高島易断 · 卦ごとの解説

高島易断 · 易経 第 58 卦 兌為沢、兌:亨る、貞に利あり。

兌為沢、兌:亨る、貞に利あり。

兌:亨る、貞に利あり。

58 兌為沢

卦体は一陰が二陽の上に出て、二陽が下にあり、上の一陰を支える形であり、その象は沢が水を蓄えるかのようです。沢が万物を潤し育てるのは、『兌』が万民を喜び従わせるのと同義であり、この卦が「兌為沢」の象を取る理由がここにあります。

兌[77]:亨(とお)る。貞(ただ)しきに利(よ)ろし。



▲ 甲骨文字の「兌」

『兌』はもと《乾》の体であり、《坤》の三爻が動いて《乾》に入り《兌》となりました。《兌》の「亨、利貞」は即ち《乾》の徳であります。《乾》の四徳は四季に配され、《兌》は秋を司り、夏と冬の間に位置して三徳を兼ね備えますが、元(春)にのみ及ばないため、「兌は亨る、貞しきに利ろし」と言うのです。

『彖伝』に曰く、兌(だ)は説(よろこ)ぶなり。剛(ごう)中にしてもつて柔(じゅう)外にあり、説びてもつて貞(ただ)しきに利(よ)ろし、ここをもつて天に順(したが)ひて人に応(こた)ふ。説びてもつて民に先だてば、民その労(ろう)を忘れ、説びてもつて難に犯(おか)せば、民その死を忘る。説びの力の大なるかな、民勧(は励)むかな!

『序卦伝』に「巽とは入るなり。入りて後によくこれを悦(よろこ)ぶ、故にこれに受くるに兌をもってす。兌とは悦ぶなり」とあります。卦体は二・五を中心とし、三・上を外とし、九を剛とし、六を柔とします。《兌》は二・五が共に九であるため「剛中」といい、三・上が共に六であるため「柔外」といい、合わせて「剛中にして柔外なり」と言います。「利貞」とは剛中の徳にして内に誠あることであり、「悦」とは柔順の象にして外に現れることであるため、「説びてもつて貞しきに利ろし」と言うのです。この卦は《坤》が《乾》と交わるものであり、乾は天であり人も表します。剛は天の徳、悦は人の心であるため、「天に順ひて人に応ふ」と言います。孔子が政治を論じて「これに先だち、これを労す」と言ったのは、執政者はまず歓悦をもって民を撫育し、その後に民に労苦を担わせれば、民はその苦しみを辞さず、難に挑ませればその身を顧みないということです。安逸も労苦も、生も死も、民はみな無言のうちに互いに喜び合い、その理由すら知らぬほどです。悦びの道はここに極めて大きくなります。「民勧むかな」とは、既に喜んでいる民はもちろんのこと、まだ喜んでいない者もその風を聞いて喜び服し、民がみな互いに勧め励み合うことができるという意味です。

この卦を人事になぞらえると、『説卦伝』に「兌は正秋なり、万物の悦ぶ所なり」とあり、故に「説(よろこ)ぶは兌に言ふ」と言います。秋に至れば実りが熟し、人々はその食を得て豊穣を喜び、百事が通じて人心が自然と歓喜するため、『伝』に「兌は悦ぶなり」と言うのです。《兌》は口舌であり、笑顔の言葉が口から出ることです。《兌》は頬の類であり、喜びの表情が顔に現れることです。《兌》は柔に属し、これを「柔外」と言います。世の外見を飾ることを好む者は、しばしば容色を整えて他人に媚び悦ばせることを巧みとしますが、品格が卑しくなるほど心は偽りとなり、肩をすぼめ笑みを浮かべて手段を選ばなくなります。ただ悦びを求めて悦びが「利貞」にあることを知らず、ただ人に媚びて悦びが天に順うことにあるのを知りません。なぜなら、剛中の徳がないからです。《兌》の剛中は二・五にあり、故に「剛中にして柔外」となり、「剛中」とは即ち「利貞」であります。二・五の爻は共に「孚(まこと)」と言い、「孚」とは剛中に信あることです。その孚を得れば事ごとに亨り、人ごとに悦び、労苦がなければ尚良し、労苦があっても辞さず、難がなければ尚良し、難があっても恐れません。道はまずこれに先だつことにあります。先だつからこそ勧めとなり、勧めるからこそ悦びとなるのです。勧めは悦びにより、勧めずともまた悦び、人々はみな喜色を浮かべます。これこそ人事の極めて順調な姿であり、また天に順うに過ぎないのです。

この卦を国家になぞらえると、《兌》の《大象》に「麗沢(れいたく)」とあり、「麗」とは連なることであり、上下ともに沢であることを意味します。上が恩沢を下に施し、下が恩沢によって上に感化され、感化されて悦ぶのです。しかし、ただ柔順をもって民を撫育し、恩あっても威がなければ、民は悦びても恐れなくなり、ただ剛厳をもって民を御し、威あっても恩がなければ、民は恐れて悦びません。これでは利とならず、貞ともならず、悦びも頼るに足りません。兌が悦ばせることができる理由は、二・五の剛がその中を得ているからです。二・五の剛が内を主とし、三・上の柔が外に施されるため、これを「剛中にして柔外」と言います。柔による悦びも、剛による悦びも、実は「利貞」による悦びなのです。上《兌》の悦びは天に順う象を取り、下《兌》の悦びは人に応ずる象を取ります。天の徳は剛を好み、人の心は柔を喜ぶため、天に順えば天は違わず、人に応ずれば人はみな至ります。これがいわゆる「天に順ひて人に応ふ」であります。このようにして悦びをもって民に先だてば、民は労苦を担っても自覚せず、悦びをもって難に挑めば、民は死を視ること帰するが如しとなります。いわゆる「佚道(いつどう)をもって民を使えば、労すとも怨まず、生道をもって民を殺せば、死すとも殺す者を怨まず」とはこのことです。それ故、民の悦びを求めずとも、民は自ら中心より誠に悦びます。労を忘れ死を忘れるのは、悦びの至りです。故に悦びの道の大なるは、その民をして自ら勧めしむるにあります。『伝』は「民を勧む」と言わず「民勧む」と言い、これは期せずして自ら勧むるものであり、その歓欣鼓舞する情は、ふたつの「忘」の文字の中から想像することができます。上古の世、君臣の間は歓然として意気投合し、理の正しい所であれば相従い、それを媚び悦びとはなさず、理の非なる所であれば互いに補い正し、それを背離とはなさず、塩と梅が調和し、水と火が助け合うが如くでありました。これこそ悦びて正しきものであり、即ち悦びの極めて大なるものです。六爻の《兌》はそれぞれ剛柔を分かちます。四つの剛爻はみな君子であり、二つの柔爻はみな小人です。「和兌」「孚兌」はその吉を得、「有喜」「有厲」はその位に当たります。三の「来兌」は来れば必ず凶が多く、六の「引兌」は引くもまた光ならず。国家がこれに当たれば、宜しく柔を抑えて剛を進めるべきであり、そうしてこそ悦びはその道を得るのです。

この卦を全般的に観察すると、この卦は《巽》に次ぐものであり、《巽》は二陽が上にあり一陰が下に入るため、陽は順って下に降ります。《兌》は二陽が下にあり一陰が上に出るため、陽は悦びて上に往くものであり、《巽》とは反対です。方位においては、《兌》は西であり、美しく和なるに利があり、その気は金にして改革を経て新しくなり、その決断は快利、その音響は金属の如く鳴り響くため、その徳は悦びとなります。四季においては、《巽》は木(春)、《離》は火(夏)、《兌》は金(秋)であり、天は三時をもって物を生じ、木の気は発生し、金の気は収斂します。《巽》と《兌》は反対でありながら適度に相成り、中には共に《離》を互卦として含み、三時が互いに因となるのは生克の自然の運用であります。大体において兌の悦びの情は和順にあり、兌の悦びの気は粛殺(しゅくさつ)を主とします。和順とは柔であり、粛殺とは剛です。故に柔をもって悦びとすれば、その弊害は必ず媚態阿諛に流れ、剛をもって悦びとすれば、その徳は「利貞」にあります。卦内の初・二・四・五はみな剛爻にして正を得ており、三・上はみな柔爻にして正を失っています。初爻の「和兌」は《彖》の「利」を得、二爻の「孚兌」は《彖》の「貞」を得、四爻の「喜」は喜即ち利にあり、五爻の「厲」は厲即ち貞を取ります。三爻の「来兌」に至っては、悦びをもって結びつきを求めて来るため凶があり、上爻の「引兌」は引き連れられて牽引されるため「光(ひかり)ならず」となります。『伝』はその徳を特に著して「剛中柔外」と言い、その用を示して「天に順ひ人に応ふ」と言い、その効を極めて「民その労を忘る」「民その死を忘る」と言い、その悦びを致すゆえんは、その道は先だつことにあり、その功は勧めることにあり、その義は推し進めるほどに益々大きくなるのです。

《大象》に曰く、麗沢(れいたく)は兌なり、君子以(もっ)て朋友(ほうゆう)と講習(こうしゅう)す。

「麗」とは連なることであり、「麗沢」とは二つの沢が互いに連なり、相互に潤し増益し合うことを意味します。朋友は互いに講習することを益とするため、朋友の象とし、《兌》は口であるため、講習の象とします。『論語』の冒頭に「学びて時にこれを習ふ」を悦びとし、朋の遠方より来たるを楽とし、悦楽の要は「朋友と講習する」より大きなものはないとし、これこそ君子がその象を《兌》に取るゆえんであります。四爻に「商兌(しょうだ)」とあり、「商」とは互いに話し合い論ずる意味であり、その象もまた麗沢から取られています。

  【占い】
○ 運勢を占う:運気は平々凡々ですが、人望を得ることができれば自然と吉を得ます。ただし三・六のつく年は不利です。


○ 商業を占う:人の सहायताを得て利益を得ることができます。

○ 功名を占う:朋友の力を借りて成就します。

○ 兵陣を占う:沼沢の地に駐屯し、前後二つの陣営が示し合わせて進撃すれば勝利を得られます。

○ 婚姻を占う:旧知の朋友との縁組みとなります。

○ 家宅を占う:住居は沢水に臨んでおり、朋友と同居するのが宜しいでしょう。

○ 疾病を占う:親しい医師を招いて診察させれば、完治します。

○ 訴訟を占う:朋友の公正な評議を仰ぐのが宜しく、裁判を起こすべきではありません。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

初九:和(わ)して兌(だ)す、吉(きち)。

初九:和(わ)して兌(だ)す、吉(きち)。

《象伝》に曰く、和して兌(だ)するの吉は、行ひ未(ま)だ疑はれざるなり。

初爻は卦の首位に居り、《乾》の剛を得ています。「和兌」とは和悦することです。《乾》に「物を利し義を和す」とあり、和とは即ち《彖》の「利」であります。人と初めて交わる時、すぐにお互い心を和ませ助け合い、これをもって悦べば、悦びは正しきを得て吉となります。『伝』に「行ひ未だ疑はれざるなり」と言うのは、人の私情や疑念は往々にして後からの思いつきで生じるものであり、その初めにおいては、純粋な天心に人欲が挟まることはないからです。「和兌」が初爻にあり、天に順って行うので、どうして疑いがありましょうか。故に「疑いなし」と言わず「未だ疑われざる」と言うのです。

  【占い】
○ 運勢を占う:運気の初めであり、和をもって尊しとすれば、万事吉を得ます。


○ 兵陣を占う:勝利は和にあり、民も兵もみな歓悦し、戦わずして服従させる象があります。

○ 商業を占う:《兌》は正秋であり、万物の実りが完成する天地の自然の美利であります。商業でこれを占えば、吉にして不利なことはありません。

○ 功名を占う:祥和の気を得て、吉となります。

○ 婚姻を占う:家庭の平和で和やかな楽しみがあります。

○ 家宅を占う:一家に和気が満ち、吉となります。

○ 行人を占う:旅人はまもなく帰還します。疑いありません。

○ 訴訟を占う:直ちに和解できます。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 友人某が訪ねてきて、企てている事が成就するかどうか占いを請われ、筮して《兌》の《困》を得た。

断に曰く:この卦は一陰が二陽の上にあり、柔の卑しい者が剛の上に位置しています。初爻は陽剛を得ており、剛は厳格、柔は和合を意味し、剛をもって柔を制するのは、いわゆる「和して流れず」であります。今、あなたが企てを占ってこの爻を得たことは、爻が初に属するため、その事がまだ始まりの段階にあることを知ることができます。「和」とは彼此同心にして互いに協力し合うことです。初爻は四爻と応じており、四爻に「商兌」とあり、「商」とは相談のことで、まさに謀事の意に合合します。初爻の『伝』に「行ひ未だ疑はれざるなり」とあるのは、その事が必成疑いなしということです。四爻の『伝』に「慶びあり」とあるのは、その事の成就ののちに、さらに慶福があるということです。安心して事に当たられると宜しいでしょう。

九二:孚(まこと)ありて兌(だ)す、吉(きち)、悔(く)い亡(な)ぐ。

九二:孚(まこと)ありて兌(だ)す、吉(きち)、悔(く)い亡(な)ぐ。

《象伝》に曰く、孚(まこと)ありて兌(だ)するの吉は、志を信ずるなり。

九二は下卦の中央に居り、陽をもって陰に居ます。即ち《彖》のいわゆる「剛中」であります。二は五と応じ、「孚ありて兌す」とは、二が五に孚(まこと)あり、五もまた二に孚あることで、互いに信じ合い、互いに悦び合うことです。二は臣であり、五は君であり、君臣が一心となって相孚し相悦ぶ故に吉であります。上下の心が相孚しなければ、上下は絶対に相悦ばず、それ故に悔いが生じますが、その孚を得れば悔いは自ずと消滅します。『象伝』が「志を信ずるなり」と釈するのは、孚とは信のことであり、その志が信ずるに足るが故に吉を得るという意味です。

  【占い】
○ 運勢を占う:中正を得て、人々の心が互いに信じ合うため、吉にして悔いありません。


○ 兵陣を占う:上下が一心となり、命令がただやかに行われ、一人の兵たりとも志を奪えない勢いがあり、戦えば必ず勝ち、吉となります。

○ 商業を占う:貿易は利益を追うものではありますが、要は信をもって本とすべきです。信があれば互いに欺くことなく、商業は円滑に通じるようになります。

○ 婚姻を占う:二と五が相孚し、陰陽の良き配偶となる象で、吉です。

○ 家宅を占う:「孚(まこと)ありて攣如(れんじょ)たり、その隣を富ます」とは、隣家と力を合わせて富を致すことを意味します。

○ 功名を占う:《中孚》の二爻に「我に好爵あり、吾爾とこれに靡(分)たむ」とあり、父子あるいは仲間が共に栄進する吉があります。

○ 疾病を占う:疑念によって生じた病であり、今や互いに信じ合えるようになったため、災いも悔いも自然と消滅します。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 友人某が訪ねてきて気運を占うよう請われ、筮して《兌》の《随》を得た。

断に曰く:九二の爻は剛中を得ており、剛中にして信あり、その信は阿諛追従ではありません。相孚することを得れば、相悦ばざるはなく、故に吉にして悔い消ゆるのです。人の生氣運もまた、その剛中を得ることを尊びます。剛なれば事を任ずるに肝胆があり、中なれば事を任ずるに私曲がありません。志気が剛強で、運途が中正であれば、自然と事ごとに吉を得ます。今、あなたがこの爻を得たのは、目下の気運が盛大であることを知ることができます。論ずれば《兌》は金の運であり、金水の二運を良しとします。《兌》は秋であり、季節としては秋の季節を良しとします。《大象》は「朋友講習」を取っているため、あなたは朋友を選び、小人を遠ざけ君子に近づけるべきです。自ずと相扶助して利益を得て、悔いは去り吉が来たるでしょう。

【例】 明治二十八年、我が国と米国との交際を占い、筮して《兌》の《随》を得た。

断に曰く:孚とは信のことです。『中孚』の『彖伝』に「悦びて巽(したが)ひ、孚(まこと)乃ち邦(くに)を化す」とあり、国交の道において最も宜しいのは信義をもって相孚し、両国が互いに欺き合うことなく、干戈を玉帛に変えることであり、実の両国の幸福であることがわかります。今、我が国と米国との交際を占ってこの爻辞を得たことは、我が国とアメリカ両国の交際が、今後最も親密になることを知ることができます。これを「孚ありて兌す、吉、悔い亡ぐ」と言うのです。

六三:来(きた)りて兌(だ)す、凶(きょう)。

六三:来(きた)りて兌(だ)す、凶(きょう)。

《象伝》に曰く、来(きた)りて兌(だ)するの凶は、位(くらい)当(あた)らざればなり。

三爻は《兌》の主であり、いわゆる《彖》の「柔外にあり」です。柔をもって悦びを招くため、これを「来たる」と言います。初爻は「和」、二爻は「孚」といい、これは悦ばせようと期待せずして自ずから悦び、無言のうちに相悦ぶものです。もし専ら陰柔をもって人に悦ばれ、また陰柔をもって人を悦ばせるなら、悦びを来たらしめる所以のものがすべて正道によらないため、上下が互いに欺き合い、詐偽の風習を助長するだけであり、それゆえ「凶」となります。《伝》が「位に当たらざるなり」と釈するのは、一陰が二陽の上に居てその位が不当であり、柔道をもって悦びを致そうとしても、その悦びはすべて無理に引き寄せたものであり、剛中の徳を失っていることを言っているのです。

  【占い】
○ 時運を占う:人品が卑しく、専ら媚びへつらって悦びを求めるため、人に賤しまれるのを免れません。


○ 商業を占う:通商の来たるは、本来和悦をもって互いに招くべきですが、道によらずに悦ばせ、互いに欺き合うのは、商道の正しさを失うものです。

○ 功名を占う:奔走争奪して得たものは、たとえ一時栄えても必ず敗れます。

○ 征伐を占う:要するに烏合の衆を引き集めたものに過ぎず、長維持できません。

○ 婚姻を占う:初めは合わさり終わりに離れる象があります。

○ 疾病を占う:病に外からの祟りがあり、象は本来凶です。三爻から四爻まで一爻隔たっているため、早ければ一日、遅ければ一ヶ月で快方に向かうことが期待できます。

○ 訴訟を占う:外から来る災いであり、凶です。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 明治ZXKEEP0XZ年、友人の某が来て、某氏の気運を代わりに占ってほしいと請い、筮して《兌》の《夬》を得ました。

卦断に曰く:兌とは悦びなり。その悦びは心の中より生じるべきであり、外から覆い被さるものを貴びません。中より出るものは誠であり、外より来るものは偽りです。三爻の「来兌」とは、専ら外見を飾ることをもって悦びとする者です。今、貴殿が友人のために気運を占い、《兌》の三爻を得ました。三爻は陰をもって陽位に居り、《兌》の主となりますが、位は本より不当であり、その象は専ら陰柔に属し、巧言をもって人に悦ばれるのを好みます。この友人は心が正しくなく、口に蜜あり腹に剣ありの象があり、凶を免れません。《大象》に「朋友講習す」とあり、貴殿はすでに朋友の義にあるのですから、随時勧戒し、偽りを去り誠を存せしめるよう務めれば、凶を化して吉となすことができるでしょう。

九四:商兌(しょうたい)未(いま)だ寧(やす)からず、介疾(かいしつ)喜(よろこ)び有(あ)り。

九四:商兌(しょうたい)未(いま)だ寧(やす)からず、介疾(かいしつ)喜(よろこ)び有(あ)り。

《象伝》に曰く:九四の喜びは、慶(よろこ)び有るなり。

「介」とは、節操が堅固であるという意味であり、《豫》の六二の「石に介(かく)たり」の介の義と同じです。また、二つのものの間を「介」と言い、四爻は三爻と五爻の間にあり、上は五爻の剛中を承け、下は三爻の陰柔と比するため、一身をもって君子と小人の間に介在するものです。「商」とは商量(相談・議論)することであり、《兌》は口であり、商量の象があります。四爻は初爻と同体であり、初爻は事の始めで疑慮がないため商量を待ちませんが、四爻は上下の交わりに居り、剛を用いるか柔を用いるか、すべて商榷(議論)を要するため、「商兌」と言います。商量しても意がにわかに定まらなければ、心の中が游移(躊躇)するため、「未だ寧からず」と言います。憂いにより病となるため、「介疾」と言います。しかし、寧からざる者は終には必ず寧かなり、介然として疾あり、また介然として喜びがあるのです。《兌》は《艮》に通じ、《艮》上《兌》下は《損》となり、《損》の四爻に「その疾を損ず、遄(すみや)かに喜び有らしむ」とあり、その旨は同じです。《象伝》が「慶び有るなり」と釈するのは、商量して後に寧くなり、疾にして喜びがあれば、剛柔が中を得て、天人が相合し、喜びは一人にあり、慶びは天下にあることを言っているのです。

  【占い】
○ 時運を占う:運気がまだ安定していません。逆境なら憂いがあり、順境なら喜びがあります。万事は熟考して行うべきです。


○ 商業を占う:「四は恐れ多し」です。外での商売には必ず憂慮不安の事がありますが、相談して対処すれば喜びを得られます。

○ 功目を占う:艱難辛苦の中から勝ち取ってこそ、大成を収めることができます。

○ 婚姻を占う:一時的に疑いや恐れがあってまとまりませんが、仲人が再三媒酌を重ねることで、最終的には整って喜びとなります。

○ 家宅を占う:現在は家内が穏やかでなく、病気や災難が多いです。《兌》は秋であり、秋の季節を待って初めて平安となり喜びを得られます。

○ 疾病を占う:精神の不安から生じた病気です。慶事に遭えば、胸襟が開き気分が晴れやかになって自ずから治ります。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 某氏が来て、某紳士の気運を占ってほしいと請い、筮して《兌》の《節》を得ました。

卦断に曰く:兌とは悦びなり、「未だ寧からず」とは不悦(悦ばざる)なり。兌にして「商」と言うは、悦びと不悦の間に介在することです。「未だ寧からず」は疾(病)有るがごときであり、寧さを得れば喜びが有り、この一商(商量・相談)の功に頼るのみです。四爻は内外の間に処し、また剛柔の交わりに当たるため、いずれが重くいずれが軽きか、皆商酌(議論)を要します。ゆえに「商兌未だ寧からず、介疾喜び有り」と言うのです。今、気運を占って《兌》の四爻を得たことで、人の生における気運にも中立はなく、正に従えば吉、邪に従えば凶となり、ただ人の自ら選択するところにあると知ります。選択して未だ安んぜざるは、譬えば病の身にあるがごときで、憂いなきを得ず、選択が既に定まれば、自づから病去り身安く、喜び中より来たるを覚えます。四爻は君位に近く、貴人の象があり、事宜を商度(議論・考慮)し、上は君徳を補佐し、下は民心に協調することができれば、何の慶びかこれに如かん。この功この徳は、まさに某紳士に頼るものであります。

九五:剥(はく)に孚(まこと)あり、危(あや)うきこと有り。

九五:剥(はく)に孚(まこと)あり、危(あや)うきこと有り。

《象伝》に曰く:剥に孚ありとは、位(くらい)正当なるなり。

五爻は外卦の中央に処し、《乾》の剛を保ちます。これ即ち《彖伝》に言う「剛中」であり、「悦びて以て貞に利し」の貞を五爻は得ています。《兌》は秋であり、《剥》は九月の卦です。《兌》の未だ孚(まこと)ならざるより《剥》に至るは、孚の極まりです。ここで《兌》と言わないのは、五爻に至って《兌》の悦びが極めて深くなり、全く相忘れたかのようであるため、《兌》と見えずただ《剥》と見えるからです。《剥》とは労苦や難事のことです。これを労しこれを難とするは、事は民のためであっても、王者はこれを剥(削り取られる難)のごとく視ます。労を忘れ死を忘れて、王者は剥と思っても、民は実はそれを剥と知らぬゆえに、「剥に孚あり」と言います。ここに至って民は既に危険を安泰と見なし、王者はなお安泰を危険と見なすため、「危うきこと有り」と言います。事柄自体に本来危険があるのではなく、有るものは君主の心の中にあり、恐れ慄いてそれを常に意識しているのです。五爻は尊位に居り、固より然るべきことです。《伝》が「位正当なるなり」と釈するのは、この位に居る者は皆この心を存すべきであることを言っているのです。

  【占い】
○ 時運を占う:位はその正しさを得て、運気はその盛時に当たります。盛極まれば剥(衰退)となるため、特に予防すべきです。常に剥を防ぐことができれば、常に隆盛を得ることができます。


○ 征伐を占う:「剥に孚あり」とは、生死存亡の地に当たって、兵士が心を一つにし、感激して奮勇し、それを剥(苦難)と思わないことを言います。誠に衆志成城(一致団結)、往くとして克たざるなしと言えます。

○ 商業を占う:剥とは削り取られることです。削られることがあっても、深く信じて疑わなければ、必ず大きな利益があります。

○ 功目を占う:天命に安んじることができれば、削られることがあっても必ず通じます。

○ 疾病を占う:皮膚が剥がれるような病気があります。速やかに治療すれば治ります。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 明治ZXKEEP0XZ年、友人の某が来て気運を占ってほしいと請い、筮して《兌》の《帰妹》を得ました。

卦断に曰く:運は九五に当たり、陽剛中正にして、本来盛運に臨んでいます。爻に「剥に孚あり」と曰うは、相悦んで言無く、剥(削られる難)ありといえどもまた孚(誠)あるを言います。安きに居りて危うきを忘れず、患いを思いて予防する象があり、また盈(満ちた状態)を保ち泰(安泰)を保つ道があります。《彖伝》に言う「悦びて以て貞に利し」は、ただ五爻のみがこれに当たります。今、貴殿が気運を占って《兌》の五爻を得たことで、貴殿の目下の気運は正しさを得て、内は剛中外は柔、衆心皆伏し、剥削されることがあっても相悦んで解消し、事々安和にして志を行うことができると知ります。ただ貴殿の心中に、もしこれを剥と思い、これを危うしと思えば、剥として復(かえ)らざるはなく、危うしとして安からざるはないのです。五爻は二爻と正応し、五爻は吉と言わずとも、二爻の吉は即ち五爻の吉であります。

上六:引(ひ)き兌(よろこ)ぶ。

上六:引(ひ)き兌(よろこ)ぶ。

《象伝》に曰く:上六引き兌ぶとは、未だ光(大)いならざるなり。

上六の辰は巳にあり、《巽》の気を得ます。《巽》は縄であり、引き寄せる象があります。《兌》はまた《艮》に傍通し、《艮》は手であり、それゆえ引き寄せることができるため、「引き兌ぶ」と言います。六爻は三爻と同体であり、三爻は位を失っており、六爻がこれを引いて己に応じさせるは、その来たるによってこれを引き寄せるものです。来たるが既に不正であれば、引き寄せるのも不当であり、悦びはさらにその道を失います。爻はまだ吉凶を判定していませんが、要するに後の事柄の過失は免れ難いため、《伝》は「未だ光いならざるなり」と釈します。《乾》は光であり、六が変ずれば《乾》は《坤》となるため、「未だ光いならざるなり」と言います。凡そ《易》に「引く」と称するのは、多くは陰爻にあります。《萃》の六二に「引きて吉」とあり、五より二を引くは引きて昇ることであり、引くことが上に有るゆえに吉です。この爻に「引き兌ぶ」と言うは、六をもって三を引くことであり、その来たるを引き寄せるものであり、引くことが後に有るゆえに「未だ光いならざるなり」と言うのです。

  【占い】
○ 時運を占う:上爻は卦の終わりであり、運気の行き詰まりです。人の引き立てや支援を得て初めて進むことができます。吉もなく凶もなく、平々凡々に過ぎません。


○ 功目を占う:他人の推薦や引き立てを得ても、時すでに遅いです。

○ 商業を占う:人の誘導を得て初めて取引ができます。上爻は卦の外にあるため、海外に渡って経営する象です。「未だ光いならざる」とは、大きな利益を得られないことです。

○ 征伐を占う:《兌》は真西に属し、「引き兌ぶ」とは相引いて西に入るのことです。軍を引いて西に向かい、三爻と合流する象ですが、上爻に当たるため、時期が既に遅く、功を奏することは恐らく難しいでしょう。

○ 疾病を占う:内の邪気が外へと引き出されて達して初めて、回復が期待できます。

○ 家宅を占う:宅地は純陰であり、三爻と同体です。内外の引き合いや牽制による災いに注意すべきです。

○ 婚姻を占う:爻象がみな柔であるため、誘惑や勾引によって成立したものであり、夫婦の正しき礼法ではない恐れがあります。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 明治ZXKEEP0XZ年、某貴顕の気運を占い、筮して《兌》の《履》を得ました。

卦断に曰く:上爻は外卦の極みに処し、復(ま)た進むべきなし。凡そ物は極まれば則ち変じ、反(かえ)りて退くを思うの象あり。今、某貴顕がこの爻を得たことで、貴顕は長く高位に居り、身を引いて退隠し、自ら楽しむ意があることを知ります。これを「引き兌ぶ」と言います。この年の冬、某貴顕は辞職して帰隠しました。