高島易断 · 卦ごとの解説

高島易断 · 易経 第 19 卦 地沢臨、臨は元いに亨る。貞に利あり。八月に至りて凶あり。

地沢臨、臨は元いに亨る。貞に利あり。八月に至りて凶あり。

19 地沢臨

「臨[83]」という字は、人・臣・品の要素から成る。人は君主を尊いものとして仰ぐこと、臣は臣民を統べること、品は種類や等級によって分けることを表す。すなわち君主が天下に臨み、臣民を統率し、賢者と不肖者を見分けて、それぞれを器に応じて用いることをいう。これを君が民に臨む、尊い者が卑しい者に臨む、上が下に臨むという。「臨」には監督し守る意味もあり、監という字も臨の省略形から成る。また臨卦では、兌が下から上へ次第に浸み込み、坤が上から下を圧する。下が上を越して迫る形で、近接の象がある。卦体では兌が沢、坤が地であり、地が沢の上にあるのは、地が沢に臨む象である。上の四陰に対して下の二陽は上進しようとするので、陽が陰に臨む。ゆえに彖伝は、下が悦んで上に付着し、上が順って下へ降りると言う。上に付くとは下が上に付くこと、下へ降りるとは上が下に臨むことであり、その全体の象を「臨莅」という。臨む意味があるので、ついに臨を卦名とした。

臨は元いに亨る。貞に利あり。八月に至りて凶あり。



▲ 金文「臨」

臨は、下に兌、上に坤がある。兌は悦、坤は順である。坤が「元いに亨る」と言うのは、順によって来るからであり、臨は坤の順を得ているので、同じく「元いに亨る」と言う。兌が「貞に利あり」と言うのは、悦によって成就するからであり、臨は兌の悦を得ているので、同じく「貞に利あり」と言う。「元亨利貞」は四徳であり、乾に初めて完全に備わる。乾は天であるから、民に臨む者は天にならうべきであり、臨もこの四徳を備える。「八月」については諸儒の議論が多いが、易の道は陰陽の消長を出ない。辟卦で言えば、臨は二月の卦である。二月は春の半ばで陽が盛んに長じる時、八月は秋の半ばで陽が次第に消える時である。陽が衰え陰が盛んになるのは凶の道なので、「八月に至りて凶あり」と言う。「至る」とは、まだ至らないうちにその到来を予防すること、「有る」とは、まだ生じないうちにその可能性を予め憂慮することである。すでに至り、すでに生じてしまえば、凶が身に迫ってから避けようとしても遅い。聖人は易によって戒めを垂れ、民に臨む者が時に先んじて禍を防ぐことを望んだ。これも「霜を履めば、堅冰至る」という意味である。万事に吉だけがあり凶がなければ、天下は常に治まるであろう。

象伝は言う。臨は、剛が次第に成長し、悦んで順う。剛は中に居て応じ、大いに亨り、正をもってする。これが天の道である。八月に至れば凶がある。消えるのに長くはかからない。

「剛」とは兌の下二画、すなわち初爻と二爻を指す。「浸」は次第にという意味で、下の二陽が徐々に長じて上へ進むことである。内卦が兌、外卦が坤であるから、内は悦び、外は順う。「剛中」とは、二爻の剛が中を得ていることをいう。「応」とは五爻を指し、柔の中を得て剛中に応じるので、剛柔が相応じるのである。「大」は元、「以」は利の意味である。彖伝で「以」の字を用いるときは、利の字を解釈している。卦徳に元亨利貞を備えるものは、乾・坤・屯・随・臨・无妄・革の七卦である。諸卦の四徳はすべて乾の六陽から来る。乾は天なので、「天の道」と言う。「浸みて長じ、悦んで順う」とは、道が亨通を得ること、「剛中にして応ず」とは、道が正を得ること、いわゆる人を尽くして天に合することである。「八月に至れば凶があり、消えるのに長くはかからない」とは、臨が二月に当たり、「剛が次第に長じる」ものが、八月には柔が次第に長じ、剛が次第に消えることをいう。「長くはかからない」とは、まさに消え始めたばかりということであり、これも「浸」の意味である。剛が次第に長じるとき、君子は天に応じて行い、大いに亨り正を得る。剛が次第に消えるとき、君子は時に臨んで戒めるからこそ凶を免れる。陽が長じ陰が消えることは、天道から言えば寒暑の往来、治道から言えば君子と小人の進退である。聖人が臨卦によって繰り返し戒めを垂れたのは、なんと深い意図であろう。

この卦を人事に当てはめれば、高みに臨んで望むことも、淵に臨んで羨むことも、事に臨んで恐れることも、財に臨むことも、難に臨むことも、皆「臨」である。人事の害は、剛を失うか、柔を失うかのいずれかにある。剛が長じたときは柔で補い、柔が長じたときは剛で補えば、和悦と順調が得られる。剛柔をともに得れば、万事は必ず通じ、行うことは皆公正となる。これが人事の至善である。陰陽の消長は天道の循環であり、人力で引き戻すことはできないが、人事の吉凶もそこに伏している。浅く言えば、寒くなる前に衣を備えなければ、寒くなってからでは間に合わず、凍える。飢える前に食を備えなければ、飢えてからでは遅く、必ず飢える。これを推し広げれば、悪がまだ現れていないときに自らを省みて抑えなければ、悪は次第に増し、大きくなって改められなくなる。邪がまだ盛んでないときに自ら防がなければ、邪は次第に燃え盛り、極まって治められなくなる。すべて凶の道である。欲望に任せて放縦になり、邪僻・曲がり・奢侈に流れれば、盗跖がついに盗跖となった理由である。性に立ち返ってこれを明らかにし、戒め慎み、恐れ畏れるなら、伯夷がついに伯夷となった理由である。天道の陰陽と寒暑は転変の間にあり、人事の善悪邪正もまた一転の間にある。臨卦六爻のうち、ただ五爻だけが剛柔の中を得て、「知臨」と称される。智があれば明らかで、機を察することができるので、時に先んじて行う吉を得、時に後れて生じる凶を免れる。人事が吉に向かい凶を避ける道は、これにほかならない。

この卦を国家に当てはめれば、六五の君主が天下に臨み、悦びによって衆人を得、順によって天を承ける。乾を握り、坤を聞き、直きを挙げて枉れる者を退け、荘厳に臨めば、皆大いに亨り正を得る。一人で天下に臨もうとすれば勢いは難しいが、天下をもって天下に臨めば勢いは容易である。ゆえに君主は独りで臨むことを貴ばず、必ず人を得てともに治めることを貴ぶ。昔、舜には五臣があり、武王には十臣があったのもこれである。この卦の六五の君は九二に任せ、剛柔を助け合わせ、内は悦び外は順い、天時の変化を察し、人事の宜しきを測る。正に居て元を体し、嘉会によって亨を厚くし、利を用いて民を豊かにし、貞固によって事を成す。その道は天下の英才を教育するに足り、その徳は子孫と黎民を包容し保全するに足りる。これをもって一国に臨めば一国が治まり、天下に臨めば天下が平らぐ。しかし君子は、自分が治め平らげたとは決して自認しない。治めることは難しく乱れることは容易だと知り、まだ乱れないうちに乱れを防ぐ。泰が極まればすぐ否が来ると知り、まだ否にならないうちに否を思う。古人が鳥の羽が立つのを感じて窓戸を修繕し備え、牛の喘ぎを聞いて陰陽を調和したのは、皆深い配慮があったからである。臨卦の六爻には凶を言うものが一つもないのも、患いを思い予め防ぐことができるからである。六爻のうち五爻は尊位に居り、聡明で睿智、臨を成し得る聖君と言える。二爻は皆一徳を持つ大臣と言える。初爻は正をもって行い、四爻は至近で位に当たり、上爻は篤厚で終わりに吉である。三爻は中を得ていないが、幸い憂いを知って咎がない。一人が陽を担い、群賢が集まれば、君明臣良となり、長く安らかに久しく治められるのも当然である。何とめでたいことではないか。

太陽暦は、現在外国との交際が盛んなため、それに沿って用いられている。しかし月数を数えると、月の満ち欠けとの対応が不正確に見える。もっとも欧米諸国も昔は太陰暦を用いていたので、今日なお太陽暦の一年を十二に分け、同じく月と呼んでいる。したがって占断で数か月という場合は、必ず太陰暦による。易では冬至を一月の初めとするので、一年の終始は太陽暦と大差ない。ゆえに月についての説明は付さない。

この卦を総じて見ると、上に明主があり、天下が大いに悦ぶ時である。地勢は低く下って順い、沢水は次第に浸み上がって悦ぶ。水と土はもとより親しく、平易に民に近づく君主に、人々が皆喜んで上に付くようなものである。これが臨の意味である。初九と九二はともに「咸臨」と言う。沢水が山から下る象である。初九では沢がまだ満ちていないので「行く」と言い、九二では沢水がすでに満ちたので「不利なし」と言う。六三では水が岸に達したので「甘臨」、六四では地と水が接するので「至る」、六五では地と沢が正しく応じ、智者が水を楽しむ象があるので「知臨」、上六では地がいっそう厚く沢がいっそう深いので「敦臨」と言う。「咸」は臨む速さ、「甘」は臨み方の害、「至」は臨む誠実さ、「知」は臨む明らかさ、「敦」は臨む久しさを表す。「咸臨」は徳が人を感化する力を示し、「甘臨」は性質が柔らかすぎることを示す。「至臨」は位が適切であることを示し、「知臨」は道を明らかにし得ることを示し、「敦臨」は志が篤く厚いことを示す。六五の君主は独りで臨まず、人に任せることができるので「知臨」と称される。「咸」と「至」と「敦」を用いれば君子の道が長じ、一つの「甘」を去れば小人の道が消える。陽は悦んで長じ、陰は順って消える。ここに天時は正しく、人事は和し、上下は同じ徳を持ち、天下は明るく穏やかに治まる。これこそ民に臨む至極の法則である。

大象は言う。沢の上に地があるのが臨である。君子はこれにならい、教え導く思いを尽きることなくし、限りなく民を包容し保護する。

上卦の大地は高く、下卦の沢は低い。高いものが低いものに臨むので、「臨」と名づける。下に臨む道は、教え育てることの二つにほかならない。兌は喜びを象徴する。教えて喜ばせれば、人々の心を一つに集められる。坤は順を象徴する。養って従わせれば、多くの人々を受け入れられる。「窮まりなし」とは沢の長久さ、「疆いなし」とは大地の広大さである。また兌は口を表すため教えることができ、坤は腹を表すため包容できる。君子は沢と大地の象を取り、万民に臨む。教化の道は英才を育てることにあり、保護の誠は赤子を抱くようである。恩沢を群生に広く及ぼし、その度量で一世を包むなら、臨による治めが成る。

  【占い】
○ 運勢を問う:今は新しい運が開き、物事は生きた水の淵のように自在に流れ、幸運がまさに長じている。


○ 商業を問う:沢は商品、坤は運搬・売買の地を表す。この卦を得れば利益は厚く、しかも遠方まで及ぶ。大吉。

○ 家宅を問う:この家は必ず水沢の地に近く、家業は盛んで、財も子孫も栄える。大吉。

○ 戦争を問う:陣は水辺に置くのがよい。一時の勝利だけでなく、万民が帰服する象もある。

○ 病気を問う:命は保てるが、病は長引き、すぐには治らない。

○ 訴訟を問う:長く決着しない恐れがある。

○ 婚姻を問う:両家は和合し、五代にわたって栄える。大吉。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

○ 旅人を問う:しばらく帰らない。

○ 失物を問う:川岸のあたりを探せば、きっと見つかる。

初九:互いに臨む。正しさを守れば吉。

初九:互いに臨む。正しさを守れば吉。

「象伝」にいう。互いに臨んで正しければ吉とは、志が正しく行われるからである。

山と沢の気が通じ合う卦を「咸」という。この卦は沢の上に地があり、陰陽の気が互いに感じ応じるため、初爻と二爻はいずれも「咸臨」という。初爻は卦の始めにあり、その陽気はなお弱く、四爻と応じる。四爻は柔順で正位にあり、初爻は剛健で志を得ている。双方ともそれぞれの位にかなって正しく行い、応じて五爻へ進み、力を合わせて道を行い、大君の「知臨」の政治を助けられるので、「貞吉」というのである。「象伝」が「志行正也」と述べるのは、初爻が正位にあるため、その志すところの行いがすべて正しいからである。

  【占い】
○ 運勢を問う:今は新しい運が始まったところ。正しさを守れば、行うことに不利はない。


○ 商業を問う:新商品が出始め、市価も公正である。大いに運搬・販売してよく、思いどおりにならないことはない。吉。

○ 家宅を問う:忠厚で中正な家であり、今まさに吉事が門前に至る。大いに利あり。

○ 戦争を問う:初めて戦陣に臨むなら、大道から進軍するのがよい。吉。

○ 病気を問う:病は初めて起こったもので、正気も十分。すぐに治ると見てよい。

○ 婚姻を問う:家柄が釣り合い、品行も正しい。よい縁組である。

○ 訴訟を問う:審理に付されれば、すぐ決着する。

○ 出産を問う:男児が生まれ、安産の喜びがある。

【例】友人某が来て運勢を占ってほしいと請い、「臨」が「師」に変じた。

断じていう。この卦は地の下に沢がある。沢とは水をたくわえる所である。沢は地を得て流れ、地は沢を受けて潤う。互いに臨み合うので、その卦を「臨」という。今あなたは臨の初爻を得た。初爻は四爻と応じ、四爻は尊位に近く、貴く顕れる象がある。ただし四爻は貴位にありながら陰柔で陰位にいるため、勢力にはなお不足がある。あなたは初爻で、陽が陽位にある。才智はあっても位がないため、まだ志を実行できない。爻辞に「咸臨」とある。「咸」とは感じ応じること。今は初爻なので初対面であり、気は合っても、すぐに事が進むとは望めない。必ず二爻の「咸臨」を待てば、何事も不利はない。きっと来年のことである。

そこで某は敬服して帰った。

九二:互いに臨む。吉。何事にも不利はない。

九二:互いに臨む。吉。何事にも不利はない。

「象伝」にいう。「成臨、吉、無不利」とは、まだ命に従っていないということである。

この爻は成卦の主である。剛中の才をもって、五爻の柔中の君と応じ、陰陽が相通じる。大臣の位にあるとはいえ、任官して日が浅く、多くの陰柔の者から嫉妬されないとはいえない。ゆえに直接下から臨めば必ず咎がある。上にいる君主が自分の才徳を感じ取り、その後に臨むのを待つべきである。そうすれば吉を得られる。この爻は「吉」「無不利」といい、六爻の中でも特に称賛されている。初爻は正によって感じさせ、二爻は中によって感じさせるからである。「象伝」の「未だ命に順わず」とは、この爻が下卦にあり、正位に当たらないため、小人がまだその命令に完全には従っていないことをいう。

  【占い】
○ 運勢を問う:今はまさによく、さらに貴人の助けもある。大吉。


○ 商業を問う:初回ですでに吉を得た。二回目はさらに利益がある。

○ 家宅を問う:福星が門を照らす象があり、前後とも吉。

○ 戦争を問う:続けて奮励すれば向かう所すべて吉。ただし副将の中に命令に従わない者がいて、失敗を招かぬよう注意せよ。

○ 婚姻を問う:大いに利あり。とりわけ未年生まれが最もよい。

○ 訴訟を問う:敗訴には至らないが、しばらくは相手が従わない。

○ 出産を問う:男児だが、まだ生まれていない。

○ 旅人を問う:外にいる人は帰る日がまだ定まらない。

【例】友人が来て、ある貴顕の運勢を占ってほしいと請い、「臨」が「復」に変じた。

断じていう。この卦は下の二陽が伸び、上の四陰が衰えている。陽は君子、陰は小人を表す。君子が位にあれば国家は安らかで、万民は福を得る。これは民に臨む善い象である。今この爻を得た。九二は貴顕を表し、六五の君位と陰陽相応するので、「咸臨、吉、無不利」という。ある貴顕の本年の運勢は大吉と知れる。

【例】明治二十七年、友人の金原明善氏が来訪して言った。「私の生まれ育った郷里は遠州浜松の近くで、山林の育成を業としている。近ごろは東京で銀行を経営しており、故郷のことまで手が回らない。孫娘が今や結婚適齢期になったので、婿を迎えて家督を継がせ、老母に仕えさせ、私の妻とともに故郷へ帰りたい。これが吉か凶か占ってほしい」。筮して「臨」が「復」に変じた。

断じていう。「臨」は内卦が兌、外卦が坤である。坤は老母、兌は末娘を表す。また兌は喜び、坤は順を表すので、老母が少女を愛して喜ばせ、少女は老母に従う象である。今は二爻を得た。その辞は「咸臨、吉」。二爻は五爻と応じ、二爻は陽でありながら柔位に居り、五爻は陰でありながら剛位に居る。これはまさに婿を迎える象に合う。爻辞に「吉、無不利」とあるので、速やかに婚姻を整えるべきである。時期を遅らせれば三爻・四爻はいずれも不利となる。来年と再来年の二年間は婚姻できず、今年こそ吉である。金原氏は礼を述べて帰った。

六三:甘言で臨めば、何の利益もない。これを憂えて改めれば、咎はない。

六三:甘言で臨めば、何の利益もない。これを憂えて改めれば、咎はない。

「象伝」にいう。甘言で臨むのは、位が正しくないからである。これを憂えれば、咎は長く続かない。

「甘」とは五味の中で人が最も好む味で、怡楽の意である。「甘臨」とは、徳をもって人に臨めず、甘い言葉でへつらい、誠実な心がないことをいう。三爻は二爻に近い。二爻がまだ命に従わないのを見て、巧みな言葉で進もうとする。しかし結局、言葉が甘くても位が正しくなければ、何の利益があろうか。自分の非を知って「これを憂え」、邪を改めて正に帰し、悪を去って善に従えば、今日の正しさで昨日の過ちを補い、咎を免れることができる。これが「既にこれを憂うれば咎なし」という意味である。「象伝」の「位正しからざるなり」とは、陰が陽位にいるため正位を得ていないことをいう。「咎長からざるなり」とは、幸いにも悔悟が早く、咎が長引かないことをいう。

  【占い】
○ 運勢を問う:運はすでに悪く、行いも正しくない。幸い悔いを知れば、後の運は望める。


○ 商業を問う:店の立地がよくない。ただし砂糖の商売ならよい。

○ 家宅を問う:家の運がよくない。転居すれば吉。

○ 戦争を問う:陣営の位置がよくない。移して吉。

○ 病気を問う:薬が病状に合わない。苦味と辛味の薬を用いれば、咎はない。

○ 婚姻を問う:合わない。

○ 旅人を問う:外では利を得ず、近いうちに帰れる。

○ 失物を問う:見つかる。

○ 出産を問う:女児が生まれるが、育て上げるのは難しい恐れがある。

【例】明治五年、友人某が来て、ある商人の運勢を占ってほしいと請い、「臨」が「泰」に変じた。

断じていう。この卦は地の上に沢がある。坤は万物を生育するので母を表し、兌は三番目の求めで女を得るので少女を表す。母と娘が互いに臨む意である。臨の三爻は「甘臨」という。陰が陽位にあり、中正を得ていない。まるで少女が寵愛を頼み、甘い言葉で母を喜ばせ、家政を一手に握ろうとするようである。今この商人がこの爻を得たので、その性質はもともと陰険であり、「ただ機巧によって利を求め、ひとたび志を得れば自ら満ち足り、婦人や子供のように振る舞う」ことが分かる。これで何の利益があろうか。もし改めることができれば、なお咎を免れられる。

友人は言った。「易の理の妙には実に感服しました。その商人は以前、横浜吉田新田の沼地を一反十銭で何か所も買ったところ、後にある豪商が某県への預け金の抵当を必要としたため、一反一円で買い取り、抵当にしたのです。そのため商人は一時に一万円余りの巨利を得、以来すっかり増長して人々を軽んじ、その有様はまるで狂躁病の者のようでした。私は友人に易占の妙を詳しく語り、商人にも伝えてもらうつもりです。」

六四:至りて臨む。咎はない。

六四:至りて臨む。咎はない。

「象伝」にいう。至誠をもって臨めば咎がないとは、位が正しいからである。

この爻は至尊の位に近い。才も志も弱いが、柔順な資質で台鼎の貴位にいる。よく権勢を忘れ、身分を少しも鼻にかけず、下にある初九の剛正に応じる。賢者を尊び徳を重んじ、情意がまことに篤いので「至臨」という。大臣が善を好む誠をもち、驕り高ぶって自足する心がなく、至誠によって初九に感じ応じる。初九の賢者もまた感じて喜び従い、ともに国事を謀るので咎はない。政治に臨む吉として、これ以上のものはない。「象伝」の「位正しきなり」とは、柔順で正しい徳を得ていることをいう。

  【占い】
○ 運勢を問う:好運がすでに至り、何事も正しく整っている。吉で凶はない。


○ 商業を問う:今こそ運搬・売買の時に当たり、何をしても不利はない。

○ 家宅を問う:家の位置は適切で、家業も繁栄する。咎はない。

○ 戦争を問う:時機はすでに至った。今こそ敵に臨んで勝てる。

○ 病気を問う:重篤に至っているが、なお咎なく済む可能性がある。

○ 婚姻を問う:互いに仲むつまじく、家柄も釣り合っている。

○ 旅人を問う:すぐに到着する。

○ 失物を問う。すぐに見つかる。

【例】友人某氏が来て、ある貴顕の運勢を占ってほしいと請い、「臨」が「帰妹」に変じた。

断じていう。この卦は内卦の兌が口、外卦の坤が衆を表す。世論に耳を傾け、民情をよく考え、そのうえで事に臨むことをいうので、「臨」と名づける。四爻は柔順で正しい徳を備え、下の初九の剛正に応じている。勢力を忘れ、身分を少しも誇らず、厚い心で賢者を礼遇する。まさに誠の至りであり、「至臨、咎なし」という。ある貴顕がこの趣旨を体得できれば、咎はない。

六五:知恵によって臨む。大君にふさわしい。吉。

六五:知[84]臨。大君にふさわしい。吉。

「象伝」にいう。「大君にふさわしい」とは、中道を行うことをいう。

「知」とは智であり、「知臨」とは人を知り、よく任せることをいう。一人の身で天下の広大さに臨み、自分の智だけを頼りにすれば、かえって不智となる。天下の善を集め、天下の事を天下の人に任せてこそ、「智は万物に周く、道は天下を済う」ことができる。これが、己を慎んで無為に治める至上の政治である。この爻は柔中の徳を備え、至尊の位にあり、下の九二と応じる。その賢を知って任せるのである。「聡明睿知にして、臨むに足る」とはこのことをいう。この爻がそれを得ているので、「大君の宜しき」という。舜が大智と称されたのも、天下の智を集めて自分の智としたからであり、「舜は問いを好み、卑近な言葉をよく察した」といわれるのも同じ意味である。「象伝」の「中を行うの謂なり」とは、五爻が柔中の徳を備え、剛中の賢者に任せて「知臨」の功を成すことをいう。中道を行うとは、偏らないことである。

  【占い】
○ 運勢を問う:今は時運に恵まれ、さらに善き人の助けもある。何事も成るべし。吉。


○ 商業を問う:往来を知り、商況に通じれば、自然に利益を得る。吉。

○ 家宅を問う:五福が門に臨む兆しがある。吉。

○ 戦争を問う:軍心を得れば、己と敵を知ることができ、戦えば必ず勝つ。

○ 病気を問う:良医を得て病因を詳しく知り、治療すれば自然に治る。

○ 婚姻を問う:家庭によく合う。大吉。

○ 失物を問う:誰かが拾っている。後日おのずと分かる。

○ 懐妊について問う。男児が生まれ、貴い身分となる。

○ 旅人を問う:まだ道半ばにあり、数日後には帰る。

【例】明治二十二年、ある貴顕の運勢を占い、「臨」が「節」に変じた。

断に曰く。この爻は第五位にあり、大君の位を占める。爻辞の「知臨」は大君の象であって、人臣にふさわしいものではない。いま、ある高官について占ってこの爻を得た。五爻と二爻は相応し、五は君、二は臣であるから、二爻をその高官に当てるべきである。「知臨」とは大君であり、大君に知られた者がその高官である。大君の知遇を受けて政務に臨む以上、善政はすべて君に帰すべきである。ゆえに「知臨、大君の宜しきなり、吉」という。しかし位は高く任は重く、衆人の忌みも集まりやすい。君にはよくても、臣にはかえってよくないことがあり、これも陰陽が消長する機微である。臨の六爻には凶象がない。ただ象伝が「八月に至れば凶あり」と述べる。聖人はこの吉卦に即して、突然、凶災を示したのである。盛んになる初めには衰えがすでに伏し、福が来れば禍がこれに続く。つまり今日の吉は、将来の凶をあらかじめ防ぐべきものなのである。

易の機は極めて微妙で、容易には推し測れない。その後十か月して、かの高官は突然、凶暴な災いに傷つけられた。それは八月の観の数ではなく、十月の遯の数まで延びたのである。筮者がその時数を正確に知れないことはあっても、吉凶の理は結局、消長循環の中を出るものではない。後学の士は、よく注意しなければならない。

【例】明治三十年五月十二日、東京山下町の横山孫一郎氏を訪ねたところ、雨宮敬二郎・小野金六の両氏も同席していた。私は二人に尋ねた。われわれは昨年以来、英国のスミス商会にわが国の公債を買わせようと、懸命に斡旋してきた。しかし価格が折り合わず、長く苦慮している。この売買契約が成立するか占っていただきたい。筮して臨が節に変じた。

断に曰く。臨とは、彼此が互いに臨み近づくことである。この卦は兌の少女と坤の老母が、互いに従い、互いに喜ぶ象をもつ。公債の売買もまたこのようである。われわれは戦勝して賠償金を得、それによって軍備を拡張し、諸外国に威信を示して国家の基礎を固めたい。そのため公債を売って不足を補い、相手の商会もまた自国の低利の商人に売って利益を得る。双方が互いに利益を図ることは、老母と少女が親しく喜び合って事を成すようなものである。今この爻を得たなら、望みは遂げられ、事は必ず成ると知るべきで、もはや思い悩む必要はない。

翌日、果たして四千万圓の公債売買契約が成立したとの報が届いた。

上六。篤く臨む。吉。咎なし。

上六。篤く85臨む。吉。咎なし。

象伝に曰く。篤く臨むことの吉は、志が内にあるからである。

「敦」とは、篤く、厚いことである。この卦では六五がすでに九二と応じ、上六もそれに従って助けを加える。これを「敦く臨む」という。復では六四がすでに初九と応じ、六五もまた従って助けを加えるので「敦く復る」というが、その意味は同じである。この爻は坤の極にして、臨の終わりに位置する。陰柔が上にあり、二爻とは正しい応爻ではないが、その志は陽に従うことにある。尊きを屈して卑きに従い、高きから降りて下に就き、礼の心は篤厚である。これは臨の道をよく守って最後を全うする者である。ゆえに「敦く臨む、吉、咎なし」という。どの卦でも上爻は極みであり、極みを越えると危うい象が多い。しかしこの爻の「敦く臨む」には、安んじて仁を厚くするという意味があり、極に過ぎる心配がない。それゆえ吉であり、咎がない。象伝の「志は内にあり」とは、内卦の二つの陽爻を指す。内卦とは応じないけれども、上六の志はひたすら内にある。だから「志は内にあり」というのである。泰の初九の象伝「志は外にあり」と対照して見ることができる。

  【占い】
○ 時運を問う。目下の好運はすでに終わった。ただ心が忠厚であるため、咎を免れる。


○ 商業を問う。国内での売買は吉。

○ 家宅を問う。代々忠厚で、内外ともに粛穆。吉。

○ 戦争を問う。兵を増し、軍糧を増して、国内の保護を第一とすべきである。

○ 病気を問う。元気を養えば、薬を用いなくても喜びがある。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

○ 失物を問う。すぐ家の中にあり、もともと失われてはいない。

○ 旅人を問う。本日中に帰ることができる。

【例】友人某氏が計画について占ってほしいと訪ねて来て、筮して臨が損に変じた。

断に曰く。この爻は臨の極みであり、功業はすでに成り、ほかに企てるべきことはない。「敦く臨む」とは、臨の道にさらに篤厚を加えるだけである。篤厚にして人に臨むから「吉、咎なし」を得る。いまこの爻を得たなら、あなたもこの意味を知るべきである。何事にもいっそう篤厚であれば、どのような謀も遂げられず、どのような事も成らないことがあろうか。あなたの思慮の深さは、易の象に現れている。

某氏は言った。「詩経に『他人に心あれば、われこれを推し量る』とありますが、まことに先生のことです」。深く謝意を述べて立ち去った。