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高島易断 · 卦ごとの解説
高島易断 · 易経 第 24 卦 地雷復、復:亨る。出入りに疾なし。朋来たりて咎なし。その道に反復し、七日にして来復す。往くところあれば利あり。
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地雷復、復:亨る。出入りに疾なし。朋来たりて咎なし。その道に反復し、七日にして来復す。往くところあれば利あり。
24 地雷復
「復[113]」は、歩く姿を表す彳と、もとの道を再び行く意の復から成る。去ったものが帰り来ること、衰えたものが再び息を吹き返すことを意味する。坤の牝が乾を受け、消え尽きた後に震を生じて余慶をもたらすので、名を復という。卦は上が坤、下が震で、一陽が五陰の下にある。陰が極まると陽が復生し、剥と反対で、姤と旁通する。序卦伝はいう。「物は永遠に尽き果てることはできない。剥は上で極まると下へ返るので、これを受けるに復をもってする」。これが復が剥の次に置かれる理由である。
復:亨る。出入りに疾なし。朋来たりて咎なし。その道に反復し、七日にして来復す。往くところあれば利あり。
▲ 復の甲骨文字
▲ 復の篆書
復の内卦の一画は乾の下画から来たもので、その一陽はすなわち乾である。「亨る」は乾元から来るので「亨る」という。外卦が坤、内卦が震で、震から出て坤へ入る。坤は順、震は動であり、順に従って動くので陰に傷つけられず、「疾なし」となる。同類を「朋」という。震は一陽、兌は二陽で、兌は朋である。一陽が先に至れば、同類の朋が皆来て、陰は妨げられない。ゆえに「咎なし」という。剥では一陽が上にあってほとんど尽き、復では一陽が下に返り生ずるので、「その道に反復す」という。「道」は路の意である。「七日にして来復す」とは、姤が五月の卦で陰気が初めて生じ、復が十一月の卦で陽気が初めて生じることによる。陰陽が往復するのにおよそ七か月を経る。七は陽数なので「七日」という。これは「君子の道が長ずる」機であるから、「往くところあれば利あり」という。
彖伝はいう。「復は亨る。剛が返り、動いて順に行く。これによって出入りに疾なく、朋来たりて咎なし。その道に反復し、七日にして来復すとは、天の運行である。往くところあれば利ありとは、剛が長ずるからである。復とは、天地の心が現れたものではなかろうか」。
「復は亨る」とは、剛健な陽が衰え去ったのちに戻って来ることをいう。復すれば陽は次第に長じ、通達する。「剛返る」とは、剝の時には剛陽がほとんど去って戻らなかったものが、震から出て復することをいう。震は反って生ずる意があるので、「剛返る」という。「動いて順に行く」とは、出入りともに順に従って動くことであり、ゆえに「疾なし」という。自ら動くのも順、朋が来るのも順であるから、「朋来たりて咎なし」という。一たび返り、また一たび復し、その道は循環する。「七日にして来復す」とは、天の運行の自然である。順をもって天を承ければ、戻り始めた剛陽は日に日に進み盛んになるので、進むのがよい。「剛返る」は復の初めをいい、「剛長ず」は復した後をいう。剝と復の消長は、天地の気がひそかに転じることであり、すなわち「天地の心」が発動する端緒である。「天地の心」は本来どこにでもあって、うかがい知ることができない。ただ生の意が初めて現れ出る時に、ようやく「天地の心」を見ることができる。だから「復は、天地の心を見るものではないか」という。「その」「か」という語気が、まるで真にそれを見ようとしているかのような感をいっそう深めている。
この卦を人事に当てはめれば、善悪が絶えたり続いたりする転機である。人はどれほど不善であっても、夜明けには一片の善念がふと芽生えないことはない。芽生えれば復であり、復すれば動く。逆らって動けば、動いてもなお悪に入る。順に従って動けば、悪を出て善に入るので、道はどこまでも通じる。何の病があろうか。人は類に従って集まる。善に入れば善き友が皆集まり、自然に咎はない。人身は小さな天地である。人に賢愚・邪正があるのは、天に雨晴・暑寒があるようなもの、人に生老病死があるのは、天に休咎・災祥があるようなものである。「七日にして来復す」を、十干十二支でいえば七に至って冲となり、建除でいえば七に至って破となる。冲も破も動を意味するので、反復が生じる。人の病の寒熱も、しばしば七日を一つの転換期とする。これらはすべて陰陽・剛柔の移り変わりであり、人と天に二つの道があるわけではない。六爻の辞を見れば、初爻は人が善に移る始めであり、身に返って誠となることをいう。二爻は、人が善へ移り、共に復に帰ろうとする姿である。三爻は、何度も復しては失うが、危うくてもついには善に復する。四爻は、群陰を捨てて初陽に従うこと、すなわち人から善を取り入れる者である。五爻は陰が陽位に居て、ひとり中を得る。よく「土に安んじ仁を篤くする」者である。上爻は卦の終わりに居る。六は七に近く、さらに変わろうとしている。復から出れば凶であり、善に移ろうとする人への深い戒めとなる。易は天道を説くが、人事への戒めは深く切実である。復において天心を見ることができる。復の時には天心が現れるが、復しない時は、すべて人心に覆われる。天心は微妙で、人心は危うい。恐れないでよいだろうか。慎まないでよいだろうか。
この卦を国家に当てはめれば、国家の治乱の転機である。治から乱に入るのは陰の始め、乱を出て治に入るのは陽の復である。古今、治まったり乱れたりするのは、みなこの機による。だから乱は乱そのものから始まるのではなく、治も治そのものから始まるのではない。転機の動きはきわめて微細であり、復の一陽は、まさに陽がかすかに動き始めたものなのである。その動きが順であれば道は亨り、進むのがよい。湯王・武王が天に順じ人に応じ、乱を治めて正に戻し、ひとたび武装して天下を平らげたようなものである。「七日にして来復す、天の行なり」とは、苗を征伐するのに七旬といい、兵を起こすのに七年といった例からも、七日の意義を理解できよう。六爻はいずれも復を指し、陽を進めることを重んじている。陽は治道であり、君子の道である。初爻の「遠からずして復す」は、殷の武丁、周の宣王、漢の光武の中興のようなもの。二爻の「休復」は、太甲の復位、成王の新政のようなもの。三爻の「頻復」は、漢の劉先主が蜀を治めたようなもの。偏安にすぎても、なお咎はなかった。四爻の「独復」は、大舜が身分の低い賢者を明らかに登用し、まことに中を守り、堯に従ってよく治めたようなもの。五爻の「敦復」は、啓が禹を継ぎ、武が文を継いだようなもの。復によって治道を厚くし、その盛大さに至らせたのである。上爻については、戒めなければならない。「迷復」してその凶を知らず、桀・紂以来、国を滅ぼした者は皆これである。易は天道を説くが、治道もまたそこに属する。国家を治める者は、復において治が次第に始まる様子を見、姤において乱の始まりを戒めるべきである。治乱の機は、ただ復と反復の間にある。慎まないでよいだろうか。恐れないでよいだろうか。
この卦を全体から見ると、剝では一陽が上にあるのに対し、復では陽が下に生ずる。雷が地中にひそみ、無の中に有を含むようなものである。万物の始めを与える乾元は、ここでその働きの端を現し、下から元が起こる。万物を生じさせる坤元は、ここでその兆しを示す。天地が万物を生む心は、この時になって初めて生じたのではなく、この時になって初めて見えるようになるのである。順に従って動けば、動いて亨らないものはなく、順に従って進めば、進んで利とならないものはない。柔を出て剛に入るのに、剛に何の病があろうか。自分から朋を求めるのに、朋が来て何の咎があろうか。一たび返り、一たび復し、その道は十日ほどの間にある。六爻はいずれも復の道を辞にしている。初九の「遠からずして復す」は、己に克ち礼に復った顔子のようなもので、賢にして聖を願い、生まれながらに知る者である。六二の「休復」は、初九の剛に親しく下る。直く、誠実で、見聞の広い士、また賢者に親しみ友を選んだ宓子賤のようなもので、学んで知る者である。六三の「頻復」は、日に月に道へ近づいた諸子のようなもので、士でありながら賢者を願う者である。六四の「中行して独り復す」は、周公・孔子の道を喜んだ陳良のようなもので、これも聖人の徒であり、苦しんで学ぶ者である。六五の「敦復」は、身に返った湯・武のようなもので、聖にして天を願う者である。上九の「迷復」は、飛廉・悪来のように、悪を最後まで恃み、悔い改めなかった者であり、苦しんでも学ばない者である。自分一身の禍だけでなく、天下の禍を招くので、「迷復すれば凶。災眚あり、終には大敗あり」という。聖人は六三の「頻復」にはなお「咎なし」といい、ただ上六の「迷復」だけをこのように責めた。その過ちを改めることを重んじ、最後まで悪に固執することを憎むことの切実さは、これほどである。繫辞伝のいう「聖人の情は辞に現れる」とは、まさにこのことではないか。
象伝にいう。雷が地中にあるのが復である。そこで先王は冬至の日には関所を閉じ、商人や旅人を通行させず、君主も各地を巡察しなかった。
この卦は十一月の卦なので、象伝では「至日」を取り上げる。これは雷が地中に潜み隠れる時である。先王はこの象を見て、「至日には関を閉じる」とし、門を開かず、商人や旅人を通行させなかった。その日、君主もまた「各地を巡察しなかった」。まさにこれから来る陽気を養うためであり、少しも漏らすことを恐れ、ひたすら安静を努めた。それによってその貞正を保ったのである。月令の仲冬には、門や里の入り口を調べ、部屋を慎重にし、必ず幾重にも閉じるとある。これを推し広げれば、「関を閉じる」に含まれる諸々の象が理解できる。「関を閉じる」は坤の戸を閉じる意を取り、「商旅」は坤の衆民を取り、「行」は震の大路を取り、「方」は坤の国土を取る。
【占い】
○ 時運を占う:幸運が初めて訪れたばかりで、まだ動き出していない。静かに待てば、自然に吉を得る。
○ 商売を占う:商品は整い、相場も動き始めている。しばらく販売を止めておけば、必ず利益を得る。
○ 家宅を占う:この家は今は閉じて休んでいる。春を待ってから転居すべきである。吉。
○ 戦争を占う:敵軍が地中に地雷を埋めて伏兵を置くことに注意せよ。しばらく戦いを止め、兵力を養うべきである。吉。
○ 病気を占う:痰火の病で、食事が喉を通らない。冬に入る時期には用心すべきである。
○ 訴訟を占う:当分は決着しない。
○ 出産を占う:男児が生まれ、春分の頃に出産する。
○ 婚姻を占う:今はまだ仲人が話を通していないが、春の初めにはまとまる。吉。
○ 旅人を占う:冬の間は帰らず、春になって帰って来る。
○ 失物を占う:しばらくは見つけにくいが、後日見つかる。
「復[113]」は、歩く姿を表す彳と、もとの道を再び行く意の復から成る。去ったものが帰り来ること、衰えたものが再び息を吹き返すことを意味する。坤の牝が乾を受け、消え尽きた後に震を生じて余慶をもたらすので、名を復という。卦は上が坤、下が震で、一陽が五陰の下にある。陰が極まると陽が復生し、剥と反対で、姤と旁通する。序卦伝はいう。「物は永遠に尽き果てることはできない。剥は上で極まると下へ返るので、これを受けるに復をもってする」。これが復が剥の次に置かれる理由である。
復:亨る。出入りに疾なし。朋来たりて咎なし。その道に反復し、七日にして来復す。往くところあれば利あり。
▲ 復の甲骨文字
▲ 復の篆書
復の内卦の一画は乾の下画から来たもので、その一陽はすなわち乾である。「亨る」は乾元から来るので「亨る」という。外卦が坤、内卦が震で、震から出て坤へ入る。坤は順、震は動であり、順に従って動くので陰に傷つけられず、「疾なし」となる。同類を「朋」という。震は一陽、兌は二陽で、兌は朋である。一陽が先に至れば、同類の朋が皆来て、陰は妨げられない。ゆえに「咎なし」という。剥では一陽が上にあってほとんど尽き、復では一陽が下に返り生ずるので、「その道に反復す」という。「道」は路の意である。「七日にして来復す」とは、姤が五月の卦で陰気が初めて生じ、復が十一月の卦で陽気が初めて生じることによる。陰陽が往復するのにおよそ七か月を経る。七は陽数なので「七日」という。これは「君子の道が長ずる」機であるから、「往くところあれば利あり」という。
彖伝はいう。「復は亨る。剛が返り、動いて順に行く。これによって出入りに疾なく、朋来たりて咎なし。その道に反復し、七日にして来復すとは、天の運行である。往くところあれば利ありとは、剛が長ずるからである。復とは、天地の心が現れたものではなかろうか」。
「復は亨る」とは、剛健な陽が衰え去ったのちに戻って来ることをいう。復すれば陽は次第に長じ、通達する。「剛返る」とは、剝の時には剛陽がほとんど去って戻らなかったものが、震から出て復することをいう。震は反って生ずる意があるので、「剛返る」という。「動いて順に行く」とは、出入りともに順に従って動くことであり、ゆえに「疾なし」という。自ら動くのも順、朋が来るのも順であるから、「朋来たりて咎なし」という。一たび返り、また一たび復し、その道は循環する。「七日にして来復す」とは、天の運行の自然である。順をもって天を承ければ、戻り始めた剛陽は日に日に進み盛んになるので、進むのがよい。「剛返る」は復の初めをいい、「剛長ず」は復した後をいう。剝と復の消長は、天地の気がひそかに転じることであり、すなわち「天地の心」が発動する端緒である。「天地の心」は本来どこにでもあって、うかがい知ることができない。ただ生の意が初めて現れ出る時に、ようやく「天地の心」を見ることができる。だから「復は、天地の心を見るものではないか」という。「その」「か」という語気が、まるで真にそれを見ようとしているかのような感をいっそう深めている。
この卦を人事に当てはめれば、善悪が絶えたり続いたりする転機である。人はどれほど不善であっても、夜明けには一片の善念がふと芽生えないことはない。芽生えれば復であり、復すれば動く。逆らって動けば、動いてもなお悪に入る。順に従って動けば、悪を出て善に入るので、道はどこまでも通じる。何の病があろうか。人は類に従って集まる。善に入れば善き友が皆集まり、自然に咎はない。人身は小さな天地である。人に賢愚・邪正があるのは、天に雨晴・暑寒があるようなもの、人に生老病死があるのは、天に休咎・災祥があるようなものである。「七日にして来復す」を、十干十二支でいえば七に至って冲となり、建除でいえば七に至って破となる。冲も破も動を意味するので、反復が生じる。人の病の寒熱も、しばしば七日を一つの転換期とする。これらはすべて陰陽・剛柔の移り変わりであり、人と天に二つの道があるわけではない。六爻の辞を見れば、初爻は人が善に移る始めであり、身に返って誠となることをいう。二爻は、人が善へ移り、共に復に帰ろうとする姿である。三爻は、何度も復しては失うが、危うくてもついには善に復する。四爻は、群陰を捨てて初陽に従うこと、すなわち人から善を取り入れる者である。五爻は陰が陽位に居て、ひとり中を得る。よく「土に安んじ仁を篤くする」者である。上爻は卦の終わりに居る。六は七に近く、さらに変わろうとしている。復から出れば凶であり、善に移ろうとする人への深い戒めとなる。易は天道を説くが、人事への戒めは深く切実である。復において天心を見ることができる。復の時には天心が現れるが、復しない時は、すべて人心に覆われる。天心は微妙で、人心は危うい。恐れないでよいだろうか。慎まないでよいだろうか。
この卦を国家に当てはめれば、国家の治乱の転機である。治から乱に入るのは陰の始め、乱を出て治に入るのは陽の復である。古今、治まったり乱れたりするのは、みなこの機による。だから乱は乱そのものから始まるのではなく、治も治そのものから始まるのではない。転機の動きはきわめて微細であり、復の一陽は、まさに陽がかすかに動き始めたものなのである。その動きが順であれば道は亨り、進むのがよい。湯王・武王が天に順じ人に応じ、乱を治めて正に戻し、ひとたび武装して天下を平らげたようなものである。「七日にして来復す、天の行なり」とは、苗を征伐するのに七旬といい、兵を起こすのに七年といった例からも、七日の意義を理解できよう。六爻はいずれも復を指し、陽を進めることを重んじている。陽は治道であり、君子の道である。初爻の「遠からずして復す」は、殷の武丁、周の宣王、漢の光武の中興のようなもの。二爻の「休復」は、太甲の復位、成王の新政のようなもの。三爻の「頻復」は、漢の劉先主が蜀を治めたようなもの。偏安にすぎても、なお咎はなかった。四爻の「独復」は、大舜が身分の低い賢者を明らかに登用し、まことに中を守り、堯に従ってよく治めたようなもの。五爻の「敦復」は、啓が禹を継ぎ、武が文を継いだようなもの。復によって治道を厚くし、その盛大さに至らせたのである。上爻については、戒めなければならない。「迷復」してその凶を知らず、桀・紂以来、国を滅ぼした者は皆これである。易は天道を説くが、治道もまたそこに属する。国家を治める者は、復において治が次第に始まる様子を見、姤において乱の始まりを戒めるべきである。治乱の機は、ただ復と反復の間にある。慎まないでよいだろうか。恐れないでよいだろうか。
この卦を全体から見ると、剝では一陽が上にあるのに対し、復では陽が下に生ずる。雷が地中にひそみ、無の中に有を含むようなものである。万物の始めを与える乾元は、ここでその働きの端を現し、下から元が起こる。万物を生じさせる坤元は、ここでその兆しを示す。天地が万物を生む心は、この時になって初めて生じたのではなく、この時になって初めて見えるようになるのである。順に従って動けば、動いて亨らないものはなく、順に従って進めば、進んで利とならないものはない。柔を出て剛に入るのに、剛に何の病があろうか。自分から朋を求めるのに、朋が来て何の咎があろうか。一たび返り、一たび復し、その道は十日ほどの間にある。六爻はいずれも復の道を辞にしている。初九の「遠からずして復す」は、己に克ち礼に復った顔子のようなもので、賢にして聖を願い、生まれながらに知る者である。六二の「休復」は、初九の剛に親しく下る。直く、誠実で、見聞の広い士、また賢者に親しみ友を選んだ宓子賤のようなもので、学んで知る者である。六三の「頻復」は、日に月に道へ近づいた諸子のようなもので、士でありながら賢者を願う者である。六四の「中行して独り復す」は、周公・孔子の道を喜んだ陳良のようなもので、これも聖人の徒であり、苦しんで学ぶ者である。六五の「敦復」は、身に返った湯・武のようなもので、聖にして天を願う者である。上九の「迷復」は、飛廉・悪来のように、悪を最後まで恃み、悔い改めなかった者であり、苦しんでも学ばない者である。自分一身の禍だけでなく、天下の禍を招くので、「迷復すれば凶。災眚あり、終には大敗あり」という。聖人は六三の「頻復」にはなお「咎なし」といい、ただ上六の「迷復」だけをこのように責めた。その過ちを改めることを重んじ、最後まで悪に固執することを憎むことの切実さは、これほどである。繫辞伝のいう「聖人の情は辞に現れる」とは、まさにこのことではないか。
象伝にいう。雷が地中にあるのが復である。そこで先王は冬至の日には関所を閉じ、商人や旅人を通行させず、君主も各地を巡察しなかった。
この卦は十一月の卦なので、象伝では「至日」を取り上げる。これは雷が地中に潜み隠れる時である。先王はこの象を見て、「至日には関を閉じる」とし、門を開かず、商人や旅人を通行させなかった。その日、君主もまた「各地を巡察しなかった」。まさにこれから来る陽気を養うためであり、少しも漏らすことを恐れ、ひたすら安静を努めた。それによってその貞正を保ったのである。月令の仲冬には、門や里の入り口を調べ、部屋を慎重にし、必ず幾重にも閉じるとある。これを推し広げれば、「関を閉じる」に含まれる諸々の象が理解できる。「関を閉じる」は坤の戸を閉じる意を取り、「商旅」は坤の衆民を取り、「行」は震の大路を取り、「方」は坤の国土を取る。
【占い】
○ 時運を占う:幸運が初めて訪れたばかりで、まだ動き出していない。静かに待てば、自然に吉を得る。
○ 商売を占う:商品は整い、相場も動き始めている。しばらく販売を止めておけば、必ず利益を得る。
○ 家宅を占う:この家は今は閉じて休んでいる。春を待ってから転居すべきである。吉。
○ 戦争を占う:敵軍が地中に地雷を埋めて伏兵を置くことに注意せよ。しばらく戦いを止め、兵力を養うべきである。吉。
○ 病気を占う:痰火の病で、食事が喉を通らない。冬に入る時期には用心すべきである。
○ 訴訟を占う:当分は決着しない。
○ 出産を占う:男児が生まれ、春分の頃に出産する。
○ 婚姻を占う:今はまだ仲人が話を通していないが、春の初めにはまとまる。吉。
○ 旅人を占う:冬の間は帰らず、春になって帰って来る。
○ 失物を占う:しばらくは見つけにくいが、後日見つかる。
初九:遠からずして復す。大いなる悔いなく、元吉。
初九:遠からずして復す。悔い[114]なく、元吉。
象伝にいう。遠からずして復すとは、身を修めることである。
この卦の初九は、乾の陽が来て坤の群陰の中に入り、突然その本位に復したものである。これを復と名づける。卦の復は造化についていい、爻の復は人心についていう。この爻は復の初めであり、復の道の始まりである。七日にして復すので「遠からず」といい、そのため悔いに至らず「元吉」を得る。「元吉」とは、乾に復る吉である。「祗」は至るという意味である。人は聖賢であっても過ちを免れない。ただ、速やかに改めることが尊い。過ちを犯して改めなければ、悔いと凶に至ることは明らかである。象伝が「身を修める」といっているのは、修めることによって欠けたところを補い、誤りを正すからである。これを占って理解した者は、人欲を日ごとに減らし、天理を日ごとに明らかにし、聖となり賢となることができる。「身を修める」という二字は深遠な意味を含むので、決して軽く見てはならない。なぜか。六二の伝は仁を説いてこれを称え、六四の伝は道を説いてこれを讃える。「身を修める」には仁と道の両方が含まれ、その関わるところは極めて大きい。心は内、身は外にある。存養という面では心にあり、修めるという面では身にある。身と心は一つである。
【占い】
○ 時運を占う:幸運がまもなく来て、次第に動き始める。何事も順調で、大吉。
○ 商売を占う:以前に失ったものを取り戻せ、後悔を免れる。大吉。
○ 家宅を占う:旧業の復興が、もう目の前にある。大吉。
○ 戦争を占う:今日にも敗を転じて成にすることができる。大吉。
○ 訴訟を占う:最初の審理は正しくないが、再度訴えれば必ず勝つ。大吉。
○ 婚姻を占う:いったん別れても、再びまとまる。大吉。
○ 旅人を占う:ほどなく帰って来る。吉。
○ 病気を占う:静養すれば回復する。元吉。
○ 出産を占う:今日、男児が生まれる。
○ 失物を占う:今日見つかる。
【例】私は馬車を引く馬を買おうと思っていた。ちょうど児玉少介君に会うと、君はこう言った。「私は昨年、南部で良馬を求めたが、その後音信がなかったので、別に一頭買った。ところが先ごろ南部の馬が届いたものの、厩が狭くて入らない。あなたが買ってくれないか」。そこで私はその馬が良いかどうかを占い、復が坤に変わる卦を得た。
判断していう。この馬は長途には向かず、朝出て夕方帰る使い方が適している。爻に「遠からずして復す。悔いなく、元吉」とあるので、それが分かる。初爻が変ずれば坤となり、坤には「牝馬の貞に利あり」とある。これによって、この馬は必ず雌で、荒々しく逸走する心配がないことが分かる。後にその馬を買ったところ、果たして占いのとおりで、性質は柔順であり、馬車を引くのに最も適していた。
象伝にいう。遠からずして復すとは、身を修めることである。
この卦の初九は、乾の陽が来て坤の群陰の中に入り、突然その本位に復したものである。これを復と名づける。卦の復は造化についていい、爻の復は人心についていう。この爻は復の初めであり、復の道の始まりである。七日にして復すので「遠からず」といい、そのため悔いに至らず「元吉」を得る。「元吉」とは、乾に復る吉である。「祗」は至るという意味である。人は聖賢であっても過ちを免れない。ただ、速やかに改めることが尊い。過ちを犯して改めなければ、悔いと凶に至ることは明らかである。象伝が「身を修める」といっているのは、修めることによって欠けたところを補い、誤りを正すからである。これを占って理解した者は、人欲を日ごとに減らし、天理を日ごとに明らかにし、聖となり賢となることができる。「身を修める」という二字は深遠な意味を含むので、決して軽く見てはならない。なぜか。六二の伝は仁を説いてこれを称え、六四の伝は道を説いてこれを讃える。「身を修める」には仁と道の両方が含まれ、その関わるところは極めて大きい。心は内、身は外にある。存養という面では心にあり、修めるという面では身にある。身と心は一つである。
【占い】
○ 時運を占う:幸運がまもなく来て、次第に動き始める。何事も順調で、大吉。
○ 商売を占う:以前に失ったものを取り戻せ、後悔を免れる。大吉。
○ 家宅を占う:旧業の復興が、もう目の前にある。大吉。
○ 戦争を占う:今日にも敗を転じて成にすることができる。大吉。
○ 訴訟を占う:最初の審理は正しくないが、再度訴えれば必ず勝つ。大吉。
○ 婚姻を占う:いったん別れても、再びまとまる。大吉。
○ 旅人を占う:ほどなく帰って来る。吉。
○ 病気を占う:静養すれば回復する。元吉。
○ 出産を占う:今日、男児が生まれる。
○ 失物を占う:今日見つかる。
【例】私は馬車を引く馬を買おうと思っていた。ちょうど児玉少介君に会うと、君はこう言った。「私は昨年、南部で良馬を求めたが、その後音信がなかったので、別に一頭買った。ところが先ごろ南部の馬が届いたものの、厩が狭くて入らない。あなたが買ってくれないか」。そこで私はその馬が良いかどうかを占い、復が坤に変わる卦を得た。
判断していう。この馬は長途には向かず、朝出て夕方帰る使い方が適している。爻に「遠からずして復す。悔いなく、元吉」とあるので、それが分かる。初爻が変ずれば坤となり、坤には「牝馬の貞に利あり」とある。これによって、この馬は必ず雌で、荒々しく逸走する心配がないことが分かる。後にその馬を買ったところ、果たして占いのとおりで、性質は柔順であり、馬車を引くのに最も適していた。
六二:休復。吉。
六二:休復。吉。
象伝にいう。「休復」の吉は、下にある仁に従うことによる。
この爻は陰で陰位に居り、中正を得ている。初九と近く、志は陽に従う。初九が道に復ることを嘉し、自ら進んで己を下げ、その仁を友とする。互いに切磋琢磨するうちに、悪念はひそかに消え、善心は日に日に生ずる。ゆえに「休復、吉」という。初爻は乾の陽の正を得て、復の道の始まりを開くので「元吉」という。六二は人から善を取り、自ら穏やかに考えを改める。その功は初爻に次ぐので「吉」とだけいう。象伝が「下にある仁に従う」というのは、初爻が仁に復し、二爻がこれに近づいて下るからである。易の三百八十四爻の中で、仁という語を明らかに述べるのはこの爻だけである。「復において天地の心を見る」といわれる天地の心は、すなわち仁である。仁とは、元来の善という原理である。
【占い】
○ 時運を占う:目下の運気もよい。何事にも善を選んで従うことができるので、すべて吉となる。
○ 商売を占う:人と利益を分かち合うことができれば、事業は必ず栄える。吉。
○ 家宅を占う:家庭には休祥のしるしが多く、自ずから旧業を復興できる。吉。
○ 戦争を占う:しばらく攻撃を休み、いったん弱く見せて鋭気を養うべきである。吉。
○ 病気を占う:最初に診た医師に治療してもらい、再び診察を受けるのがよい。吉。
○ 旅人を占う:必ず年長者とともに帰って来る。
○ 妊娠について問う。女児が生まれる。
○ 失物を占う:低い所を探すとよい。
【例】明治二十四年の春、某裁判所長と検事長が私の山荘を訪れ、ある貴顕が辞表を提出した後の動静を占ってほしいと頼んだ。筮して復が臨に変わる卦を得た。
判断していう。雷は春夏には地上へ昇り出るが、秋冬には地中に潜む。この卦は雷が再び地中に復し、やがてまた出ようとしている象である。したがって、某貴顕は今日こそ悠々と閑居しているが、復職は遠くないと分かる。
二人は私があまりに軽々しく断じたので驚き、「易がこのように簡単なら、天下のことはすべて易に問えるではないか」と言った。私は答えた。「その通りである。易の包み含むところはきわめて広く、天下の事物で具わらないものは一つもない。その変化は神妙で測ることができないので、占えない事も物もない。占えば過去・現在・未来が皆明らかに示され、その応じ方はこだまのように正確である。まして、あなた方が扱う双方の争いでは、奸計や欺きが隠され、非を隠して是とし、真を誣いて偽とするため、裁くのが容易でない場合が多い。それも占えば奸計が露わになる。いわゆる『人に問うより、神に問う方がよい』ということだ。そうでなければ、あなた方が法律だけを根拠とし、口述だけに頼って、どうして一つ一つ冤罪なく裁けようか。古人は『卜は疑いを決するために用いる』といったが、これがその意味である。某貴顕の辞職については、世論が騒然としていた。私は一度蓍を繰り、神は地下に雷がある象を示した。二爻の辞は『休復』という。そこで、しばらく職を休むだけで、後日必ず復職すると明らかに分かったのである。象伝にも『休復の吉は、下にある仁に従うことによる』とある。このことからも明らかである。」
二人はすっかり感服して去った。その後、某貴顕は果たして復職し、二人は私の判断が決して誤りでなかったことに感服した。
象伝にいう。「休復」の吉は、下にある仁に従うことによる。
この爻は陰で陰位に居り、中正を得ている。初九と近く、志は陽に従う。初九が道に復ることを嘉し、自ら進んで己を下げ、その仁を友とする。互いに切磋琢磨するうちに、悪念はひそかに消え、善心は日に日に生ずる。ゆえに「休復、吉」という。初爻は乾の陽の正を得て、復の道の始まりを開くので「元吉」という。六二は人から善を取り、自ら穏やかに考えを改める。その功は初爻に次ぐので「吉」とだけいう。象伝が「下にある仁に従う」というのは、初爻が仁に復し、二爻がこれに近づいて下るからである。易の三百八十四爻の中で、仁という語を明らかに述べるのはこの爻だけである。「復において天地の心を見る」といわれる天地の心は、すなわち仁である。仁とは、元来の善という原理である。
【占い】
○ 時運を占う:目下の運気もよい。何事にも善を選んで従うことができるので、すべて吉となる。
○ 商売を占う:人と利益を分かち合うことができれば、事業は必ず栄える。吉。
○ 家宅を占う:家庭には休祥のしるしが多く、自ずから旧業を復興できる。吉。
○ 戦争を占う:しばらく攻撃を休み、いったん弱く見せて鋭気を養うべきである。吉。
○ 病気を占う:最初に診た医師に治療してもらい、再び診察を受けるのがよい。吉。
○ 旅人を占う:必ず年長者とともに帰って来る。
○ 妊娠について問う。女児が生まれる。
○ 失物を占う:低い所を探すとよい。
【例】明治二十四年の春、某裁判所長と検事長が私の山荘を訪れ、ある貴顕が辞表を提出した後の動静を占ってほしいと頼んだ。筮して復が臨に変わる卦を得た。
判断していう。雷は春夏には地上へ昇り出るが、秋冬には地中に潜む。この卦は雷が再び地中に復し、やがてまた出ようとしている象である。したがって、某貴顕は今日こそ悠々と閑居しているが、復職は遠くないと分かる。
二人は私があまりに軽々しく断じたので驚き、「易がこのように簡単なら、天下のことはすべて易に問えるではないか」と言った。私は答えた。「その通りである。易の包み含むところはきわめて広く、天下の事物で具わらないものは一つもない。その変化は神妙で測ることができないので、占えない事も物もない。占えば過去・現在・未来が皆明らかに示され、その応じ方はこだまのように正確である。まして、あなた方が扱う双方の争いでは、奸計や欺きが隠され、非を隠して是とし、真を誣いて偽とするため、裁くのが容易でない場合が多い。それも占えば奸計が露わになる。いわゆる『人に問うより、神に問う方がよい』ということだ。そうでなければ、あなた方が法律だけを根拠とし、口述だけに頼って、どうして一つ一つ冤罪なく裁けようか。古人は『卜は疑いを決するために用いる』といったが、これがその意味である。某貴顕の辞職については、世論が騒然としていた。私は一度蓍を繰り、神は地下に雷がある象を示した。二爻の辞は『休復』という。そこで、しばらく職を休むだけで、後日必ず復職すると明らかに分かったのである。象伝にも『休復の吉は、下にある仁に従うことによる』とある。このことからも明らかである。」
二人はすっかり感服して去った。その後、某貴顕は果たして復職し、二人は私の判断が決して誤りでなかったことに感服した。
六三:頻復。厲。咎なし。
六三:頻復。厲。咎なし。
象伝にいう。「頻復」の危うさは、道理からいえば咎がない。
三爻は中正の位を得ていない。志は剛だが、性質は柔である。性質が柔なら事を見ても明らかに判断できず、志が剛なら狂躁して妄りに動く。そのため、何度も復り、何度も失うので「厲」という。しかし、何度も失っても何度も復るから、ついには「咎なし」となり得る。身を失い行いを損なう恐れはあっても、長く驕り非を押し通す過ちはない。だから「頻復す、厲し、咎なし」という。周公の繋辞は、度重なる過ちの罪を隠し、「頻復す」る善を称えている。孔子はこれを「義において咎なし」と解した。これは人に過ちを改め善へ移る道を開くものである。なんと深い意味であろう。
【占い】
○ 時運を問う:良い時と悪い時が交互に来て、時に得、時に失う。得たものを守って失わないでいられるかは、その人次第である。
○ 商業を問う:損もあれば利益もある。利益を多くし損失を少なくできれば、損をしても再び利益を得られる。
○ 家宅を問う:転居して定まらない象がある。
○ 病を問う:治してもまた発することを繰り返す。危険ではあるが、害を免れることはできる。
○ 訴訟を問う:供述を何度も翻し、そのため危険な事態に至る象がある。
○ 旅人を問う:帰還の意志はまだ定まっていない。
○ 妊娠を問う:男児が生まれる。やや難産にかかわるが、害はない。
○ 失物を問う:一度だけ失ったのではないが、探し出せるはずである。
【例】ある商人が来て運勢を占ってほしいと頼み、『復』が『明夷』に変じる卦を得た。爻辞にいう。「六三。頻復す、厲し、咎なし」。
断にいう。『復』は雷が地中に潜む象で、陽気が帰り来る時である。人事においては、迷いの状態にありながら悔悟して本来に立ち返る象を示す。三爻は中正を得ず、辞は「頻復す、厲し、咎なし」と言う。これは、何度も興り、何度も敗れ、苦労しても功のないことをいう。破産にまで至らないのは、時に応じて省み、失うたびに改めるからであり、ゆえに「咎なし」なのである。運の盛衰は天数によるもので免れがたい。盛運の時は、流れに舟を浮かべ順風に帆を上げるように、労せず功を得る。衰運の時は、逆風に舟を浮かべ上流へ遡るようなもので、苦労しても功がないばかりか、傷つかずに済む者はほとんどいない。占う者はこの弊に陥ることを恐れ、運の盛衰に特に注意すべきである。明後年になれば、運はようやく回復する。
商人はこれを聞いて感慨深く言った。「まったくこの占いの通りです。これまで何度も失敗してきましたが、今これを聞いて初めて、自分の誤りに気づきました。慎んで本業を守り、時運を待つことにします。」
象伝にいう。「頻復」の危うさは、道理からいえば咎がない。
三爻は中正の位を得ていない。志は剛だが、性質は柔である。性質が柔なら事を見ても明らかに判断できず、志が剛なら狂躁して妄りに動く。そのため、何度も復り、何度も失うので「厲」という。しかし、何度も失っても何度も復るから、ついには「咎なし」となり得る。身を失い行いを損なう恐れはあっても、長く驕り非を押し通す過ちはない。だから「頻復す、厲し、咎なし」という。周公の繋辞は、度重なる過ちの罪を隠し、「頻復す」る善を称えている。孔子はこれを「義において咎なし」と解した。これは人に過ちを改め善へ移る道を開くものである。なんと深い意味であろう。
【占い】
○ 時運を問う:良い時と悪い時が交互に来て、時に得、時に失う。得たものを守って失わないでいられるかは、その人次第である。
○ 商業を問う:損もあれば利益もある。利益を多くし損失を少なくできれば、損をしても再び利益を得られる。
○ 家宅を問う:転居して定まらない象がある。
○ 病を問う:治してもまた発することを繰り返す。危険ではあるが、害を免れることはできる。
○ 訴訟を問う:供述を何度も翻し、そのため危険な事態に至る象がある。
○ 旅人を問う:帰還の意志はまだ定まっていない。
○ 妊娠を問う:男児が生まれる。やや難産にかかわるが、害はない。
○ 失物を問う:一度だけ失ったのではないが、探し出せるはずである。
【例】ある商人が来て運勢を占ってほしいと頼み、『復』が『明夷』に変じる卦を得た。爻辞にいう。「六三。頻復す、厲し、咎なし」。
断にいう。『復』は雷が地中に潜む象で、陽気が帰り来る時である。人事においては、迷いの状態にありながら悔悟して本来に立ち返る象を示す。三爻は中正を得ず、辞は「頻復す、厲し、咎なし」と言う。これは、何度も興り、何度も敗れ、苦労しても功のないことをいう。破産にまで至らないのは、時に応じて省み、失うたびに改めるからであり、ゆえに「咎なし」なのである。運の盛衰は天数によるもので免れがたい。盛運の時は、流れに舟を浮かべ順風に帆を上げるように、労せず功を得る。衰運の時は、逆風に舟を浮かべ上流へ遡るようなもので、苦労しても功がないばかりか、傷つかずに済む者はほとんどいない。占う者はこの弊に陥ることを恐れ、運の盛衰に特に注意すべきである。明後年になれば、運はようやく回復する。
商人はこれを聞いて感慨深く言った。「まったくこの占いの通りです。これまで何度も失敗してきましたが、今これを聞いて初めて、自分の誤りに気づきました。慎んで本業を守り、時運を待つことにします。」
六四。中行、独り復る。
六四。中行、独り復る。
象伝にいう。「中行、独り復る」とは、道に従うことである。
この爻は五つの陰爻が並ぶ中央にあり、卦の主である初爻に独り応じている。ゆえに群陰の中から抜きんで、仁者に依り従うことができる。心に善を好むことを知り、俗習に動かされず、道に復ることができる者である。だから「中行、独り復る」という。これは「中庸を選び、一つの善を得れば、しっかり胸に抱いて失わない」という意味である。ただし、その復りはなお微かなものなので、吉とは言わない。象伝の「道に従う」とは、初爻が道に復り、四爻がそれに従うことをいう。ゆえに「道に従う」とある。
【占い】
○ 時運を問う:運気は弱く、振興しようという意欲はあるが、惜しいことに力が及ばない。
○ 商業を問う:計画は適切で正道を失っていないが、資本がまだ十分でないのが惜しい。
○ 家宅を問う:女の身内が多く、男手が少ない。「独り寐ね独り寤め、歌う」という嘆きは免れない。
○ 戦争を問う:途中で伏兵を設けられることに警戒せよ。
○ 病を問う:虚弱の病である。初めに治療した医師に従って調治するのがよい。
○ 旅人を問う:途中まで来て引き返し、連れを得て再び帰る。
○ 縁談を問う:以前の仲人に従うのがよい。
○ 失物を問う:道の途中を探すとよい。
【例】明治二十二年六月、友人某が来て言った。「ある人が私の土地を相当の値段で買いたいと言い、手付金として幾らか受け取る約束をしました。以前にもこの土地を買いたいという人がいましたが、私はまだ契約を確定していませんでした。今また別の人が訪ねて来て、前の買い手より高い値段を提示しました。そこで私は、先に約束した人に違約金を払い、契約を解いてもらおうと思いますが、果たして承知してくれるか分かりません。どうか一占をお願いします。」占って『復』が『震』に変じた。
断にいう。『復』は一陽が帰り来る卦で、万事が旧に復する象である。したがってこの卦を得れば、旅に出て音信のない者が突然帰宅し、貸した金が滞っている者も忽ち戻り、放蕩遊惰な者も本心に復る。これらはいずれも『復』の象である。ならば、あなたがすでに約束した土地も何の障害もなく、必ず手元に戻ると分かる。後に果たしてこの占いの通りになった。
象伝にいう。「中行、独り復る」とは、道に従うことである。
この爻は五つの陰爻が並ぶ中央にあり、卦の主である初爻に独り応じている。ゆえに群陰の中から抜きんで、仁者に依り従うことができる。心に善を好むことを知り、俗習に動かされず、道に復ることができる者である。だから「中行、独り復る」という。これは「中庸を選び、一つの善を得れば、しっかり胸に抱いて失わない」という意味である。ただし、その復りはなお微かなものなので、吉とは言わない。象伝の「道に従う」とは、初爻が道に復り、四爻がそれに従うことをいう。ゆえに「道に従う」とある。
【占い】
○ 時運を問う:運気は弱く、振興しようという意欲はあるが、惜しいことに力が及ばない。
○ 商業を問う:計画は適切で正道を失っていないが、資本がまだ十分でないのが惜しい。
○ 家宅を問う:女の身内が多く、男手が少ない。「独り寐ね独り寤め、歌う」という嘆きは免れない。
○ 戦争を問う:途中で伏兵を設けられることに警戒せよ。
○ 病を問う:虚弱の病である。初めに治療した医師に従って調治するのがよい。
○ 旅人を問う:途中まで来て引き返し、連れを得て再び帰る。
○ 縁談を問う:以前の仲人に従うのがよい。
○ 失物を問う:道の途中を探すとよい。
【例】明治二十二年六月、友人某が来て言った。「ある人が私の土地を相当の値段で買いたいと言い、手付金として幾らか受け取る約束をしました。以前にもこの土地を買いたいという人がいましたが、私はまだ契約を確定していませんでした。今また別の人が訪ねて来て、前の買い手より高い値段を提示しました。そこで私は、先に約束した人に違約金を払い、契約を解いてもらおうと思いますが、果たして承知してくれるか分かりません。どうか一占をお願いします。」占って『復』が『震』に変じた。
断にいう。『復』は一陽が帰り来る卦で、万事が旧に復する象である。したがってこの卦を得れば、旅に出て音信のない者が突然帰宅し、貸した金が滞っている者も忽ち戻り、放蕩遊惰な者も本心に復る。これらはいずれも『復』の象である。ならば、あなたがすでに約束した土地も何の障害もなく、必ず手元に戻ると分かる。後に果たしてこの占いの通りになった。
六五。敦く復る。悔いなし。
六五。敦く復る。悔いなし。
象伝にいう。「敦く復りて悔いなし」とは、中道によって自らを考察することである。
五爻は柔中の徳を備え、君位という尊い位置にいる。位が中を得ているので「復る」ことができ、また坤は厚きを表すので「敦」と言う。自分の非を知れば、善へ移ることを恐れない。すでに復ったうえ、さらにその復りを敦厚にする。これは知の明らかさと力の篤実さであり、ひとたび得た善を失わないということだ。どうして悔いがあろう。ゆえに「敦く復る、悔いなし」という。象伝の「中をもって自ら考う」とは、初爻の復りは近く、悔いを免れ得るが、五爻の復りは厚きところへ復るもので、悔いがあるかないかはまだ分からないため、この時に立ち返って「自らを考察せよ」という意味である。初爻の「遠からずして復る」は徳に入ること、五爻の「敦く復る」は徳を成すことに当たる。
【占い】
○ 時運を問う:目下、運気は正しい方向にある。何事も厚く行えば、前功があり、後悔はない。
○ 商業を問う:資金は十分で、往復取引によって利益を得る。
○ 家宅を問う:祖先からの基盤は厚く、旧業も再び栄える。吉。
○ 戦争を問う:軍力は厚実で、城池を攻め取って奪回できる。
○ 病を問う:病人は精気が充実し、体つきも豊かである。心配はない。
○ 妊娠:男児が生まれる。
○ 失物を問う:自分でよく推し量るのがよい。
【例】某局長が来て運勢を占ってほしいと頼み、『復』が『屯』に変じる卦を得た。
断にいう。『復』は雷が地中にある象であり、動が極まって静に復るので『復』という。今五爻を得た。身を修め道に復る者について、復ってもやまず、さらに復るので「敦復」という。その復り方は、自らを責めることを厚くし、人を責めることを薄くするとも言える。この人は多くの人を率いて監督し、人々の心服を得ている。どうして悔いがあろう。時運はこれで分かる。
象伝にいう。「敦く復りて悔いなし」とは、中道によって自らを考察することである。
五爻は柔中の徳を備え、君位という尊い位置にいる。位が中を得ているので「復る」ことができ、また坤は厚きを表すので「敦」と言う。自分の非を知れば、善へ移ることを恐れない。すでに復ったうえ、さらにその復りを敦厚にする。これは知の明らかさと力の篤実さであり、ひとたび得た善を失わないということだ。どうして悔いがあろう。ゆえに「敦く復る、悔いなし」という。象伝の「中をもって自ら考う」とは、初爻の復りは近く、悔いを免れ得るが、五爻の復りは厚きところへ復るもので、悔いがあるかないかはまだ分からないため、この時に立ち返って「自らを考察せよ」という意味である。初爻の「遠からずして復る」は徳に入ること、五爻の「敦く復る」は徳を成すことに当たる。
【占い】
○ 時運を問う:目下、運気は正しい方向にある。何事も厚く行えば、前功があり、後悔はない。
○ 商業を問う:資金は十分で、往復取引によって利益を得る。
○ 家宅を問う:祖先からの基盤は厚く、旧業も再び栄える。吉。
○ 戦争を問う:軍力は厚実で、城池を攻め取って奪回できる。
○ 病を問う:病人は精気が充実し、体つきも豊かである。心配はない。
○ 妊娠:男児が生まれる。
○ 失物を問う:自分でよく推し量るのがよい。
【例】某局長が来て運勢を占ってほしいと頼み、『復』が『屯』に変じる卦を得た。
断にいう。『復』は雷が地中にある象であり、動が極まって静に復るので『復』という。今五爻を得た。身を修め道に復る者について、復ってもやまず、さらに復るので「敦復」という。その復り方は、自らを責めることを厚くし、人を責めることを薄くするとも言える。この人は多くの人を率いて監督し、人々の心服を得ている。どうして悔いがあろう。時運はこれで分かる。
上六。復に迷う。凶。災眚あり。用いて師を行けば、終に大敗す。その国君に凶なり。十年に至るまで征すること克わず。
上六。復に迷う。凶。災眚あり。用いて師を行けば、終に大敗す。その国君に凶なり。十年に至るまで征すること克わず。
象伝にいう。「復に迷う凶」とは、君道に背くことである。
上爻は『復』の終わり、『坤』の極にいる。坤は迷いを表すので「復に迷う」という。迷って復らなければ、必ず凶である。「災眚あり」とは、災は外から来、眚は自ら作るということだ。迷いに溺れてここまで至れば、どこへ行っても害である。坤は大衆を、震は行動を表すので「師を行う」という。坤の上六に「龍、野に戦う。その血、玄黄」とあるのは、軍を動かして大敗する証である。軍が「大敗」に至れば、国君がどうして凶を免れよう。戦乱と災いが連なり、十年たっても終わらない。十年は数の極みであり、一度敗れれば、ついに振興できない。つまり迷いながら、ついに復ることができないのである。天下の禍は、すべて一念の迷いと溺れから起こる。迷いが身にあれば一身が禍を受け、国にあれば一国が禍を受ける。これこそ「復に迷う」害を深く示すものだ。象伝の「君道に背く」とは、『復』の君が初九の陽であり、『姤』の君が初六の陰であることによる。上で迷って復らない者は、『復』の九を奉ぜず、『姤』の六を奉じるので、陰陽が相反する。ゆえに「君道に背く」という。
【占い】
○ 時運を問う:運気が逆転し、行いも道理に背く。慎重にして災いを免れよ。
○ 商業を問う:商品が揃わず、期日も定まらず、市価も確かでないため、必ず大きな損失となる。今は業を復する時ではなく、凶。
○ 家宅を問う:怪異なものの祟りに注意せよ。住む者には不利なことが多い。
○ 戦争を問う:車馬は乱れ、旗は倒れる。大敗の象である。
○ 病を問う:症状はすでに危険である。長患いなら、寿命が延びるだけでも幸いである。
○ 旅人を問う:外にあって凶事が多く、十年以内には帰れない恐れがある。
○ 妊娠を問う:女児が生まれる。この子が成長しても、大敗の運命を負う。
【例】明治二十年六月、板垣退助君が朝命を奉じて高知県から来た。朝廷は前功に報いるため爵位を授けようとしたが、氏は固く二度辞退し、世間ではこれを論評する者が多かった。ある者は言った。「爵位を辞退するという氏の決意こそ、板垣氏を板垣氏たらしめるものである。その廉潔、退き譲る姿勢は、他人の及ぶところではない。氏は自由党の首領として人々を鼓舞している。それが一朝にして爵位の栄誉を受ければ、党中の人々にひそかに笑われることにならないだろうか。」またある者は言った。「爵位は朝廷の栄えある命令である。氏が固く辞して受けなければ、勅命に背いた責めを免れないのではないか。」私は板垣君と旧知の間柄であったので、忠告しようと思った。旅館を訪ねたところ、取り次ぎの者は病気を理由に面会を断った。そこで佐佐木高行伯を訪ね、面会して言った。「私は毎年冬至になると、斎戒沐浴して、国事および諸公の運命を謹んで占います。このたび板垣君を占い、『地雷復』の上爻を得ました。」
断にいう。『復』は一陽が帰り来る卦で、積み重なった陰の下に一陽が潜んでいる。人事にたとえれば、この一筋の微かな陽を次第に生じさせ発展させれば、天下の大事業はすべてこの一陽から成し遂げられる。国家が乱から治へ向かい、人が邪を去って正に従うのも、皆これに頼るのである。今、上爻を得た。その辞は「復に迷う、凶」という。これは暗く迷い、深く溺れて、本来の明を失うことであり、ついには天災と人の過ちが同時に至り、君を辱め軍を失っても救う者がない。危険の極みであり、禍の大きさもこれ以上ない。
爻辞がこれほど凶悪なので、ひそかに板垣君のために憂えた。かつて板垣君は政権の要路にあって大きな功績を立てたが、今は職を辞し、その主張はもっぱら自由党の中にある。党員は雑多で、よい影響と悪い影響が混じり合い、将来刺激されて変事を起こすことも予測できない。爻辞の凶は、あるいはこれを兆しているのではないか。
その後、板垣君が爵位を再び辞退する件について、もう一度占ったところ、『困』が『大過』に変じる卦を得た。
爻辞にいう。「九二。酒食に困しむ。朱紱まさに来たる。享祀するに利あり。征けば凶、咎なし」。
この卦では四・五の陽が三・上の二陰に覆われ、二の陽も初・三の二陰に覆われて志が通じない。そこで『困』となる。「酒食に困しむ」とは、板垣氏の現在の困難を示す。「朱紱まさに来たる」とは、栄えある命が下されることである。「享祀するに利あり」とは、爵位を拝受し、神に祝告することである。「征けば凶」とは、朝命に逆らえば凶となること。「拝命すれば平穏無事」であるから、「咎なし」という。この占は明白で、板垣君は謹んで命を拝受すべきであり、決して辞退してはならない。板垣君は閣下の旧友であるから、どうか私の占辞を伝えて告げていただきたい。
佐佐木伯は言った。「あなたの言葉は真摯で、私も深く感じ入った。必ず告げよう。あなたはもう一度後藤象次郎を訪ね、この占いを伝えなさい。私も後藤氏と相談し、きっと板垣君に拝命させよう。」そこで私は再び後藤伯を訪ね、前と同じように告げ、さらに佐佐木伯の意向も伝えた。後藤伯は感謝して言った。「奇異なことだ。あなたの易占のようなものは古今未だ聞いたことがない。板垣氏の件は、私が佐佐木氏と相談し、必ず力を尽くそう。どうか心配しないでほしい。」その後、果たして板垣君が爵位と命を拝受したとの知らせを聞いた。私はようやく心が安らいだ。
象伝にいう。「復に迷う凶」とは、君道に背くことである。
上爻は『復』の終わり、『坤』の極にいる。坤は迷いを表すので「復に迷う」という。迷って復らなければ、必ず凶である。「災眚あり」とは、災は外から来、眚は自ら作るということだ。迷いに溺れてここまで至れば、どこへ行っても害である。坤は大衆を、震は行動を表すので「師を行う」という。坤の上六に「龍、野に戦う。その血、玄黄」とあるのは、軍を動かして大敗する証である。軍が「大敗」に至れば、国君がどうして凶を免れよう。戦乱と災いが連なり、十年たっても終わらない。十年は数の極みであり、一度敗れれば、ついに振興できない。つまり迷いながら、ついに復ることができないのである。天下の禍は、すべて一念の迷いと溺れから起こる。迷いが身にあれば一身が禍を受け、国にあれば一国が禍を受ける。これこそ「復に迷う」害を深く示すものだ。象伝の「君道に背く」とは、『復』の君が初九の陽であり、『姤』の君が初六の陰であることによる。上で迷って復らない者は、『復』の九を奉ぜず、『姤』の六を奉じるので、陰陽が相反する。ゆえに「君道に背く」という。
【占い】
○ 時運を問う:運気が逆転し、行いも道理に背く。慎重にして災いを免れよ。
○ 商業を問う:商品が揃わず、期日も定まらず、市価も確かでないため、必ず大きな損失となる。今は業を復する時ではなく、凶。
○ 家宅を問う:怪異なものの祟りに注意せよ。住む者には不利なことが多い。
○ 戦争を問う:車馬は乱れ、旗は倒れる。大敗の象である。
○ 病を問う:症状はすでに危険である。長患いなら、寿命が延びるだけでも幸いである。
○ 旅人を問う:外にあって凶事が多く、十年以内には帰れない恐れがある。
○ 妊娠を問う:女児が生まれる。この子が成長しても、大敗の運命を負う。
【例】明治二十年六月、板垣退助君が朝命を奉じて高知県から来た。朝廷は前功に報いるため爵位を授けようとしたが、氏は固く二度辞退し、世間ではこれを論評する者が多かった。ある者は言った。「爵位を辞退するという氏の決意こそ、板垣氏を板垣氏たらしめるものである。その廉潔、退き譲る姿勢は、他人の及ぶところではない。氏は自由党の首領として人々を鼓舞している。それが一朝にして爵位の栄誉を受ければ、党中の人々にひそかに笑われることにならないだろうか。」またある者は言った。「爵位は朝廷の栄えある命令である。氏が固く辞して受けなければ、勅命に背いた責めを免れないのではないか。」私は板垣君と旧知の間柄であったので、忠告しようと思った。旅館を訪ねたところ、取り次ぎの者は病気を理由に面会を断った。そこで佐佐木高行伯を訪ね、面会して言った。「私は毎年冬至になると、斎戒沐浴して、国事および諸公の運命を謹んで占います。このたび板垣君を占い、『地雷復』の上爻を得ました。」
断にいう。『復』は一陽が帰り来る卦で、積み重なった陰の下に一陽が潜んでいる。人事にたとえれば、この一筋の微かな陽を次第に生じさせ発展させれば、天下の大事業はすべてこの一陽から成し遂げられる。国家が乱から治へ向かい、人が邪を去って正に従うのも、皆これに頼るのである。今、上爻を得た。その辞は「復に迷う、凶」という。これは暗く迷い、深く溺れて、本来の明を失うことであり、ついには天災と人の過ちが同時に至り、君を辱め軍を失っても救う者がない。危険の極みであり、禍の大きさもこれ以上ない。
爻辞がこれほど凶悪なので、ひそかに板垣君のために憂えた。かつて板垣君は政権の要路にあって大きな功績を立てたが、今は職を辞し、その主張はもっぱら自由党の中にある。党員は雑多で、よい影響と悪い影響が混じり合い、将来刺激されて変事を起こすことも予測できない。爻辞の凶は、あるいはこれを兆しているのではないか。
その後、板垣君が爵位を再び辞退する件について、もう一度占ったところ、『困』が『大過』に変じる卦を得た。
爻辞にいう。「九二。酒食に困しむ。朱紱まさに来たる。享祀するに利あり。征けば凶、咎なし」。
この卦では四・五の陽が三・上の二陰に覆われ、二の陽も初・三の二陰に覆われて志が通じない。そこで『困』となる。「酒食に困しむ」とは、板垣氏の現在の困難を示す。「朱紱まさに来たる」とは、栄えある命が下されることである。「享祀するに利あり」とは、爵位を拝受し、神に祝告することである。「征けば凶」とは、朝命に逆らえば凶となること。「拝命すれば平穏無事」であるから、「咎なし」という。この占は明白で、板垣君は謹んで命を拝受すべきであり、決して辞退してはならない。板垣君は閣下の旧友であるから、どうか私の占辞を伝えて告げていただきたい。
佐佐木伯は言った。「あなたの言葉は真摯で、私も深く感じ入った。必ず告げよう。あなたはもう一度後藤象次郎を訪ね、この占いを伝えなさい。私も後藤氏と相談し、きっと板垣君に拝命させよう。」そこで私は再び後藤伯を訪ね、前と同じように告げ、さらに佐佐木伯の意向も伝えた。後藤伯は感謝して言った。「奇異なことだ。あなたの易占のようなものは古今未だ聞いたことがない。板垣氏の件は、私が佐佐木氏と相談し、必ず力を尽くそう。どうか心配しないでほしい。」その後、果たして板垣君が爵位と命を拝受したとの知らせを聞いた。私はようやく心が安らいだ。