高島易断 · 卦ごとの解説

高島易断 · 易経 第 29 卦 坎は水。重なる坎。誠があれば、心によって通る。行けば尊ばれる。

坎は水。重なる坎。誠があれば、心によって通る。行けば尊ばれる。

29 坎は水

坎は大過から来る。序卦伝に「物は終始、過にあることはできない。ゆえにこれを受けるに坎をもってする」とある。「坎」という字は土と欠から成り、欠は不足の意である。大過の不足を補うので、これに続けて坎を置く。卦体は一つの奇爻と二つの偶爻からなり、二つの偶爻は坤の地、一つの奇爻は乾の天である。乾天が坤地の中に隠れ、元気が満ち、湿りを化して水を生ずる。これを「天一、水を生ず」という。これが坎を水とするゆえんである。

重なる坎[135]。誠があれば、心によって通る。行けば尊ばれる。



▲ 坎の篆書

卦体は上も坎、下も坎で、上下とも水である。八つの純卦はすべて上下が一体だが、坎だけが「習」を加える。「習」には二つの意味がある。一つは、学んでは時にこれを習うという「習」である。坎の険は渡りにくいので、便利に扱い、熟練して初めて乗り越えられる。もう一つは重ねて習う意で、上下とも坎であるため、重複の義を取る。坎の中央の一画は乾の陽である。乾陽は剛正で誠実に中央にあるので、「誠がある」という。中央の一陽は心である。元陽が開き通るので、「心によって通る」という。「心が通る」とは乾の「元亨」からも来ている。このように険を行けば、誠があって事を成し、通じないことがない。ゆえに「行けば尊ばれる」という。

彖伝に曰く。習坎とは、険が重なることである。水は流れて満ちず、険を行ってもその信を失わない。「心によって通る」とは、剛が中央にあるからである。「行けば尊ばれる」とは、進めば功があるからである。天の険は昇ることができず、地の険は山川・丘陵である。王公は険を設けて国を守る。険を時に応じて用いることは、なんと大きいことか。

「習坎」とは、習は重なること、坎は険しいことをいう。一つの険ではなく、険が重なるので「重険」と称する。「習」の字は羽と白から成り、注には鳥が幾度も飛ぶ意とある。鳥は何度も飛ぶことによって、網の危険を避けることができる。そこで坎が「習坎」というのも、険を避けることができるという意味を取ったのである。坎は水である。水は絶えず流れ、流れに従って進みながら、決して満ちきったようには見えない。水は月に従って盈ち欠けし、朝の潮、夕べの波も、満ち引きに一定の時があって、その時を失わない。二爻と五爻は、いずれも乾の体にあたり、内が充実している。中とは心であり、心が充実してこそ「孚」があり、また心が充実してこそ「亨」となる。心が通じるのは、剛が中にあるからである。中に剛があれば心は安らぎ、心が安らげば精神は盛んになり、精神が盛んになれば一途に前進し、行く先々で功を立てる。その行いは称賛すべきものである。およそ天下の事は、順境にあれば容易だが、逆境にあえば難しい。孔子が仁を論じる際には、あわただしい時や困窮の時にそれを試し、『中庸』が道を論じる際には、夷狄の地や患難の極みにまで及ぼしている。困難で険しい所は、確かな見識と確かな力を持つ者でなければ進むことができない。軽率に進めば、功を成す者は少ないであろう。八卦の徳は美しく吉が多いが、坎だけは険しく凶が多い。人は皆、険を恐れるが、坎は険を用いる。天は険によってその高明さを成し、地は険によってその広厚さを成し、国は険によってその強大さを成す。険は険であるが、その働きは実に大きい。険の働きを知れば、坎の働きも知ることができる。

この卦を人事に当てはめると、『彖伝』は「険が重なる」といい、険が一様ではないことを示している。卦の上下は空虚で中央は充実している。空虚なところは水、中央の充実は土であり、空虚なところは陥穽、中央の充実は誠実を表す。誠実とは何か。心と心を通わせることである。人が心を通わせることができれば、その心は自然に通達する。忠実で信義ある者なら波濤を渡ることができるというのは、このことである。初めて険を越える者は、険に臨むとしばしば足を退く。しかし万里の風帆を商人は幾度も行き来して恐れず、千重の絶壁をきこりは歩いて危険を忘れる。なぜか。慣れているからである。坎の卦に「習」の一字を加えたのは、まさに人に、実際に習い試して怠らないよう勧めるためである。水は時に行き時に来るが、期日をたがえない。これが水の信である。水は溝や川へ注ぎ、自然に流れ通る。これが水の功である。人は皆、水を陰柔なものと思い、水に中の剛という徳があることを知らない。中に剛があるからこそ、通達するのである。人が陰柔にとらわれれば、必ず迂回し停滞して通じなくなる。それでどうして通達できようか。また、どうして行動できようか。中の剛を知り、それを実践の中で習い練れば、険を平地のように見て、行く先々で功を立てる。まことに称賛すべきことである。天を見れば、はるか高く懸かり、その険は登ることができない。地を見れば、深山や大沢にはそれぞれ険がある。国を見れば、低い陽の地や大きな険しい峠には、必ず争うべき険がある。険は用いることができるが、時には用いるべきでない場合もある。それは険が用いられないのではなく、用いる時を得るかどうかによる。だから「険の用は大きい」とはいわず、「険の時にかなった用は、なんと大きいことか」というのである。

この卦を国家に当てはめると、坎は陽二、陰四である。二爻と五爻は君臣の位だが、いずれも二つの陰の険の中に陥っている。朝政は乱れ、民心は騒ぎ、さらに気候も季節にかなわず、穀物も実らない。天の時も人事も行き詰まり、ここに坎険の世が生じている。内卦の初爻は坎の始まりであり、国家が初めて険に遭遇する時である。道を失えば凶となる。三爻は一つの険がまだ平らかにならないうちに、また一つの険が来る。国家の勢いはほとんど危うい。二爻は陽剛の徳を持ち、険を救おうと努めるが、二つの坎が相連なり、陥没はすでに深く、得られるものも小さい。外卦の四爻は陰位に陰で居り、重なる険と多い恐れの地にある。酒器と食器の二つは、その重い負担を象徴する。これは国家の危急存亡の時である。上六と初爻は首尾の関係にある。初は険の始め、上は険の終わりである。初ならまだ、未経験ゆえに暗いのだといえるが、上に至れば険を常とすることに慣れ、道理によって論じることができない。九五は卦の主である。陽剛が一人で全体を担い、九二と応じている。九二が心を働かせて患いを考え、朝早くから夜遅くまで職務に励み、九五の君を補佐して天下の乱れを除き、国家の難を静めるなら、上下が互いに信じ、政治の道は通じ、進んで功を立てる。その功をどうして埋もれさせてよいだろうか。聖人は坎について「習え」と励まし、険について「重なる」と戒め、「流れて満たない」ことによってその深さを語り、行動に信があることによって誠を験した。こうして坎の険は救うことができる。君子が「常に徳行を修め、教えの仕事を習う」のも、この道による。天が高く、地が厚く、王公が国を建てることも、すべて険の働きである。坎・睽・蹇は、いずれも美しい事ではない。しかし聖人は時にこれを用いるので、皆を「時にかなった働きは、なんと大きいことか」と称賛する。この意味を知らなくてはならない。

この卦を全体的に見ると、進んでも険、退いても険であり、これを重険という。困難の上にさらに困難が重なる象である。彖は君子の難を説き、爻は小人の難を説いて、坎から出る道を示している。険にあって心を動かし、性を忍ぶのが君子の坎である。険に遭って節を失い、身を滅ぼすのが小人の坎である。人は世に生きるかぎり皆坎に遭うが、険を防ぐにはそれなりの道がある。だから彖辞はまず「習え」と励まし、次に「孚」で戒め、最後に「亨」で称えている。水は流れて順調に進めば、氾濫の患いがない。塞がって滞れば、必ずあふれる。険を行く者が慎み恐れ、信を失わなければ、ついには成功を得られるのである。六爻の情を見れば、皆困難に置かれているが、それぞれ吉凶がある。初六は険を踏む初めで、習いがまだ熟さず、深い穴に陥り、外からの助けもなく、自力で救うことができないので凶である。九二は剛健で中にあり、求めれば小さな得がある。険の中にあっても険が険でなくなり、険の中に亨がある。そこで「まだ中を出ていない」という。六三は二つの坎が連なり、険に入ることが深く、陰柔で位も正しくないため、険を出られず、「ついに功なし」となる。六四は忠貞の心を抱いているが、器量が狭く、険を救う才に乏しい。ただ鬼神に祈り、九五の陽に従うことで険を出られるので、「剛柔の交わるところ」という。九五は陽剛で中正、高い尊位にあり、坎の体の主である。象伝のいう「水は流れて満ちない」を実現するのは、ただ五爻である。水の徳は平らかさにある。平らかなら険はもはや険ではない。ゆえに「咎なし」という。上六は坎の極みにいる。坎は牢獄をも表すので、険に陥り、牢獄に入る象である。初の道の失いはまだ赦せるが、終わりに道を失えば赦せない。三年の罰を与え、悔いて立ち返る時を待つので、三年は凶となる。人の世渡りは、水が坎を流れるようなもので、険難のない時はなく、欠陥のない場所もない。凡人は一歩ごとに茨を生じさせるが、君子は恐ろしい道さえ大道にする。なぜか。君子は習熟しているが、凡人は不慣れだからである。ここに坎が習を貴ぶ理由がある。

大象伝はいう。水が次々と至るのが習坎である。君子はこれにならい、徳行を常に修め、教化の仕事を繰り返し習う。

坎は水である。水の性質は本来きわめて平らかで、万物の基準となる。そこで坎は、通じること、平らかであること、中が充実した信を表す。「洊」は重なり続くこと。雷についていえば音が相続くこと、水についていえば流れが相続くことである。「常」とは始めから終わりまで一つであること、「習」とは一度や二度にとどまらず続けることである。君子は水の相次ぐ流れにならって日々その徳を新たにし、坎の習いにならって教えを倦まずに行う。徳は常にすることで変わらず、教えは練習することで中断しない。内卦の三爻は自分に属するので、己を修めることを表す。外卦の三爻は他人に属するので、人を教えることを表す。すでに成し遂げたものを修め、まだ成し遂げていないものを励ます。君子が険を救う功は、ここにある。

  【占い】
○ 戦争について占う:敵兵がたびたび侵攻してくる気配がある。常に警戒すべきである。


○ 栄達について占う:少しずつ昇進していく象がある。

○ 商売について占う:財は流水のように次々と入ってくる。長く続き、大きくなり、商運は順調である。

○ 家宅について占う:この家の外、北側には必ずくぼ地があり、泉が絶えず流れている。坎の辰は子にあたり、その上に虚・危が位置する。危は屋根を葺くことを主るので、隣家に建築がある恐れがある。

○ 病気について占う:水瀉の症である恐れがあり、長く治っていない。祈祷がよい。「酒樽一つと食器二つ」の意味を取る。

○ 婚姻について占う:親族同士の重ねての縁組となり、親戚間で再び婚姻を結ぶ象がある。

○ 妊娠:男児が生まれる。

初六。険が重なり、坎の穴に入る。凶。

初六。険が重なり、坎の穴に入る[136]。凶。

象伝はいう。険が重なって坎に入るのは、道を失えば凶となるからである。

「習」とは、重ねて習うこと、「窞」とは坎の中の小さな穴である。初爻は卦の始めであり、坎の始めでもある。『列子』に、「川辺に住む人がいて、水に慣れ、泳ぎに巧みであった」とある。泳ぎの達者な者は溺れないという意味である。初爻は習ってはいるが、まだ上手ではない。そのため坎から出られず、かえって窞に入る。窞は小さな坎であり、小さな坎に入ればいっそう深く陥り、出るのはいよいよ難しい。ゆえに凶である。象伝の「習坎入坎」は、坎を習う者は本来坎から出ようとするのに、習って坎に入ることをいう。誤らせたのは習うことではなく、習う際に道を失ったことなのである。だから「道を失えば凶」という。

  【占い】
○ 戦争について占う:伏兵を設ける計画があるが、逆に敵の計略に陥る恐れがあり、凶の道である。


○ 栄達について占う:運に頼って名を求めると、かえって辱めを受ける。益はなく、損がある。

○ 商売について占う:商品の売買で損をし、別の場所へ運び替えるが、着いた先はさらに市場が小さく、売りさばけない。

○ 病気について占う:治療を求めても、医師が道を誤り、病状はいっそう危うくなる。

○ 婚姻について占う:詐欺のわなに落ちる恐れがあり、正式な仲介による結婚ではない。

○ 懐妊について占う:難産に注意すべきである。

【例】友人某が運勢を占ってほしいと訪れ、筮すると坎が節に変じた。

断じていう。坎は水、大川、溝や渠であり、いずれも水が流れ下り、汚れのたまる所である。初爻は卦の始めであり、卦の最下にある。これは水に入り始める場所で、その深さが何重あるのかもわからない。今、運勢を占ってこの爻を得た。人の一生の運命についていえば、平穏で栄え盛んな者には吉だが、欠陥があり、貧しく困窮する者には凶である。坎は陥ることを意味するので、目下は不利であることがわかる。道を守って自らを保つべきで、もし道を失って妄りに動けば、陥りはいっそう深くなり、凶は言葉では言い尽くせない。一般に、卦爻の一爻は一年を表す。五爻に至って「坎は満たず、ただすでに平らか」となるのを待てば、咎はない。その後、果たして占断どおりになった。

九二。坎には険がある。求めれば小さな得がある。

九二。坎には険がある。求めれば小さな得がある。

象伝はいう。求めれば小さな得があるのは、まだ中を出ていないからである。

上の坎は穴、下の坎は険である。「険がある」とは、前後左右すべてが険しい地であることをいう。この爻は一つの陽が二つの陰の中に陥り、応援もないので、当然すぐに坎険から出ることはできない。しかし中の剛の徳を持ち、耐え忍んで困難を守り抜く。五爻の「満たずして平らか」とまではいかなくても、咎を免れることはできる。求め続ければ、まったく何も得られないこともない。だから「求めれば小さな得がある」という。小さくても得は得である。象伝が「まだ中を出ていない」というのは、亨が中にあることを示している。

  【占い】
○ 戦争について占う:ひそかに隧道を通じて敵陣を襲うことができる。大勝ではないが、必ず小勝は得る。


○ 商売について占う:小利なら求めることができる。

○ 栄達について占う:小さな試験なら必ず利益がある。

○ 家宅について占う:家の外の河岸が崩れている恐れがある。修繕すべきである。

○ 病気について占う:腫れ物などの病であろう。医師に治療を求めれば、いくらかの効果はあるが、全快は望みにくい。

○ 懐妊について占う:男児を得る。

【例】東京の某富商甲幹が店の運勢を占ってほしいと訪れ、筮すると坎が比に変じた。

断じていう。九二は陽で陰位にあるが、中正の位を得て、内卦の主となり、五爻と応じている。五爻は尊位にあるので、五は本店、二は支店を表すのであろう。今、坎の二爻を得て「坎には険がある」という。必ず二つの店がともに難に遭い、しばらく商運が衰え、動くたびに損耗が生じる。これは人の力の過ちではなく、運勢がそうさせるのである。あなたは主人に代わって占っている以上、店のことに心を尽くすべきである。ただ至正至中を守り、私情や偏りに関わらず、力の限り計画して努めれば、大利はなくとも必ず小さな得がある。

結果は占断のとおりになった。

六三。来るも行くも坎坎、険しく、また枕する。坎の穴に入る。用いるな。

六三。来るも行くも坎坎、険しく、また枕する。坎の穴に入る。用いるな。

象伝はいう。来るも行くも坎坎なのは、ついに功がないからである。

この爻は陰をもって陽位に居り、中正を得ず、才能は弱いが志は強い。二つの坎の間にあり、応援もない。険を越えて進もうとすれば上卦の坎に阻まれ、険を避けて他へ行こうとすれば下卦の坎が横たわる。したがって本位にも安住できず、前後左右、進退動止のいずれにも、坎でない場所はない。そこで「来るも行くも坎坎」という。枕とは、止まり、安らぐことである。すでに険に踏み入った以上、しばらく休息することをいう。一時に険を脱することはできなくても、さらに深く入り込むことはない。もし休まず、無理に争えば、必ず坎中の深い穴に落ち、救うことができなくなる。「窞」は『説文解字』に「穴の中にさらに穴があること」とあり、虞氏は「坎中の小穴」という。初爻と三爻はいずれも陰で、空洞の象があるため、共に窞と称する。象伝の「終に功なし」とは、昔の豪傑は皆、困苦の中で鍛えられて成長したことをいう。坎の険は人を苦しめるに足るが、同時に人を成すにも足る。険に遭ってただ休み、安逸をむさぼるなら、険を生かす時機を失うので、「終に功なし」というのである。また「険且つ枕」は、費易の古文では「検且つ沈」と作るという。検は堤を築いて水を防ぐこと、沈は川祭の名である。『礼記』に「川を祭るには沈める。およそ沈辜とは、牲を割いて川を祭ること」とある。治水は水の性質に従って導くことが肝要である。もしただ堤防で押さえれば、水勢はせき止められていっそう激しくなり、堤が決れ、岸が崩れて、被害はさらに増す。牲を沈めて祭ったとしても、結局何の役に立とうか。ゆえに爻は「用うるな」と戒め、伝は「功なし」と解した。これも一説であり、「枕」を安息・停止と訓むより、その意味はいっそう精密である。

  【占い】
○ 戦争について問う。象は四方を陣営で囲み、すべて坎険に臨む形で、進退ともに困難である。武器を枕にしてしばらく休み、援軍を待つのがよい。


○ 商売について問う。爻象から見て海運業であろう。船の航行は阻まれているので、奥まった港に入り、しばらく守勢を取るのがよい。

○ 功名について問う。象を見るに、あらゆる困苦に遭い、身も心も飢え疲れる時である。今は功なくとも、晩成は望めよう。

○ 家宅について問う。この家の水法は乱れ、凶気が多い。家の北に坎の深い穴があるので、急いで埋めるべきである。

○ 婚姻について問う。坎は男を表すので、これは男家からの求婚である。爻に「用うるな」とあるから、必ず成就しない。

○ 妊娠:男児が生まれる。

【例】 ある人が来て運勢を占ってほしいと頼み、坎が井に変じた卦を得た。

断にいう。坎は険であり、険とは難である。爻に「来るも行くも坎坎」とあるのは、険が重なり、苦難が長くつきまとう象である。運勢を占ってこの爻を得たなら、進むも険、退くも険であり、当分は厄運から脱しにくいことが明らかである。みだりに行動すれば、必ず深い穴に陥って救われない。困窮の中で自らを守り、後の運を待つべきである。

【例】 明治30年、外国との交際について占い、坎が井に変じた卦を得た。

断にいう。この卦は上下とも水である。坎は一陽が二陰に陥る体で、坎の上にさらに坎が重なる、困難重畳の象である。外国との交際を占ってこの爻を得た。わが日本は海浜の国で、東西南北を大海に囲まれ、舟舶が往来し、島々が重なって、至る所が坎険の地である。険を設けて国を守るのは、まことに当然である。外国交際についていえば、海禁が開かれて以来、「西夷北狄の海舶が時に通う」状態となり、「来るも行くも坎坎」とはまさにその象である。この困難な時代には、ただ内防を厳重に整え、武器を枕にして事態を待つべきである。軽々しく兵を用いれば、困難をいっそう生むので、「坎窞に入る」とある。象伝の「来るも行くも坎坎、終に功なし」とは、険難がたびたび到来して内防にも暇がないのに、みだりに外に争いを起こして、どうして功を見られようか、という意味である。

果たしてその通りであった。その年、政府は陸海軍の拡張に着手し、砲台を築造した。まさに爻象に合っていた。

六四。酒樽一つと穀物の籩二つを用い、土器を使い、窓から質素な供物を納れる。終には咎なし。

六四。酒樽一つと穀物の[137]二つ[138]を用い、土器を使い[139]、窓から質素な供物を納れる[140]。終には咎なし。

象伝にいう。酒樽一つと穀物の籩二つとは、剛と柔とが交わるところである。

「樽」は酒器、「簋」は黍や稷を盛る器、「贰」は副、すなわち添え物である。礼には副尊があり、『周礼』によれば、大祭には三組、中祭には二組、小祭には一組を備え、三種の酒の尊に添えたという。缶は盎ともいい、土器である。また六四の辰は丑に当たり、その上には斗宿があり、そこから酒をくめるので尊の象を取る。さらにその上には建星があり、形は簋に似ており、建星の上には弁星があって、これも簋の形に似る。ゆえに六四はこれらすべての象を取る。「約」は倹約、「贰」は礼を厚くすることを示し、缶は用いる物の質素さを明らかにする。「牖」は室内に光を通す所である。坎には受け入れる意味があるので「納」という。『詩経・采蘋』に「ここにこれを供えよう、宗室の窓の下に」とある。「約を窓から納れる」という意味は、ここから取ったのである。六四は陰で陰位にいるため、本来なら咎がある。しかし四爻は「酒樽一つと穀物の籩二つ」を用い、質素に窓から納れることができる。これによって王公に食を供し、宗廟を祭ることもできるため、終には「咎なし」となる。象伝の「剛と柔とが交わるところ」とは、上下二卦の剛爻と柔爻が接することをいう。二つの坎が重なるので、酒樽と籩の二つを重なりの象とする。また、剛と柔が交わる位置にあって、樽や籩を窓から納れることで誠意を十分に示せるので、「咎なし」というのである。

  【占い】
○ 戦争について問う。行軍では兵糧が最も重要であり、「兵を足らしむ」といっても、第一は食糧を足らしめることである。「窓から約を納れる」とは、食糧を納れる場所ではない窓から、敵軍に奪われぬよう密かに兵糧を運ぶことをいう。


○ 商売について問う。坎は酒を表すので、酒造業であろう。

○ 功名について問う。春風に乗って得意となり、賓客を招いて宴を楽しむ象で、喜ばしく祝うべきことである。

○ 病気を問う。祈祷がよい。

○ 婚姻について問う。吉。

【例】 ある紳士が来て運勢を占ってほしいと頼み、坎が困に変じた卦を得た。

断にいう。四爻は恐れの多い場所にいて、険が幾重にも重なるため、本来は咎を招きやすい。今、身分の高い者が運勢を占ってこの爻を得た。爻に「酒樽一つと穀物の籩二つ、土器を用い、窓から約を納れる」とあるので、身分の高い者は食事を質素にし、礼を守って自らを律している。ゆえに咎はないと知れる。しかも四爻は五爻に近く、四は陰で陰位、五は陽で陽位にいる。四は臣、五は君である。象伝の「剛と柔とが交わるところ」は、まさに君臣が相得ていることを示す。

【例】 明治30年、わが国と韓国との交際について占い、坎が困に変じた卦を得た。

断にいう。韓国は東海の僻地にあり、国は小さく弱いが、海路の要衝に位置し、外交を行う諸国からうかがわれている。いま重なる険に遭い、国運はまさに険の中の険にある。わが国との交際を占って坎の四爻を得た。『周易』の鄭氏・苟氏の義によれば、六四は大臣が諸侯に会いに出る象であり、四は九五を承けるので、天子の大臣の象である。「酒樽一つと穀物の籩二つ」は、主国が客をもてなす礼を主とする。今日の各国交際は使臣に任され、使臣を宴するのも礼の常である。しかし「窓から約を納れる」という一言には、いささか疑いがある。宴享の礼は筵上に供するもので、決して窓から納れるものではない。四は外卦にあるので、あるいは韓王が外へ逃れ、使臣の館で食を得たのであろうか。「窓から約を納れる」とは、ひそかに食料を送り届けることをいうらしい。「終には咎なし」とは、一時は難に遭っても、最後には必ず位に復するという意味である。この年、韓王は果たしてロシア公使館へ逃げ込む事件があった。

九五。坎は満ちず、ただ平らになったなら、咎なし。

九五。坎は満ちず、ただ平らになったなら、咎なし。

象伝にいう。坎は満ちず、中はまだ大きくなっていない。

九五は陽をもって陽位に居り、中正を得て、坎の主となる。彖伝のいう「水流れて盈たず」に当たるのは、ただ五爻である。水の徳は平らかであることにあり、平らかなら険も険ではなくなる。「ただ平らかになった」とは、ちょうど平衡を得たばかりという意味である。坎は穴である。穴の中の水は、満ちなければ平らであり、満ちれば氾濫して横流し、決壊の患いを生ずる。天下の事は、おおむね満ちることによって災いを招くが、水も同じである。満ちず、しかも平らであるから「咎なし」となる。象伝の「中はいまだ大ならず」とは、大が満ちる意でもある。坎の流れが大きくならないからこそ、平穏で険がない。もし大水となれば災いをもたらす。水が大きいことに何の価値があろうか。ゆえに「中はいまだ大ならず」という。坎は危険な場所で、本来美しいものではない。五爻は「満ちない」ことによって険を処するのが善いとはいえ、ただ「咎なし」というだけで、吉と称するには足りない。

  【占い】
○ 戦争について問う。将たる道は、功績を恃んで驕り、兵の心を不平にさせることを最も忌む。それは敗北を招く道であり、孫武が再び現れても功を立てることはできない。


○ 商売について問う。一時の思いがけない利益をむさぼらず、物価の適正をよく見極めて、長期の計画を立てる者こそ、商売上手である。

○ 功名について問う。名位は大きくない。

○ 時運について問う。謙は益を受け、満は損を招く。この言葉を一生唱えるがよい。

○ 家宅について問う。家の外に小さな土地があり、清く浅い水が流れ、また平らな斜面もある。景色はかなりよく、咎はない。

○ 婚姻について問う。両家の家格が釣り合い、吉。

【例】 知り合いの商人が来て運勢を占ってほしいと頼み、坎が師に変じた卦を得た。

断にいう。坎は困難の卦である。今、五爻を得たので、これまでの苦労は次第に平穏となり、その後に盛運へ移ることができる。ゆえに「坎は満ちず、ただ平らかになれば咎なし」という。後果たして、この占いの通りになった。

上六。縄で縛られ、いばらの中に置かれ、三年たっても解放されない。凶。

上六。縄で縛られ[141]、置かれ[142]、いばらの中に[143]置かれ、三年たっても解放されない。凶。

象伝にいう。上六は道を失っているので、三年の間は凶である。

上爻は陰で陰位に居り、坎の険の終わりにあるのに、悔い改めて目覚めることを知らない。初爻の失道なら、まだ経験がないとして許される余地がある。しかし上爻の失道は、それを常習としているのである。道理を説いても通じない者には、法によって縄をかけるほかない。坎は罪、獄、いばらの茂みを表す。「徽纆」は縄、「叢棘」は獄壁である。縄で縛り、いばらの中に置くのは、その罪を処罰し、悔い改めさせるためである。坎は三年を表すので、三年禁固する。律にいう「重罪は三年で放す」に当たる。三年の間に過ちを悔い、善へ移れば、正道に戻ることができる。三年たっても改めなければ、一生道を失うことになる。ゆえに象伝は「道を失えば凶」という。聖人が悪を懲らすとき、初めは法で厳しく拘束するが、最後には必ず寛大に赦す。長く治めても改まらないなら、もはやどうすることもできない。これによって、聖人が人を軽々しく見捨てたことはないと知ることができる。

  【占い】
○ 戦争について問う。軍を遠征させ、長く役務に就かせたまま帰還できない恐れがある。


○ 商売について問う。蚕糸の買い付け商売であろう。三年後になって初めて利益を得られる。

○ 功名について問う。思いがけない災いがあり、功名が成らないだけでなく、獄に入る罪にも注意せよ。凶。

○ 婚姻について問う。赤い糸が足を結ぶので、縁組みは前世から定まっている。ただし良縁はまだ来ていない。三年後を待ってようやく成る。

○ 妊娠について問う。男児を得るが、時期は遅れる。

○ 家宅について問う。この家は何の事情か荒れ果て、塀一面につる草が生えている。急いで修繕すべきである。前の住人には不利だったが、後の住人には吉。

【例】 明治17年10月、埼玉県秩父郡で暴徒が蜂起し、その勢いは甚だ猖獗で、各郡へ侵入するに及びそうであった。私は深く憂えた。たまたま友人が来て、結末がどうなるか占ってほしいと頼んだので、坎が渙に変じた卦を得た。

断にいう。爻象は、教化に従わない者を刑法で治めるべきことを明らかに示している。縄で拘束し、いばらの中に閉じ込めるのは、罪を治める律である。当時、国家は西欧にならって旧政を改革していた。その改革を妨げる者の中には、新政の不便をひそかに苦しみ、民衆を惑わして蜂起し、各郡を侵略する者がいた。これは無頼の民で、法を恐れず、自ら坎険に陥りながら何の顧慮も知らない者たちである。国家はやむを得ず、その首魁を捕らえて刑獄に入れた。すぐに公開処刑するのではなく、三年間囚えて悔いを知らせた。三年たっても改めなければ、これ以上の凶はない。その後の政府の処分は、まさにこの占の意にかなっていた。

【例】 わが国が清国に勝利した後、露・仏・独の三国が同盟し、清国保護を口実としてわが国に遼東の返還を迫った。その後、三国はその口実によって旅順・山東・雲南などの地を借り受け、強引に鉄道を敷き、鉱山を領収した。その行為は、かつての口実とは大きく反するものであった。当時わが国はすでに三国の意図を予測し、一卦を占ったところ、坎が渙に変じた卦を得た。

断にいう。上六は坎卦の終わりであり、ここを越えて険を脱することもできたはずである。しかし上六は陰で陰位に居り、卦の外にあるので、外国に陰謀と詭計があり、外へ出て事をたくらむ者があることを明らかに示す。わが国に遼東返還を迫ったのは清国のためではなく、実は三国が自国の利益を計ったのである。ほどなく三国は山東、旅順、雲南などの要地を強引に借り受け、鉄道を敷設した。この狡猾な計略は明白であった。「縄で縛り、いばらの中に置く」とは、その強迫の有様をたとえたものだ。「三年」は三国とも読め、三国が欲望を遂げなければ、事を終わらせないという意味である。象伝は「上六は道を失い、凶」と言う。「道」は路の意で、三国が清国に鉄道を築くことは、明らかに道を失うことであり、ゆえに凶である。