高島易断 · 卦ごとの解説

高島易断 · 易経 第 7 卦 地水師、師は、正しければ大人に吉、咎なし。

地水師、師は、正しければ大人に吉、咎なし。

07 地水師

「師[42]」という字は、篆書では左側が阜、右側が巾である。巾の上に一を加えた形は、一人が多くの人を指揮できることを表す。師は訟を受けて続く。訟には必ず多くの人が関わり、師もまた衆を意味するので、訟の次に師が置かれる。師には二つの意味がある。一つは子弟を教え導くこと、もう一つは軍隊を統率することである。いずれも衆を率いる象を備える。九二を成卦の主とし、五つの陰爻を統率して坎の険を乗り越える。坤が上、坎が下で、地中に水がある。水は地に依って安定し、地は水に潤され、万物を生育して互いに力を尽くす。水と土の性質は本来親しい。この卦では水が地下にあり、至順の下から至険が起こるので、衆を集めて険所に拠り、乱れが定まらない象である。師とは、一人が衆を統率して平定することである。まだ乱れていない時には、師の道によって教え導き、邪な心を正して、乱れが形になる前に鎮める。すでに乱れたなら、軍を統率して征伐し、首謀者を討ち、乱れが起こりつつある時に鎮める。これらはすべて師である。初爻は柔弱で正位を得ず、難を起こす端緒となる。二爻は険難の中にあって、衆を率いて難を平らげることができるため、一卦の主となる。

師は、正しければ大人に吉、咎なし。



▲ 金文の「師」



▲ 篆書の「師」

爻辞はすべて軍旅の意味に結びついているので、彖伝もそれに従って説いている。読者は類推して読むべきである。軍旅とは大衆を動員し、武器を取り、人命を傷つけ、国庫を費やすことであり、国家がやむを得ず用いるものである。やむを得ないのに兵を起こすのは、兵を弄び武力を濫用することで、道なきことの極みである。ゆえに「師は正しくあれ」と戒める。「貞」とは正しいことであり、軍を用いる道は正を根本としなければならない。正しさを欠いて兵を起こし天下を苦しめれば、民は従わない。「大人」は通行本では誤って「丈人」とするが、『子夏伝』だけは「大人」とし、困卦の彖辞と一致する。大人を元帥とするとは、乱を正し、暴を除き、民を安んじる人物に任せることである。ゆえに「大人は吉」という。兵器は凶器、戦争は危険な事で、本来は咎を伴う。しかし大人は天に応じ民に従い、天下の暴を除く。これは王者の軍であるから、たとえ殺傷があっても天地の生生の道を損なわず、吉にして咎がない。

彖伝にいう。師とは衆であり、貞とは正である。衆を正しくすることができれば、王となることができる。剛が中にあって応じ、険を行きながら順に従う。これによって天下を治めれば民は従う。吉であり、何の咎があろうか。

「以」について、『春秋伝』に「左右することができるのを以という」とある。以は用いるの意である。元帥が厳正さによって衆を用いることができれば、王者の軍といえる。「剛中」とは、一陽が内卦の中央にいて、上にある六五の君主に応じることをいう。内卦の坎は険、外卦の坤は順なので、「険を行きながら順に従う」という。毒は、馬融は「治める」、王弼は「役する」と解し、また古くは毒と育の字が音義ともに通じるため、「育てる」とも解せる。つまり、これによって天下を治め、これによって天下を働かせるという意味で、どの解釈も道理にかなう。漢儒は毒を害すると解したが、もし天下を害するなら民は必ず従わない。それでどうして王となれようか。民によって乱を治めることを、毒薬で腫れ物を攻めるようだとする説も、こじつけである。衆が正によって立ち、民が順に従えば、順によって吉を得、正であれば何の咎があろう。「吉」は事柄についていい、「咎なし」は道理についていう。

この卦を人事に当てはめると、坎は中男で外にあるべきなのに内にあり、坤は老陰で内にあるべきなのに外にある。母子の位置が逆転して倫を失い、不安定な象である。必ず家の乱れを招く。家長の内に剛中の者を得て、正しさによって治めるなら、家道は整う。

この卦を国家に当てはめると、上卦は政府であり、坤の順を得ているが、陰弱で威厳に乏しく、下の民を抑えることができない。下卦は人民で、坎の険を得ており、陰険で騒ぎを起こしやすく、動けば上の政府に抗しようとする。水が地下にあって氾濫し、帰する所がないようなもので、衆が集まり険所に拠って、乱れて順わない象である。この卦は五爻が陰で、ただ九二だけが陽剛を持つ。ゆえに九二が六五の君命を受け、元帥の専任を担い、衆を率いて兵を起こすべきである。これによって天下を治めることを、「剛中にして応じ、険を行きて順なり」、「民これに従う、吉、また何の咎かあらん」という。

この卦全体を見ると、九二が元帥で、五陰がこれに従う。初六は兵衆、九二は主帥、六三・六四は副将、六五は敵に臨む君、上六は功を賞する時である。内外卦から見れば、九二は将帥、六五は君主。将帥が君命を受けて出征するのは、「礼楽と征伐は天子より出る」ということである。将帥は主君を助けて王業を成し、ともに功を上げる。ゆえに「衆を正すことができる」は九二の将帥についていい、「王となることができる」は六五の君についていう。

屯以下の六卦は、いずれも聖人が険難を救う事業である。天下の事には、先に難がないものはない。序卦伝にいう。「訟とは必ず衆を有する。師とは衆である。ゆえにこれを受けるに師をもってする」。坤は衆を表し、履は坎の険に当たり、兵の凶の象である。九二の一陽が五陰を率いるのは、軍を行う象である。師と比の二卦はともに地水が相遇するのに、爻象が大きく異なるのはなぜか。比は一陽が上にあり、君主が尊位にいて下を臨む象である。師は一陽が下にあり、臣が命を奉じて出征する象である。坤卦では戦といい、この卦では師というのはなぜか。師は民を意味し、国家は民を根本とする。天道は生を好み殺さず、聖人は傷ついた者をいたわるように民を包み保つ。しかし善悪が形を現して互いに対立し、五兵が起こって相傷つけるのは、天地の余儀ない数である。やむを得ず用いるほかない。ゆえに衛の霊公が陣法を尋ねた時、孔子は答えなかった。子路が三軍を指揮させるなら誰を選ぶかと問うと、「事に臨んで恐れ、よく謀り、成し遂げる者でなければならない」と答えた。「恐れ」、「よく謀る」とは、なんと慎重な言葉であろう。聖人が兵を起こすことを決して軽々しく語らなかったことが分かる。この卦では、九二は剛中の賢将、六三は功を貪って敗れ、六四は功なく常を守り、六五は君主として将を任せきらず権限に干渉して事を損なう。軍旅の情勢を観察するのに備わった卦である。およそ三軍が和し、将帥が賢く、副将が命に従い、任用が専一で、軍を帰して賞を行い、徳を尊び功に報いるのは、帝王の行いである。要点はすべて「民を包み衆を養う」に帰する。六爻が全勝を取らないことから、その意義は明らかである。

大象伝にいう。地の中に水があるのが師である。君子はこれにならい、民を包容し、衆を養う。

坎が坤の内にあるので、「地中に水がある」という。水は地中に隠れ、どの土地にも水がある。それは、兵が民の中に隠れ、民のないところに兵はないのと同じである。兵を民の中に隠せば、兵の利を得て兵の害を避けられる。水を地中に隠すなら、水の利を得て水の害を避けられるのも同じである。「水が地中にある」とは、地が水を包むことを明らかに示し、民を包み衆を養う象である。坤は民、坎は衆を表す。「容」は保つこと、「畜」は養うことで、養育と教化の意味を兼ねる。九二の将帥は徳と度量が大きく、億兆を包容し衆庶を養うことができる。ゆえに平時には兵を農に解き、事ある時には農民を兵に集める。「民を治める」といわず「民を容れる」というのは、治めるには厳しさを重んじ、容れるには寛さを重んじるからである。「衆を動かす」といわず「衆を畜う」というのは、動かせば疲れ、養えば安らかでいられるからである。兵は百年用いなくても、一日たりとも備えを欠いてはならないという。民を包み衆を養うとは、平時に兵備を講じる道である。軍旅は本来、民を損ない衆を害する事である。それなのに聖人が取る象を「民を包み衆を養う」という。殺さないことこそ武の本意であることは、ここからも分かる。

  【占い】
○ 戦争・出征を占う:卦名が師であり、爻の意味も明らかなので、各爻について推究すれば吉凶は自然に現れる。


○ 商売を占う:坤は財と聚を表し、坎は人と納を表す。もとより包容し保つ力がある。坎水が地中にあって地に包まれるように、財源も水のように流れて絶えない。商業は豊かである。吉。

○ 功名を占う:水が地中にあるのは、士がなお隠れていて、まだ顕達していない象である。しかしその徳と度量はおのずから民や万物を包容し、いったん登用されれば、水が海に朝宗するように、広く施しを及ぼす。「君子」とは徳と位を備えた者の称である。吉。

○ 婚姻を占う:坤と坎が互いに働き、地と水が親しむので、必ず旧家同士の縁による婚姻である。大吉。

○ 病を占う:水が腹に満ちて張る病であろう。坎は心と憂いを表す。心を静め、気を調え、憂いを解いて楽しみを取り入れれば、自然に治る。

○ 妊娠:男児が生まれる。

初六:軍を出すには律に従う。善くなければ凶。

初六:軍を出すには律に従う。善くなければ凶。

象伝にいう。軍を出すには律に従う。律を失えば凶である。

この卦は内が坎、外が坤で、内から外へ向かうのを「出る」という。「以」は用いるの意である。坎は律を表し、律とは法令、号令、節制のことである。初爻は爻の始まりであり、出師の始まりでもある。「事に臨んで恐れる」とは、始めを慎むべきことをいう。軍旅は大衆を率いて危地に臨むもので、国家の存亡、人民の安危がかかっている。もし規律が厳正でなく、人心が一致しなければ、三軍は覆敗し、これ以上の凶はない。「否」は否定、「臧」は善であり、『詩経』衛風の「何ぞ用て臧からざらん」と同じ意味である。「師出づるに律を以てす」は、まだ勝敗を予断できないので吉とはいわない。しかし律を善く用いなければ危険に陥り、必ず凶となる。象伝の「律を失えば凶」とは、「否臧」が律を失うことだという意味である。別説では、否は塞がること、軍心が隔てられて和合しないことをいう。臧は蔵と通じ、深く隠れて発しない、つまり敵を恐れることだという。規律が厳しくても敗北を招く。まして善くない者は必ず律を用いることができず、その凶は明らかである。この説も通る。

この爻は坎の険の始まりにあるので、律を失わないよう戒めている。いわゆる「事を起こすには始めを謀る」である。内卦が変じると兌となり、坎水が沢に変じて止まり流れない。これは規律が行われない象である。

  【占い】
○ 功名を占う:初爻は、初めて世に出て名を求める時である。「出師は律を以てす」は正を意味し、士が道を重んじるようなもの。道を失えば、栄えてもついには辱めとなり、凶。


○ 商売を占う:初爻なので、新しく興した事業である。水が地中にあるので、海運・海上貿易を表す。総じて、義によって利益を求めれば吉、義を失えば凶。

○ 家宅を占う:師卦は内が坎、外が坤なので、この宅は子に坐し丑を兼ね、午未に向くであろう。宅内の人口は最も多い。「出師に律あり」とは、家を治めるにも法によるべきことをいう。否は「しない」、臧は「善い」の意であり、家を善く治めなければ家道は必ず凶となる。

○ 病を占う:師卦は一陽五陰なので、寒が多く熱が少ない病であろう。発病の初期なので、良医を招いて治療すべきである。さもなければ凶。

【例】ある人が組織的な工業会社を設立し、株金を募集して定款を定めたいので、その会社が成り立つかどうかを占ってほしいと求めた。筮して師が臨に変じた。

断じて曰く。この卦の九二は、一陽が多くの陰を統べる形であり、必ず剛健な人物が社長となって人々を指揮する象である。今、定款が完全に整い、欠けるところがないのは、規律と秩序が厳正に整うことを示す。しかし、この爻辞によれば、この社の盛衰は、事業を行う規律にすべてかかっている。今日、わが国で資本を集めて会社を興す者は、みな欧米諸国を模範としている。欧米諸国の船車の便は本邦とは比較にならず、そのため各種商品の売買・運搬には最も適している。多くの資本を合わせて機械を備えれば、人力を省き、製造費も安くなり、大いに成功する。これに対し、少資本の商売や独立した工業家は、敗北を免れない。今、わが国もこれを倣って会社を設立しようとしているが、資本を集めることは決して容易ではなく、役員として営業に従事する適任者を得ることも難しい。ゆえに会社設立では、第一に社長に適任者を得ることが肝要である。社長に適任者を得れば、事は成り、業は興る。得られなければ、成立しても失敗する。今、初爻は事業の始めにあるので、定款だけで吉凶を定めることはできない。社長の選挙が定まるのを待って、初めて工業の興廃を占うことができる。

九二。軍の中にあれば吉、咎なし。王が三たび命を賜う。

九二。軍の中にあれば吉、咎なし。王が三たび命を賜う。

象伝にいう。「軍の中にあって吉」とは、天の寵愛を受けるからである。「王が三たび命を賜う」とは、万邦を懐かせるからである。

「師」卦では、九二は五爻の正応である。一陽にすべての陰が帰するので、軍中の主将となり、戦伐の権を専らにする。軍の中にあるとは、陣中に身を置き、しかも中正の道を得ることである。王が三たび命を賜うとは、命が恩命であり、厚い寵遇を受けることをいう。「三」は、寵賜がたび重なることを示す。この爻は陽をもって陰位に居り、「師」卦の中では互卦の震の主爻であり、将帥の位にある。坎は智、震は勇である。陽爻の徳をもって中央に居るので、智勇を兼ね、威信をともに行う。まことに元帥の任に当たるに足り、彖伝のいう「大人」とはこれである。六五の君命を受けて軍を統率し、さらに六三の同僚から親しく補佐され、初六の民衆からも順従される。上下みな互いに応じ、参謀となるので、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取るとは、この九二の将軍のことである。六五の君は任せることが専らで、寵賜も厚いから、九二は自らその権を専断できる。いわゆる「国境外のことはすべて卿に委ねる」という意味である。任が重ければ命令は必ず行われるので、成功も容易である。古来、内に権臣がいて、外に名将があっても敵に勝てなかったのは、みな信任が専らでなかったためである。この爻に「王が三たび命を賜う」とあるのは、任せることの専一さと寵愛の厚さを示す。象伝の「天の寵愛を受ける」の天とは、すなわち王である。王を天と呼ぶことから、賢者を任用する王の明らかさが分かる。さらに「万邦を懐かせる」とは、王の命令が威力を用いることにあるのではなく、懐柔し、万民をいたわり守ることにあるという意味である。

この爻が変じると、全卦は坤となり、坎の険を去って坤の順に入るので、乱を治め正に返す象がある。地水師が突然、坤為地に変じるのは、領土を拓き境域を開く象である。この爻は卦を成す主爻なので、彖辞の「吉、咎なし」をこれに属させる。

  【占い】
○ 功名を問う。九二は一陽で五陰を統率し、爻に「軍の中にあれば吉」とある。鶏群の一鶴であり、傑出した才である。「王が三たび命を賜う」とは、才能によって爵位を授けられ、明らかに王命を受けることである。


○ 商業を問う。九二は一卦の主であるから、その人は必ず人並み外れて策を立て、商務において老練達者であり、商社の長に推挙できる人物である。吉。

○ 家宅を問う。「軍の中にあって吉」とは、その家が必ず一郷の名家であり、また一郷の善士であることをいう。

○ 婚姻を問う。九二が坤に変じる。坤は地の道であり、妻の道でもある。水と土の性はよく合うので吉である。

○ 病気を問う。水気が中宮に停滞していると知るべきである。必ず水気を流動させ、中焦を広く楽にすれば、病は害をなさない。吉。

○ 妊娠:男児が生まれる。

【例】明治二十五年十二月、第五回議会について占い、師が坤に変じた。

断じて曰く。この卦の九二は、一陽が五陰を統べる。これを人事になぞらえれば、陽剛な教師が多くの陰なる子弟を教え導くので、この卦を「師」と名づける。国家に当てはめれば、九二は陽剛な大臣であり、内にあれば宰相、外に出れば将軍である。国家に事があれば、王命を受けて征伐の権を専らにし、権力が他に移らず、威信がともに行われる。これを「師は衆なり、貞は正なり。衆をもって正しうすることができれば、王となるべし」という。易の六十四卦三百八十四爻のうち、人民を教え、その威厳を用い、国家を保つのは、ただこの一爻だけである。天命の帰するところ、上は君命を受け、下は民心に従い、正大な心で身を捧げて国に報いる時である。今、議会を占ってこの爻辞を得たなら、やはり上は君命を受け、下は民心に従い、そうしてこそ議論は中正を得る。もし上は君に信頼されず、下は民に信頼されなければ、議案は決して実行できない。

翌二十六年十二月、議会は議長を退かせた。これは二爻の陽が陰に変じ、再び停止の命があったのである。三度に至って、ついに解散の命が下った。果たして「王が三たび命を賜い、万邦を懐かせる」という占に符合した。ああ、天命の厳密さはこのようなものである。畏れ敬わずにいられようか。

六三。軍が死者を車に載せて帰る。凶。

六三。軍が死者を車に載せて帰る。凶。

象伝にいう。「軍が死者を車に載せて帰る」とは、大いに功を失うことである。

「死者を車に載せる」とは、軍が敗れ、戦死者が多く、その死体を車に載せて帰ることをいう。この爻が変じると、内卦は巽となる。巽は進退を表し、疑う象があるので「あるいは」という。古語に「三軍の災いは狐疑より生ず」といい、疑いは軍を動かすうえでの大禁忌である。六三は陰を陽位に置き、中正を得ていない。進めば応ずるものがなく、退けば守るものがない。内卦の極に居て外卦の敵に向かい、まさに刃を交える時である。柔をもって剛位に居るのは、才は弱いのに志だけは強い小人に似ている。九二の権を盗み、強さを頼んで妄進するので、ついに軍紀を失い、軍を損ない、死者を車に載せて帰る。「軍が死者を車に載せて帰る。凶」とはこのことである。象伝の「大いに功なし」とは、大敗ということである。軍事では、信任は一人に専らにすべきである。二は主将、三は副将である。副将が勝手に権を振るって敗北を招けば、主将もまた責任を免れない。ゆえに「大いに功なし」という。たとえば城濮の戦いでは、左軍と右軍は敗れ、子玉自身は敗れていない。しかし子玉は総帥であったため、軍を敗らせた罪を免れなかった。全卦についていえば、六爻はすべて軍と兵を表す。ただ三についていえば、内卦は先鋒、外卦は敵である。外卦の坤は大衆を表すので、敵兵が多いことをいう。四に至れば、また五と上を敵とみなす。五は君位であって敵ではないが、これは卦爻の象を取る際の変則である。易が象を取る方法はおおむねこのようなものであり、学ぶ者は知らなければならない。

  【占い】
○ 商業を問う。坎は車を表し、車は商品を載せるものでもある。坎はまた陥没や破損を表す。車が狭い所に出会えば壊れ、荷物も覆る。「死者」は屍であり、車が壊れて品物を失うのと同じである。「あるいは」はまだ現実になっていないことばで、「大いに功なし」は大損をいう。行商が必ずこの凶険に遭うとは限らないが、この凶険に備えなければならない。爻象の戒めはこのようである。


○ 功名を問う。「君子は輿を得る」とは、得ることを徳とし、輿は徳を載せて行うものだからである。君子とは徳と位を備えた者の称号である。別の説では、「死者を車に載せる」とは徳がないのに位に居る者をいうので、凶だとする。

○ 家宅を問う。陰陽家は風水を堪輿という。堪は天、輿は地である。「死者を車に載せる」とは、土地に死気があることだから、どうして凶でないことがあろう。

○ 婚姻を問う。三爻は坎の終わりにあり、乾の気を受ける。乾下巽上は小畜となり、小畜の三爻に「輿、輻を脱し、夫妻反目す」とある。象伝に「室を正すこと能わず」とあるので、その凶は明らかである。

○ 六甲を問う。男児が生まれても凶である。

【例】明治三年、横浜の商人三名が舶来品を蒸気船に積み、箱館へ運んで売ろうとした。折よく舶来品が不足していたため三倍の利益を得、そこで再び多額の商品を買い、大きな利益を得ようと出かけることにした。その一人の某氏が来て、損・益について占いを請い、師が升に変じた。

断じて曰く。この卦には、水の上から土を投げ入れる象がある。これを商業に当てはめれば、目的が定まらず、混雑して言いようがない。しかも今、三爻を得た。あなた方は、現在東京や横浜で売れにくい商品を安く仕入れ、辺鄙な土地で売って大きな利益を得ようとしている。他の商人がこれを聞けば、さまざまな商品を仕入れ、先を争って運ぼうとするだろう。しかし時機に合わない商品を皆が競って運べば、かえって必ず値が上がる。箱館に着いて各人が競売すれば、現地の商人はすでにそれを見越している。将来、荷が着いても売れず、必ず値下がりし、極めて安くしても売れなければ、結局は運び戻すほかない。往復の積み下ろしと運搬で費用は非常に大きくなり、売れたとしても利益がないばかりか、元金まで損なう。商品を車に載せて帰るのは、まさに死者を載せて帰るようなものである。ゆえに中止するのがよい。

某氏はこれを聞いて大いに感じ入り、ついに北地への出立を中止した。後に果たして占いのとおりになった。箱館へ赴いた他の商人たちは、みな大きな損失を被った。

六四。軍が左に退いて宿営する。咎なし。

六四。軍が左に[43]退いて宿営する。咎なし。

象伝にいう。「左に退いて宿営する。咎なし」とは、常道を失っていないからである。

左は右の反対で、用いない場所をいう。人は右手を便利とし、左は僻しているので、正しくない術を左道といい、官職を落とされることを左遷といい、策が不適切であることを左計という。「左に退いて宿営する」とは、退いて宿を取ることである。左氏は「進まないことを次という」といい、また「およそ軍が三晩宿営するのを次という」とする。さらに易では陽を右、陰を左とする。六四は爻も位も陰なので左という。この爻は陰柔で中を得ず、志も弱く、敵に勝つことができない。敵に勝てないことを自覚し、分を量って退き、軍全体を保全するので、三爻の覆敗よりはるかに優れ、「咎なし」となる。象伝の「常道を失っていない」とは、「左に退いて宿営する」という常道に背いていないという意味である。古語の「進むべきを見て進み、難きを知って退く」は、軍政の善である。進めるのに退いたのであれば、どうして咎がないのか。易がこの道理を示すのは、後世、力を量らず妄りに進む者への戒めである。

  【占い】
○ 家宅を問う。四は坎を出て坤を経る。坤は西南なので、この家は必ず西南向きである。吉事は左を尊ぶ。この家は東方に近く、青龍が喜びを司るので、吉にして咎なし。


○ 功名を問う。官職が下がることを左といい、いわゆる左遷である。「左に退いて宿営する」とあるので吉ではない。

○ 商業を問う。「高」は左を高いとし、「次」も下をいう。この爻を占えば、商品や財物は必ず上等品ではないと知れる。しかし品が次等でも、なお利益は得られるので、「常道を失っていない」という。

○ 婚姻を問う。男はなお右を尊び、女はなお左を尊ぶ。爻に「左に退いて宿営する」とあるが、あるいは女家に婿入りするのだろうか。しかし婿入りしても咎はない。

○ 病気を問う。春は左に生じ、生命の気を得るので、病は必ず咎がない。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】余が熱海にいた時、陸軍中将某と陸軍少将某が遊びに来た。某艦がマブヤ艦のそばを通って帰港するのが遅れたので、その吉凶を占い、師が解に変じた。

断じて曰く。「師」は一陽が五陰を統べ、衆陰が一陽に従う卦なので「師」という。六四は陰位に居て、戦地から退き休息する。爻に「咎なし」、象伝に「常道を失っていない」とあるのは、平常どおりで何事もないという意味である。今、マブヤ艦を占ってこの爻を得た。「師」は軍艦を表し、「左に退いて宿営する」は一時航路を外れて停泊し、休む象である。「咎なし」は過失を補う意味で、艦体を修繕することをいう。おそらくこの艦は今、碇泊して船体を修理しているのであろう。急いで探査し、救助を手配しなければならない。来月は五爻の時で、その辞に「長子、師を帥い、弟子、屍を輿す」とある。長子は大夫、すなわち上級士官を指し、無事を保てる。弟子は艦内の雑役をいうので、災害がある恐れがある。また、この爻が変じると外卦は震となる。坎水の上に震木が浮かぶので、これも艦体に異常がないことを示す。

この占いは一時世間に広まった。その後、ついに当該艦の行方が知れず、政府は沈没したものと定め、フランスの保険会社から保険金百三十万円を徴収し、海軍士官や水夫など同艦に乗っていた者の遺族に救恤金として給付した。

私の占いは、しばしば数年を経てから験が現れる。百を占えば百中し、いまだかつて外したことがない。ただし易三百八十四爻の活断の中で、水雷屯の上爻だけは、かつて辞を用いず変卦によって判断し、たまたま誤ったことがある。また、この爻が「中を得ない」と評されるのも、探索がまだ十分でなかったためではないか。さらに二か月の間は何事もなく、その後に変事に遭ったのかもしれず、これも知ることができない。ゆえにこの占いは、なお当たったとも当たらないともいえない。このような爻について、当今の浅学な者が口を挟むことはできない。後世、私のように易学に篤く志す者が現れて初めて、その是非を判断できるであろう。

六五。田に鳥がいる。言を執るによろし。咎なし。長子は軍を率い、弟子は死者を車に載せる。貞にして凶。

六五。田に鳥がいる。言を執るによろし。咎なし。長子は軍を率い、弟子は死者を車に載せる。貞にして凶。

象伝にいう。「長子が軍を率いる」とは、中正の道を行うことである。「弟子が死者を車に載せる」とは、人を用いるのが不当だからである。

「田」とは、穀物を作る土地であり、「禽」とは鳥獣の総称である。「田に禽あり」とは、鳥獣が来て作物を害することをいう。これは、盗賊が来て人民を害するのと同じである。ゆえにこれを追い払い、捕らえなければならず、防備を怠ってはならない。この爻は五爻で尊位にあり、その徳は柔順である。盗賊が侵入して来るのを見て、下に命令を発し、将帥を任じて征伐をつかさどらせるので、「言を執るによろし」とある。この爻の互卦は、変ずれば艮となる。艮は手を表し、また執ることを表すので、「言を執る」象である。九二は剛健中正の徳を備え、上は天の寵命を受け、辞命を奉じて罪を討つ。いわゆる「師出づるに律を以てす」であり、必ず功があるので、「咎なし」という。しかし、すでに長子に軍を率いさせたのに、さらに弟子にも任せて長子の権限を分けた。これは六五の君が、一人に専ら信任していないということである。長子とは九二、弟子とは六三を指す。九二は剛にして中、才能があり、その出軍は規律が厳明なので吉である。六三は陰柔で中を得ず、知恵も謀略もないため、大敗して地にまみれ、死者を載せた車を引いて帰る。ゆえに「長子、師を率い、弟子、尸を輿す」という。ここでいう長子は、彖辞のいう「大人」に当たる。彖はこれを「大人」と呼び、君命では「長子」と呼ぶのである。『纂言』に、「次子以下は、すべて長子の弟であり、弟子という」とある。この卦では九二が総帥、六三と六四がそれぞれ一軍を分けて率いる。九二と六三だけを挙げて六四に及ばないのは、九二は大吉、六三は大凶、六四は常道を失わないので咎がないからである。「貞なれど凶」とは、将を任じて出軍させるなら、必ず賢者を選んで任せるべきであり、それが「貞」であるという意味である。これに反すれば、貞であっても凶となる。この「貞凶」の二字が、一章全体の要点を含んでいる。この爻は、相手が寇として来たのでこちらが討つのであり、曲は相手にある。だから「咎なし」というのである。象伝の「中行を以てす」とは、九二の長子が中道を行う才徳を備え、征討の功を奏することをいう。「使うこと当たらざるなり」とは、六三の陰柔不中の弟子が軍律を失い、軍を敗壊させたことをいい、その才能にふさわしくない任務を負わせたのである。

  【占い】
○ 商業を問う:爻に「田に禽あり」とあるのは、農家には穀物があり、商人には利益があるという意味に似ている。「言を執る」とは、契約や証拠となる証書をいう。商売においては、何事も老練で世故に通じた者を主とするのがよい。そうすれば利益があり、そうでなければ凶である。


○ 家宅を問う:この家は、おそらく契約を結んで新たに購入したものだろう。長房には利益があるが、諸子には不利である。

○ 功名を問う:その人は以前から才能が際立っており、一朝に十羽の鳥を得るほどの腕前があることが知られている。しかし大切なのは、徳が人より優れていることである。もし徳が財物に及ばなければ、正しくても凶となる。

○ 婚姻を問う:「禽あり」とは、雁を納める婚礼の儀を指し、「言を執る」とは仲人の書面を指す。今回の縁談は、長男と長女の組み合わせなら吉である。

○ 妊娠を問う:男児が生まれる。震の長男である。

【例】明治十八年一月、私は寒さを避けるため熱海へ湯治に出かけた。その頃、朝鮮の都で変事が起こり、政府は清朝に問いただそうとしていた。朝廷も民間も騒然となり、誰を使節に任じるのか、またどのように談判するのか、皆が注目し論じていた。そこで私は、その使命を担う人物について占い、師が坎に変わる卦を得た。

断にいう。「田に禽あり」とは、禽が来て我が作物を害することをいう。「長子、師を率いる」とは、長州の男子が選ばれて任に当たるということではなかろうか。一つには「長子」といい、一つには「弟子」というが、いずれも使命を託される人物を指す。今日の朝廷の中で、老練な政事家として伊藤伯に及ぶ者はいない。伯は長州の男子である。「長子」の占は、この人物を指すのではないか。今回の談判を「師を率いる」という言葉に照らして考えると、実際の目的はもともと平和である。しかし、あらかじめ備えを整えないわけにはいかない。我が方が和戦の両面に備えていなければ、結局、平和を論ずることは難しい。この問題は実に重大であり、一歩でも譲れば、必ず破裂する。これを取り繕い、両国を難局に陥らせないためには、適任の使者を遣わすことに尽きる。伊藤伯がこの大任に当たれば、緩急を適切に処理し、必ず酒樽の間で平和を実現して、もはや疑いを残さないだろう。ゆえに「中行を以てす」という。「中行」とは、易が重んじるところであり、中正を守り、その宜しきを得ることをいう。これは賞賛の言葉である。他人に任せれば、「使うこと当たらず」の憂いがあるだろう。「使」という一字には、人民の生死、国家の安危が懸かっている。その任が適切かどうかによって、吉凶成敗にはまさに天地ほどの差が生じる。今この卦を得てみると、易の戒めの深さが分かる。今はまだ詳しく語れないが、爻辞を推察すれば、その吉凶を知ることができる。

ほどなくして、伊藤伯は果たして清国大使として派遣される命を受けた。

上六:大君が命を下し、国を開いて家統を受け継がせる[44]。小人を用いてはならない。

上六:大君が命を下し、国を開いて家統を受け継がせる[44]。小人を用いてはならない。

象伝にいう:大君が命を下すのは、功績を正しく定めるためである。小人を用いてはならない。必ず国を乱すからである。

「大君」とは六五の君を指す。「命あり」とは、功績を論じて賞を行うことである。「国を開く」とは、新たに諸侯を封ずること。「家を継がせる」とは、卿大夫とすることである。この爻は外卦が変ずると艮となり、艮は門や楼閣を表すので家の象となる。坤は土であり、国の象である。上爻は上卦の極に位置し、師の武功が終わるところ、すなわち戦が定まり功が成り、凱旋して賞を行う時である。九二は総帥で第一の功があるため、「国を開く」ことによって封ぜられる。六四は「左に次る」者で功があるため、「家を継がせる」ことによって賞される。六三は柔をもって陰位に居り、敗北して尸を載せた車を引く小人であるから、再び用いてはならないと戒める。上六は大君の左右にあって軍事上の役目はないが、内廷にあって王命を補佐し、将を統べる道を尽くすので、その功もまた大きい。ゆえに賞も同じく与えられる。功の大小を審らかにし、罪の軽重を分け、賞を公平にし、罰を必ず行うことは、すべて大君の命である。ゆえに「功を正すため」とある。もし縁故によって功を求め、取り繕って罪を免れようとするなら、それは九五の命ではなく、その正しさを失ったのである。軍中の小人は、走り回って力を尽くしたり、勇敢さによって勝利を得たりして、功がないわけではない。しかし賞は金帛や俸禄、位を与えるにとどめ、「国を開き家を継がせる」ことまで許してはならない。後日の禍を防ぐためである。象伝が「小人を用いてはならない。必ず国を乱す」と戒めるのは、実に深い。この爻は上卦坤の極にあり、伏卦は乾で、大君の象である。下卦坎は盗賊を表し、盗賊は小人である。ゆえに「用いるな」と警告する。

  【占い】
○ 家宅を問う:爻に「大君命あり、国を開き家を継がせる」とあるので、この家は必ず名門の大家である。「小人を用いるな」とは、その後嗣への戒めである。


○ 商業を問う:上六は巳に当たり、巽の気を得る。巽は商を表し、「利市三倍に近し」というので、この家は必ず商業によって興ったのである。巽はまた命令を表す。爻に「大君命あり」とあるので、富によって貴を得、家運は日に日に隆盛する。ただし富によって驕りが生じ、小人に近づくことは、戒めるべきである。

○ 功名を問う:上六は卦の終わりにあり、功を論じて賞を用いる時をいう。まさに功名が顕著になる。震の長男として、自ら家を支えることができる。ただし坎の中男は用いてはならないので、「小人を用いるな」という。

○ 婚姻を問う:師の三爻から上爻までは坤となり、坤は妻の道である。爻に「国を開き家を継がせる」とあるので、両家とも名門である。「大君命あり」とあるので、仲人は必ず貴人である。吉。

○ 懐妊について問う。男児が生まれ、貴い身分となる。

【例】ある高位の顕官が胃癌を患っていた。私が見舞いに訪ねると、たまたま元老院議官三人が同席していた。議官の一人が私に尋ねた。「この方は維新の際、元老諸公とともに大きな功績を立てた。他の人々は皆爵位や恩典を受けたのに、この方だけはその栄誉を得ていない。今や重病にかかり、思わぬ事態になるのではないかと心配している。私たちは友人として、このことをあなたにお願いしたい。願いがかなうかどうか占っていただけないか。」そこで筮して、師が蒙に変わる卦を得た。

断にいう。この方が国家に功績を立てたことは、人々の知るところである。朝廷には必ずこれに報いる方法があり、もともと言うまでもない。今この卦に「大君命あり」とあるので、爵位を賜ることは、ここ数日のうちにあると分かる。

果たして六日後、男爵の恩典を賜った。


(付言)六十四卦のうち、師・比・同人・大有・随・蠱・漸・帰妹の八卦を帰魂という。人が寿命を占ってこれらの卦を得た場合、上爻が命の尽きる時を示す。繫辞伝に「始めを原ねて終りに反る。死生の説を知るべし」とある。これらの卦によって、その人の終わりを知るのである。人の生死には、正命と非命の別がある。心魂が肉体に寄り添うのは、人が家に身を寄せて住むようなものである。心神が肉体を離れるのは、家の借用期限が満ちるようなものだ。魂が去って身が死ぬのを正命という。期限がまだ満ちていないのに、家が壊れて病気となり、その他の異常な災いによって肉体が倒れ、心魂が突然絶えるのを非命という。この非命の死を救おうとしても、名医でさえどうすることもできないだろう。三百八十四爻のうち、正命による死を示すのは、ただこの八爻だけである。ああ、人の生死とは、なんと哀れなものだろう。