必ず露に抗せず、和議によって決着することは明らかである。爻辞の「耕さずして獲を求めず、田を開かずして耕地を求めず」とは、露の利が清の災いとなることをいう。

その場の客人たちは、手を打って感嘆する者もいれば、疑って納得しない者もいた。しかし後に果たして占断の通りになり、疑っていた者も服した。

【例】東京の青山に、二、三代前から本家と分家に分かれた富商がいた。分家は常に勤倹を守り、家業はますます盛んになったが、本家は財産の扱いが下手で、遊惰が代々受け継がれ、家業は衰えていった。分家は何度も金を分けて助けたが、雪を運んで井戸を埋めるようなもので、たちまち消えてしまった。本家は策が尽き、ひそかに分家の財産を併呑しようと考え、分家の主人を呼んで相談した。「お前の家の所有物は、お前の家が自ら所有するものではない。昔、我が本家から分け与えたものだ。今、本家がこれほど困窮しているのだから、返してはどうか。私の意図がわかったか」。分家の主人は驚き、さまざまに苦心して説明したが、聞き入れられなかった。本家の主人は話がまとまらないので、官に訴えようとした。分家の主人は私のもとに来て、吉凶を占ってほしいと頼んだ。筮して無妄が履に変じた。

断に曰く。この卦は上が乾、下が震である。乾は金、震は木を表す。金は本家、木は分家であり、分家が木をもって本家の金を打つのであるから、分家が勝てないことは明らかである。爻辞に「耕さずして収穫を求めず、荒地を開かずして田を得ようとしない」とある。耕せば収穫があり、荒地を開けば田となるのが常道である。しかし、耕しても収穫できず、開墾しても田にならないことは、道理に反するようであっても、現実には時に起こる。あなたの家は数代にわたり勤倹に努め、財産を蓄えてきた。それを一朝にして本家へ手渡すのは、心から納得できないことであろう。そこで「思いがけない災い」というのである。今この占を得た以上、その意に従って財産を譲り、資金だけを携えて別に一家を興すのがよい。爻辞に「進むところがあれば利益がある」とある。これより刻苦勉励すれば、必ず再び繁栄するであろう。

分家の主人は果たして私の言葉に従い、財産を譲って別戸を開き、家業に精励したところ、ほどなく再び興隆した。

六三。思いがけない災いである。誰かが牛をつないでいたのだろうが、旅人がそれを拾い、邑の人が災いを受ける。

六三。思いがけない災いである。誰かが牛をつないでいたのだろうが、旅人がそれを拾い、邑の人が災いを受ける。

象伝にいう。旅人が牛を得て、邑の人が災いを受けるのである。

「思いがけない災い」とは、自分が招いたのではない災難、すなわち天の定めによる災厄をいい、避けられないこともある。六三は中正の位にないため、事が意外な形で起こり、「誰かが牛をつないでいたのだろう」というような状況になる。「つないだ」といいながら「おそらく」とするのは、もともと誰の牛か分からないからである。「旅人」とは道を行く者で、牛を見て持ち主がないと思い、持ち去る。邑の人々はその事情を知らないが、捕らえる者は必ず邑の人を問いただすので、邑の人は何の罪もないのに災いを受ける。これが「思いがけない災い」である。三爻から五爻までは離で、離は牛を表す。下の互卦は艮で拘束、上の互卦は巽で縄を表し、牛をつなぐ象がある。乾は健やかに進むことなので旅人を象徴し、震は守ることなので邑の人を象徴する。乾の動きは上に至って止まるため、上爻が旅人となり、「進めば災いがある」といって、牛を得て災いに遭うことを示す。震の守りは三爻に属し、三爻が邑の人なので、「邑の人の災い」という。上爻が牛を得て、三爻が災いを受ける。だから三爻が「思いがけない災い」なのである。上爻の象は「窮極の災い」という。上爻の災いは自ら招いたもので、いわゆる自業自得である。一方、象伝の「邑の人が災いを受ける」とは、予期せぬ災いであり、ただ順に受け入れるほかないという意味である。

  【占い】
○ 時運を占う。目下、運気は気まずい状態にあり、思いがけない事が起こりやすい。慎重にすべきである。


○ 商売を占う。他人に利益をさらわれ、自分が財を損なう恐れがある。

○ 家宅を占う。この家は外部の者に侵入・占拠される恐れがある。

○ 戦争を占う。進軍する軍は勝つが、守備軍は損害と敗北に注意せよ。

○ 病気を占う。この病は外から来た人にうつされたものかもしれず、注意を要する。

○ 行人を占う。帰っては来るだろうが、家族に災いがある恐れがある。

○ 婚姻を占う。遠方の人と縁組みするのがよく、吉。

○ 失せ物を占う。すでに旅人に拾われている。

【例】ある日、友人の某氏が突然訪ねて来て言った。「私は近ごろ、友人の某氏と一つの商売を計画し、手紙で今日会おうと約束していたのですが、突然、家の事情が入り組んだと言って断ってきました。何か計画を変えたのでしょうか。どうか一筮お願いします。」占って、無妄が同人に変じた。

断に曰く。爻辞に「誰かが牛をつないでいたのだろうが、旅人がそれを得て、邑の人が災いを受ける」とある。離は牛を表すと同時に女性も表すので、これを見ると、彼の家には遠方から親族か知人が来て、女性を預けていったに違いない。この女性の象は離卦から取るため、必ず離別に関する事がある。また離は妊娠も表すので、その女性はすでに身ごもっているのかもしれない。「旅人の得」とは、旅人とともに駆け落ちしたということだろう。某氏の住居は牛を飼う場所ではないから、「牛」とは女性に違いない。「つなぐ」とは、すなわち人を預けること。「邑の人」とは、あなたの友人である。しかし、この友人がその女性を預かった以上、「邑の人の災い」は避けにくい。彼のいう「家の事情が入り組んだ」とは、まさにこのことではあるまいか。

友人は私の奇異な言葉に驚いて帰った。数日後、礼を述べに来て言った。「先日の占断は一言も違わず、すべて事実と符合しました。」

九四。正しく守ることができれば、咎はない。

九四。正しく守ることができれば、咎はない。

象伝にいう。正しく守れば咎がないのは、それを固く内に有しているからである。

四爻は剛健な陽爻で、乾の体にあり、剛でありながら私心がない。まさに無妄である。ただし上下の境に位置し、初爻の乾の陽剛はなお柔らかさを帯びるため、固く守る心がまだ定まらず、時に妄に近づくことがあるのではないか。そこで戒めて「正しく守ることができる」と言う。乾の健に乗じて無妄の体にあるなら、さらに乾の貞をもって無妄の誠を保たねばならない。無妄の道理を静かに存し、固く守れば、自然に過失はない。だから「咎なし」という。象伝の「固くこれを有す」とは、無妄の心がすなわち天の心であり、生まれた初めから備わっていて、外から磨き上げられたものではないという意味である。ゆえに「固く有する」という。

  【占い】
○ 時運を占う。目下の運気は順調である。分を守れば利益があり、妄りに動けば咎を招く。


○ 商売を占う。従来の仕事を堅く守れば、自然に繁盛する。

○ 家宅を占う。この家は祖先から受け継いだ基盤である。末永く守り、失ってはならない。

○ 戦争を占う。すでに外卦の地に入っている。城池を固く守り、決して妄りに進んではならない。

○ 病気を占う。今は静かに養生すべきである。来月には薬を用いずに治る。

○ 行人を占う。一時は帰らないが、外にいて災いはない。

○ 妊娠:男児が生まれる。

○ 失せ物を占う。必ず取り戻せる。

【例】ある高位の人物が来て、気運を占ってほしいと求めた。占って、無妄が益に変じた。

断に曰く。四爻は尊位に近く、乾の剛健の徳を備えているので、まさに貴顕の身位にかなう。今、第四爻を得て「正しく守れば咎なし」とある。貴顕は徳も地位もすぐれ、功業もかねてから著しく、もはや少しの妄念もない。ただ下にいる民が、妄りに動いて取り立てを求めることが心配である。すべては貴顕が堅く正しく、落ち着いて鎮められるかにかかっており、そうすれば「咎なし」を得る。

九五。思いがけない病である。薬を用いなければ喜びがある。

九五。思いがけない病である。薬を用いなければ喜びがある。

象伝にいう。病が思いがけないものであるなら、その薬を試してはならない。

ここでいう「病」は災いに近い。病には自ら招いたものもあれば、天候や時節によって起こり、自分が招いたのではないものもある。後者が「思いがけない病」である。天についていえば、日食、暴風、豪雨、激しい雷などがそれに当たる。いずれも一時的な陰陽の偏りによって偶然生じ、時が過ぎれば平常に戻るので、薬で救おうとしてはならない。人の「思いがけない病」も同じで、薬によって治すべきものではない。ゆえに「薬を用いなければ喜びがある」という。「喜び」とは、病が去って喜びとなることをいう。病気になれば普通は薬で治そうとするが、五爻は剛にして中正、位も正しく、天徳が完全で、無妄の極みにある。何を悔やむことがあろうか。爻が病を象徴に取るのは、湯王が夏台に幽閉されたことや、文王が羑里に囚われたことのように、大いなる徳であっても時に妨げを受けることがあるからである。これが思いがけない病であり、順境ならぬ時にも順って守れば、災いは自然に解ける。それが「薬を用いない」という意味である。象伝の「思いがけない病の薬は試してはならない」とは、もともと真の病ではないものに薬を施せば、かえって病にしてしまうからである。だから「試してはならない」といい、極めて慎重に戒めている。

  【占い】
○ 時運を占う。目下の運気は正道にかなっている。思いがけない事は気にせず、すべては自分の心がけ次第である。


○ 商売を占う。一時的な物価の上げ下げは、理由がなくても商売に害はない。時が過ぎれば自然に平らになるので、決して騒ぎ立ててはならない。

○ 家宅を占う。風で吹き倒されたり、雪で押しつぶされたりして倒壊する恐れがあるが、大きな害はなく、かえって喜びの兆しがある。

○ 戦争を占う。軍中に疫病が流行する恐れがある。陣営を清潔にし、みだりに薬を使ってはならない。咎はない。

○ 行人を占う。途中で思いがけない事に遭う恐れはあるが、すぐ帰って来る。

○ 訴訟を占う。思いがけず巻き込まれるが、争わなくても自然に解ける。

○ 妊娠:男児が生まれる。

○ 失物を問う:探さなくても見つかる。

【例】明治二十二年、ある貴顕の気運を占って、無妄が噬嗑に変じた。

断に曰く。五爻は陽剛にして中正、下の二爻と応じており、まさに無妄の極みといえる。今この爻を得たので、某貴顕は徳が高く名望も厚い。いったい何の病があろうか。ただ、道が高ければそしりを招くもので、思いがけない嫌疑を受けることがある。それが「思いがけない病」である。争って弁明するべきではなく、時が過ぎれば自然に解ける。もし一々気にして対処すれば、かえって事を増やす。だから「思いがけない病、薬を用いなければ喜びがある」という。

某貴顕はこの占いを用いず、ついに騒ぎが大きくなり、翌年には職を罷免されて閑居した。

【例】明治十五年八月、弟の徳右衛門が大腸の痞結を患い、守永某医師を招いて診察と投薬を頼んだが、数日たっても治らなかった。医師は「切開して解く手術を施さなければ治療できない」と言った。そこで名医佐藤氏に相談し、手術を受けるべきかどうかを改めて占ったところ、無妄が噬嗑に変じた。

断に曰く。「思いがけない病」は自ら招いたものではない。今、弟の病も自然に発したもので、自分の行いが原因ではない。爻辞の「薬を用いなければ喜びがある」とは、人為的な治療に頼らないことをいう。静かに養生して自然に任せれば、三週間(震の数は三と八)の後には必ず快癒するであろう。後に補薬を服しただけで手術は行わず、三週間後、果たして全快した。

【例】明治三十年、海軍の気運を占って、無妄が噬嗑に変じた。

断に曰く。無妄一卦の卦徳は、真実で妄りでないこと、要約すれば正である。彖辞に「正にあらざれば眚あり」とあり、眚は災害をいう。したがって説卦伝にも「無妄は災いである」とある。今、五爻を得て「思いがけない病、薬を用いなければ喜びがある」と出た。「思いがけない病」とは、つまり予期せぬ災いである。恐らく海軍は九月、十月の間に、必ず尋常でない驚くべき事に遭うだろう。この事は人為によるものではなく、まったく天意によるもので、力ずくで防ぐことはできない。

その後、横須賀鎮守府長官の相浦中将が北海道の炭鉱を巡視した折、私は車中で会い、この占いを告げたが、中将は気に留めない様子であった。しかし九月になって、扶桑艦が予海で沈没したと聞き、占兆は的中した。

上九。無妄であっても、進めば災いがあり、利益となることはない。

上九。無妄であっても、進めば災いがあり、利益となることはない。

象伝にいう。無妄において進むのは、窮極の災いである。

上爻は卦の終わりにある陽爻で、無妄の極みである。極みに達してなお進めば、進むほど必ず災いがある。何の利益があろうか。彖辞の「正にあらざれば眚あり」とは、主としてこの上爻を指す。上爻は三爻と応じ、三爻は邑の人、上爻は旅人である。三爻の災いは上爻が招いたものだから、上爻だけが災いを免れることはできない。象伝の「窮極の災い」とは、位がすでに上限に達しているのに、なお進もうとすることで、極まりきったものが害をなすという意味である。

  【占い】
○ 時運を占う。好運はすでに尽きた。静かに守って動かず、動けば最後は凶となる。


○ 商売を占う。これまでの商いはかなり利益があったが、今は年末、または季節の取引替わりに当たるので、しばらく静かに守るのがよい。決して進めず、損耗を警戒せよ。

○ 家宅を占う。古い家ではあるが、ここに住めば吉である。決して他へ移ってはならない。移れば災いがある。

○ 戦争を占う。進める地歩はすでに極まっており、これ以上進んではならない。進めば害がある。

○ 病気を占う。きっと老年の病である。養生して心身を楽にすべきである。

○ 行人を占う。今日にも帰れる。帰った後は決して出歩いてはならない。

○ 妊娠:男児が生まれる。

○ 失せ物を占う。どこまでも追っても、取り戻せない恐れがある。

【例】私は毎年一月になると熱海で寒さを避けていた。明治二十二年一月、静岡県知事の関口隆吉君がたまたま県下を巡回し、湯戸某家に同宿した。関口氏は幕府の旧士で、昌平校に学び、若いころから才学にすぐれ、維新の際には五稜郭の将帥の一人であった。氏はその年の気運を占ってほしいと私に求めた。占って、無妄が随に変じた。

断に曰く。なんと不思議なことか、爻象がこれほど凶であるとは。説卦伝に「無妄は災いである」とある。「災い」とは天災、すなわち天から降る災難である。爻辞には「進めば災いがあり、利益となることはない」とある。この爻象を見ると、道中で突然、禍変に遭う恐れがある。「眚」は損傷を意味し、身体に大きな傷を負うに違いない。象伝の「窮極の災い」とは、災害が極点に達することをいう。私は占象に従って率直に告げたが、「善人には天の助けがある。どうか思い悩みすぎず、慎むだけにしてください」と付け加えた。関口氏はこれを聞くと、顔色を失った。

その後、新聞に、阿部川城の越間で自動車が衝突し、関口知事が負傷したと報じられた。政府は侍医の橋本医師を派遣して治療に当たらせた。私は新聞を読み、驚いて言った。「果たして関口君は、まさに『思いがけない災い』に遭ったのだ。」易占の神妙な知見をいよいよ感じ、長く身の引き締まる思いがした。

ある日、静岡警察部長の相原安次郎氏から手紙が来て、こう記されていた。「知事が災難に遭われたことは、果たして熱海での占いに応じました。まことに敬服に堪えません。今、知事の生命がどうなるか、もう一度占っていただき、結果をお知らせください。」占って、泰が大畜に変じた。

爻辞にいう。「上六。城、隍に復る。」象伝にいう。「城、隍に復るとは、その命が乱れるのである。」

断に曰く。泰は天地が交わり、泰平となる卦である。今その上爻を得たのは、泰が終わりに近づき、転じて否の時となる象である。「城、隍に復る」は城が傾き滅びる象、「その命が乱れる」は命が全うされないことをいう。この趣旨に従って返答した。

その場にいた人々の多くは、私の凶断を怪しみ、「医師の診断によれば、回復の兆しがあると新聞に報じられている。あなたの判断は、あまりに厳しすぎるのではないか」と言った。私は「疑いがあるなら、しばらく後を待って見てください」と答えた。ほどなく関口氏の訃報が届き、その場にいた人々は皆、易占の妙用に感じ服した。

その後、再び相原氏に会った。氏は言った。「あの時、あなたの返書を受け取った時には、すでに事がうまくいかないことを知っていました」。私はその手紙を持って訪ね、知事から次の話を聞いた。「この春、熱海へ湯治に行った時、高島氏が占って、私が災難に遭うことを前もって戒めましたが、果たしてその通りになりました。ほとんど運命だったのでしょう。最近、治療を受けて、命を取り留めることもできると言われました。それだけでも幸いです」。私は嘆息し、その占断を見せるに忍びなかった。その時の車の事故について話が及んだ。その日、知事は静岡駅の停車場に着き、ちょうど鉄石を積んだ貨車に乗ろうとしていた。知事が急いで合図すると、駅員が停車を命じ、知事を乗車させた。二里余り進んで線路の曲がり角に差しかかった時、突然、前方から自動車が疾走して来て衝突した。轟音とともに積荷はすべて空中へ飛び散り、乗客のうち一人は即死、二人が負傷し、知事もその一人だった。私はもともと同行するはずだったが、知事が急いだため一人で乗車し、私はそれを知らなかったので災難を免れた。何という幸運であろう。

翌年の春、熱海で関口氏の養子某に会った。彼は言った。「亡父は平素から、あなたの易学についてよく話していました。昨年、熱海から帰ってからは、暇さえあれば君の『易断』を読み、『無妄』の卦に至ると、いつも何度も繰り返し読んでいました」。