高島易断 · 卦ごとの解説

高島易断 · 易経 第 31 卦 沢山咸。咸は、亨る。貞に利あり。女を娶るに吉。

沢山咸。咸は、亨る。貞に利あり。女を娶るに吉。

31 沢山咸

『上経』は初めに乾・坤を置き、天地を万物の変化の根源とする。『下経』は咸・恒から始め、夫婦を五倫の始まりとする。天地は分かれなければ両儀を成さず、男女は結ばれなければ子を生まない。そこで乾・坤は二人の老者として対し、咸は二人の若者が交わる形を取る。咸の卦体も乾・坤から来ている。乾が坤に三度求めて得るのが艮で、少男である。坤が乾に三度求めて得るのが兌で、少女である。男女が互いに感じ合うのは、その性情による。二人の若者が結ばれると、男が女にへりくだるので、ことに正しい感応となる。心をもって感じるのを「感」といい、無心であるのを「咸」という。「咸」は皆という意味である。卦の形は「山と沢が気を通じる」ことを示し、六爻がすべて応じ合う。咸は調和して滞りなく、物と我とがともに栄える。これがこの卦を「咸」と名づけた理由である。

咸[1]:亨る。貞に利あり。女を娶るに吉。



▲ 甲骨文の「咸」

「咸」は通じるという意味である。男女の結合を説く卦は七つある。恒は男女ともに成熟している場合、既済・未済は中男と中女、漸・帰妹は若者が年長者に出会う場合を示す。損は男女とも若いが、女が男の下にある。いずれも、咸のように通じ、しかも正しいものには及ばない。「女を娶るに吉」とは、納采から親迎に至るまで、すべて男が女にへりくだるからである。六礼が備わらなければ、貞淑な女は嫁がない。『関雎』に「たおやかで徳ある乙女は、君子のよき伴侶」とある。女を娶る吉祥は、ここに見ることができる。『詩経注』は、淑女には奥ゆかしく穏やかで、貞正かつ静かな徳があるという。これが「貞に利あり」の趣旨である。咸は兌の沢が艮の山の上にあり、二つの気が互いに感じ合い、感じて通じる形である。ただし少男少女は情に動かされやすいので、正を得れば吉、正を失えば凶となる。だから「貞に利あり」という。女を娶る吉は、ただその貞にある。

『彖伝』にいう。咸とは感じ合うことである。柔が上にあり、剛が下にあって、二つの気が感じ応じ、互いに結びつく。止まって悦ぶ、男が女にへりくだる。だから亨り、貞に利があり、女を娶るに吉なのである。天地が感じ合って万物が化生し、聖人が人の心に感じ応じて天下が和らぐ。その感じるところを見れば、天地万物の情が見える。



▲ 金文の「咸」

この卦は艮の少男が兌の少女の下にある形で、夫婦の始まり、すなわち婚姻の道を表す。「柔が上に、剛が下にある」とは、柔を婦道、剛を夫道とし、剛柔二気が上下で感じ合うことをいう。「止まって悦ぶ」とは閨房の営みをいう。悦びだけで止まることがなければ淫らに流れ、止まるだけで悦びがなければ、かえって歓を失う。艮がこれを止め、兌がこれに悦びを加える。そうして感応が正しければ、夫婦には分があり、節度と時宜が整い、感じて通じるので亨るのである。卦体は感を義とし、卦象は亨を善とし、卦位は「男が女にへりくだる」ことを吉とする。「取る」とは娶ることである。『礼記』に「男子が親しく迎える。男が女に先立つのは、剛柔の道である」とある。「男が女にへりくだる」とは、男の尊さを下げて親迎の礼を重んじることであり、隙をくぐり塀を越える者などとは比べものにならない。ゆえに「貞に利あり」という。女が男の下にあるのは夫婦の常道なので、恒はそこから象を取る。男が女の下にあるのは、嫁を迎える始めの礼なので、咸はそこから象を取る。咸とは感である。剛柔は気によって感じ合い、婚姻は情によって感じ合う。しかも少男少​​女はとりわけ情に感じやすい。その情が動きやすいから互いに悦び合い、また悦びやすいからこそ、よく止まることが尊ばれる。これはまさに艮山の静けさによって兌沢の動きを制するのである。咸は貞をよしとし、貞であれば亨り、亨れば吉となる。ここから推し広げれば、閨房は王化の源を開き、身を修め家を整えることは国を治め天下を平らかにする要諦を包む。天地は咸の感応によって万物を化生させ、聖人は咸の感応によって人心を平らかにする。化生の功も和平の福もここから成り、ここから広がる。艮の止には形がなく、兌の悦びには言葉がない。形も言葉もないまま、感化の働きは神妙となる。君子がこれを観れば、天地と人・物が感じ応じる妙をことごとく知ることができる。

この卦を人事に当てはめれば、卦体は艮の男と兌の女である。彖辞に「女を娶るに吉」とあるのは、人倫の始まりに関わることだからである。『序卦伝』は「男女があって、しかる後に夫婦があり、夫婦があって、しかる後に父子があり、父子があって、しかる後に君臣があり、君臣があって、しかる後に上下がある」と説く。その道は実に、乾・坤が定まったところから来ている。乾は老陽、坤は老陰であり、乾が変じて艮となれば少陽、坤が変じて兌となれば少陰となる。陰陽の本体は一つであり、陰陽とはすなわち男女である。艮は一陽二陰、兌は二陽一陰で、両者の体が合して一つとなるのは男女の交わりを象る。艮は求めること、「よき伴侶」の意がある。兌は妹で、「帰妹」の象がある。これが婚姻の始まりである。兌は悦び、艮は止まる。楽しんでも淫らにならないことが、婦道において貞を重んじる理由である。六爻の辞は多く人体から象を取る。「拇」「腓」「股」は下体に属し、「心」「脢」「輔頬舌」は上体に属する。一方が伏し一方が仰ぎ、一方が動き一方が静まり、陰陽が助け合い、剛柔が交わって、咸の卦徳が備わる。夫婦は小さな天地である。万物にはそれぞれ陰陽があり、したがってそれぞれ夫婦がある。万物の化生も、人心の平和も、すべてこの道による。これこそ聖人が人倫の至極とした理由であり、咸が『下経』の冒頭に置かれた理由である。その象を見れば明らかである。

この卦を国家に当てはめれば、上卦は政府であり、兌の沢が広く恵みを施す象がある。下卦は人民であり、艮の止に守られて各々安らかに居る意である。五爻の剛健な君主は上六に近く、六二と応じ、他の爻もまた皆九五と感じ応じる。そこで咸の一卦は、「拇」「腓」「股」「心」「脢」「輔頬舌」を取り、人の一身に四肢九竅があり、痛みや痒みが互いに通じ、一気で連絡しているような意味を表す。『象伝』に「君子は虚をもって人を受く」とある。この君子は九五を指す。虚とは我を持たないことである。我がなければ天下は一家、万民は一体となる。一念で万類に通じ、一心で群生を包み育て、上下が通じ、君民が志を一つにする。これを「天地が感じ合って万物が化生し、聖人が人心に感じ応じて天下が和平となる。その感じるところを見れば、天地万物の情が見える」というのである。これは聖天子が己を慎み、南面して、無為にして治めるあり方である。

全卦を通観すると、心があってのものを「感」とし、心のないものを「咸」とする。「咸」は皆という意味で、六爻がすべて応じ、咸和して通達し、物我ともに自然に栄え、元気が一つに溶け合う。これが兌の悦びと艮の止めから成る卦を咸と呼ぶ理由である。咸は感を主とするので、感じれば必ず動く。しかし六爻については、静が吉で動が凶となる。初爻は卦の最下にあり、「その拇に咸す」という。拇は足の親指で、感応はまだ浅く、動きも微かなので吉凶を記さない。二爻は「その腓に咸す」という。腓はふくらはぎで、足に従って動く。動けば凶だが、腓はなお吉の位置にいる。三爻は「その股に咸す」という。股は下体の上にあり、三爻の象である。拇や腓よりさらに進み、「人に従うことを志す」。その執着も卑しいので、「往けば吝」とする。四爻は三陽の中にあり、心の位である。感触はすべて心から発する。貞を得れば吉、そうでなければ凶である。五爻は卦主で、兌の中央にいる。脢は心の上にある背肉で、動かないところである。感じても感じず、動いても動かないので、「悔いなし」という。上六は卦全体の頂にあり、「輔頬舌」は身体の上部にあるので、この象を取る。心に感じたものが言葉となって現れ、口で語るのである。しかし真心によって相手の心に届くことがなく、ただ美辞で悦ばせようとするだけなら、咸の道は浅薄になる。このように六爻の感応には浅深があり、悔・吝・吉・凶もそれぞれの象に従って現れる。君子だけが「虚をもって人を受ける」ことができる。虚であれば心は公平になり、公平であれば受け入れて拒まず、感じればすぐ通じるので、その受容は広大である。広く受け入れる道は兌から取り、一途でまっすぐな意味は艮から取る。健やかでありながら止まることができ、従順でありながら悦ぶことができる。悦びによって陰に感じ、止まることによって陽に応じる。天地は無心で化を成し、聖人は無為で功を成す。それだけである。

『大象』にいう。山の上に沢があるのが咸である。君子はこれにならい、虚をもって人を受け入れる。

卦象は「山の上に沢がある」である。山の気は下へ交わり、沢の気は上へ交わるので、上下が互いに補い合う。天下で最も静かで虚しいものは山にほかならない。山は虚であるからこそ、沢の気を広く受け入れる。君子はこの象を体して、人の善を受け入れる。だから寂然として動かない時にも心を深く澄ませ、広く公平な境地に性を定めることができる。古来、舜が人の善を取り入れ、禹がすぐれた言葉に礼をし、周公が食事を吐き出し髪を握って客を迎えたという故事は、いずれも自分を空しくして人を受け入れた例である。

  【占い】
○ 戦征を占う。軍を進める時は、穴や落とし穴に注意すること。山谷の間では伏兵に警戒し、城池を固守する時は、敵兵が地下道をひそかに通じさせることにも注意せよ。いずれも慎重でなければならない。


○ 商売を占う。山沢は財を生む地、すなわち財源である。「虚をもって人を受ける」とあるので、産物を買い入れ、運送して転売すれば、必ず大きな利益を得る。

○ 功名を占う。「山上」は高い地位に付く象である。「山上に沢あり」の沢は、水がたまる低くくぼんだ所である。高い地位にいても危うきを思う意がある。ただ己を空しくして人を待つのがよく、そうすれば功名を長く保てる。

○ 家宅を占う。この家は必ず山に寄り、水辺に臨んでいる。居るべき所を知れば吉。

○ 病気を占う。これは虚弱の症状である。滋養・補養の薬を服すのがよい。

○ 婚姻を占う。山沢が気を通じる卦であり、両家が和合することを主る。大吉。

○ 訴訟を占う。双方は若者の意気で争っているに違いない。和解して訴えを止めるのがよい。

○ 妊娠:男児が生まれる。

○ 失物を占う。水のある空洞に落ちたに違いなく、取り戻すことはできない。

初六:その拇に咸す。

初六:その拇に咸す。

『象伝』にいう。「その拇に咸す」とは、志が外に向かっているのである。

「拇」は足の親指である。初爻は爻の先頭にあり、感応の始まりを表す。その感応はまだ微かで、足に指があるようなものだ。指が少し動くだけで、まだ歩みを移してはいない。これは人の心が初めて感じてまだ動かず、ただ志が生じただけであることにたとえる。『象伝』に「志が外にある」とある。「外」とは九四を指す。初六と九四が相応するから、「外にある」というのである。志とは心の向かうところである。ただ志があるだけで、いまだ軽率に動かない。ゆえに吉凶を述べない。

  【占い】
○ 戦征を占う。これは兵刃が初めて交わる時で、四日目に応じ、勝利を得られる。


○ 商売を占う。初めての取引で、商品はすでに用意したが、まだ発送していないのであろう。

○ 功名を占う。一挙に名を成し、いち早く先頭に立つ兆しがある。

○ 家宅を占う。他の土地へ転居する意がある。

○ 病気を占う。足指にできものが生じ始めたもの。外用薬を塗って治療するのがよい。

○ 婚姻を占う。初六は九四に応じ、艮の男が兌の女に求婚する形である。結婚の縁を結ぶ吉である。

○ 妊娠を占う。男児で、初産である。

【例】明治二十三年、某貴顕の運勢を占い、咸の革への之卦を得た。

断にいう。これは咸卦の初爻である。拇は足指で、人身の中でも最も小さい部分だから、その動くか動かないかは、本来さほど重大なことではない。初爻は九四に応じ、四爻は尊位に近い。この占では、応爻を貴顕に当て、初爻を占いを求めた人に当てるべきである。今、初爻は咸の初めである。この貴顕は幕府の時代から今日まで、あらゆる苦労を嘗めてきた。今は年老いているが、志望はいまだ大きく、何かを計画すれば、皆が喜んで従う。『象伝』に「志は外にある」とある。これは貴顕の志が、今日の国家の重要事において、ひたすら外交を重んじていることをいう。したがって、この貴顕の老後の運は、まだ尽きていないと知れる。

六二:その腓に咸す。凶。居れば吉。

六二:その腓に咸す。凶。居れば吉。

『象伝』にいう。「凶なれど居れば吉」とは、順えば害がないということである。

「腓」はすね、あるいはふくらはぎで、骨のない部分、拇の上、股の下にある。腓は自ら動くことができず、足に従って動く。足が動いて凶となれば、腓もまた吉を失う。しかし動けば凶、静かに居れば吉なので、『象伝』は「凶なれど居れば吉、順えば害なし」という。六二は陰位に陰で居り、その性質は本来静かである。その性に従って動かなければ、害を免れて吉を得ることができる。

  【占い】
○ 戦征を占う。堅く守って動かないのがよい。そうすれば害を免れる。


○ 商売を占う。行商は不利で、店を構えて商うのがよい。

○ 功名を占う。人に頼って事を成すだけで、まだ遠くまで進むことはできない。

○ 病気を占う。腓の病に当たり、四肢が萎えて麻痺する症状であろう。座るか横になるほかなく、歩くことはできない。

○ 婚姻を占う:縁談はすでにまとまっているが、変動が生じる恐れがある。順応して身を守ることができれば、たとえ凶兆があっても、最後には吉となる。

○ 妊娠:男児が生まれる。

【例】 華族のある紳士が私のもとへ来て言った。「先ごろ、知人が数年にわたる苦心の末、新しい技術を創案し、専売の許可を得ました。そこで私は資金を貸しましたが、その新技術が実際に広く行われるか、また貸した資金が損になるか益になるか分かりません。どうか筮していただきたい」。筮したところ、咸が大過に変じた。

断にいう。咸は山と沢の気が通じ合う卦であり、二つのものが互いに依存し、互いに役立つことを示す。友人は一つの物を発明し、あなたの資金を頼りに事業を成り立たせた。したがって、その友人とあなたは実に相依り相助ける関係にあり、その事業が広く行われることも確実であろう。腓とは足のふくらはぎである。腓は自ら動かず、足の動きに従って動く。これは資金の流通が、商品の運搬・販売に全面的に頼り、資金もまたそれに伴って動くことをたとえたものだ。この事業は始まったばかりなので、当分は販売に支障があるのもやむを得ない。商品を蓄えて時機を待てば、自然に利益を得られる。初めは凶でも、終わりには吉となる。

九三:腿に感応し、自分に従うものをつかんで進めば、恥を招く。

九三:腿に感応し、自分に従うものをつかんで進めば、恥を招く。

『象伝』にいう。「腿に感応する」とは、やはり静止していないということである。志が人に従うことにあり、つかんでいるものは下位のものだからである。

この爻は下体の上、上体の下に位置し、腿の象をなす。腿は上下に従って動き、自らを主宰できない。九三は陽爻で陽位に居り、上六の陰と応じているのに、上六を捨てて初二に親しみ、動くか止まるかを彼らに任せている。このまま進めば、恥を招くことは明らかである。三は艮卦の主爻であり、艮は腿を象徴するので「腿」という。また艮はつかむことを象徴するので「つかむ」という。艮は本来止まる意であるが、三は感応して動こうと思い、さらに初二を引き連れて皆を動かす。だから「自分に従うものをつかむ」という。『象伝』の「やはり静止していない」とは、親指とふくらはぎを率いて共に動かすことをいう。「志が人に従うことにあり、つかんでいるものは下位のもの」とは、「人に従う」が上爻に従うこと、「下位のものをつかむ」が初爻と二爻をつかむことをいう。

  【占い】
○ 戦争を占う:退いて守るのがよく、進んで攻めるのはよくない。


○ 商売を占う:商業では資本を出し合うことを株分けというが、必ず一人を立てて事業を主宰させる必要がある。その主宰者が自ら決断できず、ただ人に従って事業の上下を決めるだけなら、利益を得るのは難しい。

○ 立身出世を占う:評判に追随し、名声に寄りかかるのは品位が低い。勝ちを制するのは難しい。

○ 家宅を占う:住まいは艮の山に近く、本来は安住できる場所である。しかし占う者はここに住み続けることを望まず、人に従って他所へ移ろうとしているらしい。行き先では恥を招く恐れがある。

○ 婚姻を占う:仲人の言葉を聞き入れすぎることに過ちがある。嫁ぐ相手が良縁でない恐れがある。

○ 妊娠:男児が生まれる。

【例】 ある友人が来て運勢を占ってほしいと頼んだ。筮したところ、咸が萃に変じた。

断にいう。卦は上が艮山、下が兌沢である。山は沢を得て潤い、沢は山によって水源を得る。これが山沢通気であり、陰陽が互いに感応する、まさに運勢が盛んな象である。あなたは第三爻を得た。三爻は内卦の主で、上六と応じる。九三は陽、上六は陰であり、感応して動こうとするので「腿に感応する」という。腿は下体に属し、また陰の象でもある。卦は本来、若い男と若い女が互いに愛し喜ぶ姿を表す。三爻の「志は人に従う」とは、下にあるものを引き連れて皆で進むことであり、その情欲への溺れはことさら深い。これほどの恥を、どうして弁解できようか。現在の年運を論じれば、決して悪くはない。しかし色欲に心を奪われ、陽が陰に累わされるため、病災に至ることを警戒しなければならない。慎み、戒めるべきである。友人はこれを聞き、初めは感じ入ったようだったが、その後は情欲に溺れて悟らず、ついには一生を落ちぶれたまま、良縁にも恵まれず終えた。ああ、悲しいことだ。

九四:正しさを守れば吉で、悔いは消える。あわただしく行き来すれば、友人たちはあなたの思いに従う。

九四:正しさを守れば吉で、悔いは消える。あわただしく行き来すれば、友人たちはあなたの思いに従う。

『象伝』にいう。「正しさを守れば吉、悔いは消える」とは、まだ感応による害を受けていないということ。「あわただしく行き来する」とは、まだ明らかで大きくなっていないということだ。

四爻は三つの陽爻の中央にあたり、心の位に居るので、咸の主爻である。初爻の親指、二爻のふくらはぎ、三爻の腿、五・六爻の背・舌・頬・顎は、すべて心から発する。だから心そのものについては感応を言わない。あらゆる感応は心から生じるからである。心の本体はもともと明らかで曇りなく、ひっそりと動かない。何かに触れて初めて心が動く。動けば悔いが生じるが、悔いをなくすには正しさを守るほかない。正しさとは正道であり、正しければ吉となり悔いも消える。しかし人の心には感応がないわけにはいかず、その感応が常に正しいとも限らない。不正であれば心が害され、感応とともに悔いが生じる。どうして吉を得られようか。「憧憧」はせき立てられた様子、「往来」は忙しく行き来する形である。「憧憧往来」とは、私意が乱れ、次々と押し寄せ、害や累が群れ生じることを強く表している。下の親指・ふくらはぎ・腿、上の背・舌・顎・頬も皆ばらばらに動き、ただ「友が従う」ことだけが見える。そのような心に、どうして一瞬でも安らかな定まりがあろうか。『象伝』の「正しさを守れば吉、悔いは消える。まだ感応の害を受けていない」とは、正しければ心に私心がなく、感応する前の心は本来明らかに澄んでいるので、「まだ感応の害を受けていない」というのである。「あわただしく行き来し、まだ明らかで大きくない」とは、外物の感応が次々に来て、思いも欲もなくすることができないので、「まだ明らかで大きくない」というのである。

  【占い】
○ 戦争を占う:軍中ではすべてが主将を心として動く。大軍が入り乱れて集まるとき、一人の将がこれを鎮めてこそ、命令が行われ禁令が守られ、静かに整う。そうでなければ混乱錯雑して災害が生じる。


○ 商売を占う:商売は利益を図るものだが、正道を守ってこそ吉となる。利益を見て義を忘れれば、人々がこぞって奪い合い、奪っても満足せず、言い尽くせない害を招く。

○ 立身出世を占う:四爻は陽爻で陽位に居り、至尊の位に近いので、功名が顕れ達する象である。正しければ吉だが、正道によらずに得れば、すぐに害が伴う。何より慎重でなければならない。

○ 家宅を占う:その家は必ず人の往来する大通りに面し、正しい者も邪な者も入り混じって住んでいる。交際相手は十分に選ぶべきである。

○ 病気を占う:必ず心神がぼんやりして落ち着かない病である。静養するのがよい。

○ 婚姻を占う:女性側の家庭のしつけや規範が厳正でない恐れがある。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 明治二十二年、ある紳士が来て、某高官の運勢を占ってほしいと頼んだ。筮したところ、咸が蹇に変じた。

断にいう。四爻は陽爻で陰位に居り、九五に近いので、貴顕の象である。今この貴顕の運勢を占って四爻を得た。四爻は三つの陽爻の中央、心の位にあたる。心は全身の主であり、心が正しければ全身も皆正しくなる。これは大臣が身を正して人々を率いれば、百官が皆その命令に従うようなものである。だから「正しさを守れば吉、悔いは消える」という。これこそ、その貴顕の力量である。もし心に少しでも不正があれば、諸事は必ず乱雑になり、党派が入り乱れて起こる。初めは一身に害があり、最後には一国にまで害が及ぶ。すべては一心の不正から始まり、それが災いへの階段となる。その貴顕は心を正直に保ち、国のためには家を忘れ、公のためには私を忘れ、天下を自らの責任として担うことができた。古人のいう「一己を正して天下を正す」者であり、その貴顕にはその徳がある。民衆の仰ぎ望むところは、まだ尽きていない。

九五:背中に感応する。悔いはない。

九五:背中に感応する。悔いはない。

『象伝』にいう。「背中に感応する」とは、志が末端にあるということだ。

『注』によれば、「脢とは心の上、口の下にあるもの」という。馬融は「脢は背である」といい、『博雅』は「肩甲骨を脢という」とする。つまり背中の肉である。心は前にあり、背は後ろにあり、動かない場所である。艮の象に「その背に艮まる」とあることからも、背は艮が止めるところだと分かる。爻辞の「背中に感応する」とは、おそらく孟子のいう「君子の本性は心に根ざし、背中に満ち、四肢に施される。四肢は語らなくてもおのずから理解させる」という意味である。五爻は剛健で中正な陽の徳をもって君主の位に居り、下の六二と応じている。六二は「ふくらはぎに感応する」という。ふくらはぎは足の肉で、自ら動けない。五爻は「背中の肉に感応する」という。背中は脊柱であり、これも自ら動けない。したがって、その感応は、感応していながら感応を意識しないようなものであり、その動きも、動いていながら自ら動いたとは思わないようなものである。自ら動かずに動く以上、背中自身も動いたことを知らない。どうして悔いが生じようか。『象伝』の「志は末にある」とは、これは意識的な感応ではなく、感応の極致であることをいう。初爻の「志は外にある」、三爻の「志は人に従う」は、いずれも意識をもって感応するものであり、かえって末等である。別説では、『象伝』の「志は末にある」とは、九五の尊位にいる者は億兆の民の心をいたわるべきで、その志願こそ大きいという意味である。もし自分だけ安らかに過ごし、目先の悔いを免れることを願うなら、その志はあまりにも小さく卑しいではないか、という。

  【占い】
○ 戦争を占う:密かに敵の後方を襲い、その背を攻めるのがよい。勝ちがあり、敗れはない。


○ 商売を占う:『象伝』に「志は末にある」とある。末とは小さく微かなものなので、事業は大きくなく、利益も薄いと分かる。

○ 立身出世を占う:背は敗北を意味する。求める名声はおそらく成し遂げられない。

○ 病気を占う:背が盛り上がるのは長寿の徴である。病はすぐに癒え、悔いはなく、さらに長寿を得るだろう。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 明治二十一年、ある紳士が来て、某高官の運勢を占ってほしいと頼んだ。筮したところ、咸が小過に変じた。

卦の例では通常、九五を君位とする。しかし乾は君であり父であるが、臣下や子がこれを占ってもよい。坤は臣であり民であるが、君主や父がこれを占ってもよい。易の道は一つの型に拘束されない。咸卦は艮山と兌沢で、二つの気が互いに感応する。だから「天地が感応して万物が化生し、聖人が人心に感応して天下が和する」といい、ここから、大臣が国を治めるときは、上下の者を真心で感服させることがすべてだと分かる。今この貴顕の運勢を占って第五爻を得た。爻辞は「背中の肉に感応する」という。背中の肉とは脊柱のあたりで、前は陽、背は陰である。心と背の間では陰陽が感応し、痛みと苦しみが通じ合うように関わる。この貴顕は民の苦難を深く思いやり、自然にその痛みを胸に抱いて、隔たりを置いて見ることができない。必ず悔いはない。後の運は、きっと背が高く盛り上がった長寿の老人のような寿命に至り、その福は計り知れない。『象伝』の「志は末にある」とは、目下はまだ志願が明らかに大きくなっていないという意味である。

上六:顎・頬・舌に感応する。

上六:顎・頬・舌に感応する。

『象伝』にいう。「顎・頬・舌に感応する」とは、口先の弁舌をほしいままにすることである。

「輔」は頬の内側、「頬」は輔の外側である。舌は口の中にあり、舌が動けば顎と頬もそれに従う。この爻は陰柔で中を得ず、卦の極みに居り、尊位に近い。ひたすら讒言によって君主を惑わす者を表す。これは巧みにへつらう小人で、聖人が深く憎むところである。だから凶の文言を付けていないが、その凶は自ずから明らかである。『象伝』の「口先の弁舌をほしいままにする」とは、口を開いて言葉を弄することをいう。また「空しい」という説もあり、誠実さがなく、いたずらに虚言を誇張して世を欺くことを意味する。咸の道は薄くなっている。

  【占い】
○ 戦争を占う:間者が偵察している恐れがある。


○ 商売を占う:口論や中傷による災いを恐れる。

○ 立身出世を占う:策を献じ、意見を申し述べれば、召し出されて用いられるだろう。

○ 家宅を占う:家人の仲が悪く、口げんかが起こる。

○ 病気を占う:うわごとや delirium のような言葉が出る。心魂が安らかでないので、祈祷するとよい。

○ 婚姻を占う:仲介者の言葉は、まだ全面的には信じられない。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 明治二十五年、岩城県選出の衆議院議員・佐藤昌蔵氏が来て言った。「今回、地租改正案が持ち上がり、奥羽諸県ではすでに地租増徴の部を編成しています。しかし我が県では土地が痩せており、地租を増やすのは甚だ不当と思われます。議院の議決がどうなるか占ってください」。筮したところ、咸が遯に変じた。

断にいう。兌は口を表し、顎・頬・舌はいずれも言葉を発する器官である。これはまさに議院の論議を裏づける象である。今、地租増徴について占い、咸の上六を得た。咸とは感応であり、何かを議するなら、上下が真心をもって率直に通じ合ってこそ、その事は妨げなく実行できる。ところが今回は、空論を競うだけで実際の恩恵がない。それでどうして民に従わせることができようか。後日、佐藤氏が礼を述べて来て言った。「易の判断は本当に虚しくありませんでした」。