高島易断 · 卦ごとの解説

高島易断 · 易経 第 30 卦 離は火。離は、正しさを守ればよく、通る。雌牛を養えば吉。

離は火。離は、正しさを守ればよく、通る。雌牛を養えば吉。

30 離は火

離卦は陰二爻と陽四爻から成り、上下が一体となっている。離とは偶数の象である。奇数の実体の中央に陰が加わって積み重なると坎となり、偶数が陽の中央で分かれて二つになると離となる。水は始まりを与え、火は生長を与える。水は気に変わり、火は形に変わる。だから「地の二が火を生ず」という。火の象は偶である。奇の離が偶となり、偶の二つが離となるので、離を最もよく表すものは火である。火は一つの小さな火花にすぎないが、離となれば無数のたいまつとなり、触れるものをことごとく焼く。人の心も一つだが、離となれば無数の応答となり、触れるところすべてに通じる。火は中が空虚だからこそ、離れて明らかになるのである。

離[144]は、正しさを守ればよく、通る。雌牛[145]を養えば吉。



▲ 篆書の「離」



▲ 篆書の「離」

坤の二爻から離が成る。陰は内が空しく、内に結びつくので、卦体は柔を主とする。柔は正しさを失いやすく、正しくなければ通らない。そこで正しい行いに利があり、それによって通るので、「亨」は「利貞」の後に置かれる。他卦では皆「亨利貞」と言うのに、離だけは先に「利貞」、後に「亨」と言う。離は内が柔らかく外が剛で、正位を得ていないため、初めは通じても終わりには塞がるからである。ゆえに貞を守ることが大切で、貞の後に初めて亨る。「雌牛を養えば吉」とは、離が坤の子であり、坤は牛、離もまた雌牛を表すからである。雌牛は柔順で、坤の性を得ている。六爻の陰は雌を表し、二爻と五爻は中央にあり、陽が陰を包むのが「養う」象である。雌牛は犠牲に用いるものではなく、繁殖に利があるので「養う」と言う。離は坤の二爻から成り、坤では「牝馬」と言う。牝馬は遠く行くことに利があるため貞を取るが、離では「雌牛」と言い、雌牛は生息に利があるので貞を取らない。坤は生を助け、離は火であり、火は土を生じる。牛は土性なので、生息が絶えない象があり、「雌牛を養えば吉」と言うのである。

彖伝に言う。離とは付着することである。太陽と月は天に付き、百穀や草木は地に付く。明が重なり、正しさに付けば、天下を化成する。柔が中正に付くので亨り、したがって雌牛を養えば吉なのである。

離卦は上下とも火であり、「明が二つ起こるのが離」という象を取る。「離とは付着すること」である。離は火で、火は気を持つが定まった形を持たず、物に付くことでその形を現す。あらゆる物には付くところがある。「天に本づくものは上に親しむ」ので天に付き、「地に本づくものは下に親しむ」ので地に付く。天にある日月、地にある百穀草木は、いずれも明るさの象である。「明が重なる」とは離が重なること。離は中が空いているため明るく、正しい明の本体を得る。六二は離の主爻で、九五がそれを重ね、六二と結びついて明を完成する。だから「明が重なって正しさに付く」と言う。付く対象が正しいので、明に向かって政治を行い、天下を化成できる。「柔が中正に付く」とは六二を指す。六二は柔をもって柔位に居り、中であり正でもあり、付くべきところを得ているので亨る。離には互卦として巽と兌がある。兌の星位は酉にあり、その上には昴宿が当たる。昴の南には天苑という星があり、牛馬を養うことをつかさどる。その西には刈り草を示す六星があり、牛馬の食料となる草の蓄積をつかさどる。だから「雌牛を養う」と言う。雌牛は柔らかな性質で、人から草を与えられ牧われる。その付着には私心がない。私心のない付着こそ正しさの極みであり、正しいから吉なのである。天地に付くのは大きな亨り、雌牛を養うのは小さな亨りである。大小をともに挙げることで、付着の働きをすべて包み尽くしている。

この卦を人事に当てはめると、離は中が空いていることで成り、人の心もまた中が空いている。だから離は火であり、人の心も火である。離は明を取り、人の心もまた明を尊ぶ。火はもともと実体がなく、何かに付いて初めて炎を生じる。心も形がなく、何かに付くことで精神の働きを現す。目に付けば見ること、耳に付けば聞くこと、口に付けば食べることとなり、身体に付けば進退や立ち居振る舞いのすべてとなる。人の心には必ず付着するものがある。道に付けば正しく、欲に付けば邪となり、徳に付けば中正となり、利に付けば偏る。邪で偏ったものは必ず塞がり、中正なものだけが亨る。心にあるものが発して事となれば、付くものは皆その正を得る。一人の心から多くの人の心に及べば、天下に化さないものはない。人の心は空虚だから霊妙であり、霊妙だから明らかであり、明らかだから通じる。空虚でありながら霊妙でいられる理由は、柔の正を得ているからである。

離卦では柔が中央に居る。二つの剛爻が一つの柔爻を包むので、二つの剛爻で一つの柔爻を養うことになる。生き物の性質で柔らかなものは牛であり、雌牛は柔の中でもさらに柔らかく、最も飼いやすい。離は二爻によって坤の柔を得るので、坤は「牝馬」、離は「雌牛」と言い、いずれも柔を意味に取っている。これはほとんど、人に牧畜の道を教えているようなものである。

この卦を国家に当てはめると、上卦は政府、下卦は人民に属する。離は火で、火は上に燃え上がるので、威勢も徳も上から出る。離はまた孕むことを表し、孕みは生命を育てるので、下の民は皆その養いを受ける。離では二爻が主位、五爻が尊位であり、二と五はいずれも陰、上下は同じ体である。これは君臣が心を一つにし、朝廷と民間が志を合わせることを十分に示している。「離とは付着すること」で、物に付いて初めてその姿が明らかになる。「天には象を垂れ、地には形を成す」というのも、すべて付くものによって現れるのであり、国家の治まりの象も同じである。政令に付けば、宮門の楼に書を掲げること。刑罰に付けば、虎門で法を読み上げること。政とは正である。付着するものがもし正しくなければ、刑罰は適切でなく、民は怨みや誹りを増す。付着して正を得れば、政教が亨り、民は皆感化される。教化は近いところから遠くへ及び、天下に達する。そのこともここから称賛できる。「雌牛を養う」とは、その柔を養うことである。家畜を牧し民を治める道は、もとより同じである。孟子が言った「人の牛羊を預かって牧する」という言葉も、要するに民を治める者のために説いたのである。これを知れば、政治の道が得られる。

この卦を通観すると、離は坤から二爻を得、坎は乾から二爻を得ている。天地の働きにおいて、水火ほど重要なものはない。文王の序卦は乾・坤に始まり、中央に坎・離を置く。この二卦は天地の中気であり、上は乾・坤を受け、下は咸・恒へと開く。坎の中実は誠、離の中虚は明を表す。誠と明は易の理の妙用であり、聖人の心学である。明の根は身にあり、その働きは国家に現れる。

離は火である。飛ぶ蛍から燭火を見れば、燭火が明るい。燭火から群星を見れば、群星が明るい。群星から日月を見れば、日月が明るい。だから一方に偏った学問は蛍の明るさのようなもの、文人の学問は燭火の明るさのようなもの、賢人の学問は群星の明るさのようなもの、聖人の学問は日月の明るさのようなものである。聖人の明は、内に存して瑕がなく、働いて途切れることもない。明の極みである。明は空虚から生じる。中が実しているものは必ず暗く、光がない。明は柔によって現れる。剛が過ぎるものは必ず燃え上がって、やがて消える。

離卦は中が空しく柔らかい。柔が正を得るので、聖人は火で食を調え、天下を化した。天下がこれに化すことで、離の働きは正しく、離の道は亨った。六爻について推論しよう。初爻は始まりで、火が燃え始めるようなもの。始めには敬うべきなので「咎なし」と言う。二爻は中央にあり正位を得ており、太陽が真昼にあるようなもの。離の色は黄色なので「黄離、元吉」と言う。三爻は内卦の終わりにあり、明がまさに没しようとしている。夕暮れの太陽のように、喜びと悲しみが常を失うので凶である。ここまでが内側の三爻である。九四は内外二つの火の間にあり、火勢は燃え上がる。上卦は凶が多く、九四はその位に当たるので、「突然やって来る」災いがある。「焼かれ」「死し」「棄てらる」は、いずれもその凶を言う。六五は中を得て尊位に居り、外卦の主である。離が五爻に至ると、太陽で言えば光が重なる時、すなわち大人が明を継ぎ、長く照らす時である。盛んな時に憂い、危険を防ぎ、励んで政治を治めるので吉となる。上九は明の終わりに居る。離の道は成り、化は天下に及ぶ。それでも頑迷で化さない者があれば、武力に訴えざるを得ない。征伐によって礼楽の及ばないところを補うのである。首魁を滅ぼし、従う者を赦す。これが王者の軍であり、何の咎があろうか。これが外側の三爻である。全体として見ると、離卦は二爻と五爻の二つの偶が内外に応じている。二爻は盛んな時を踏み行う道を得、五爻は泰平を保つ恐れを抱く。ともに中の極み、正の極みに至り、吉を得る。象伝のいう「大人が明を継いで四方を照らす」とは、この二爻と五爻が得ているのである。

象伝に言う。明が二つ起こるのが離である。大人は明を受け継ぎ、四方を照らす。

「明が二つ起こる」とは、内外二つの離の象である。離は太陽だが、太陽と言わず「明」と言うのは、天に二つの太陽はないからである。離は六爻から成り、離を重ねた象である。日月の明は永遠に誤ることなく、大人の明は四方をことごとく照らし、忠と邪を分け、民の苦しみを知り、隠れた場所を照らし、長く続く。「大人」は徳について言う語で、王公の称号でもある。天地と徳を合わせ、日月と明を合わせる者である。「明を継ぐ」とは、内卦の離に外卦の離を継ぐことであり、すなわち「明が二つ起こるのが離」の意味である。明の働きが継続しなければ、時に暗くなる。だから『大学』の「明徳を明らかにする」、湯王の盤に刻まれた「日に日に新たにする」のようでなければならない。そうしてこそ明に向かって政治を行い、その光を四方に及ぼせる。

  【占い】
○ 戦争について問う。敵を破るには火攻めがよく、敵を防ぐ側もまた火攻めに備えるべきである。「二つ起こる」とは、前後が同時に焼ける恐れを示す。


○ 商売について問う。おそらく火に関係する商売で、硫黄の運搬・取扱い、電気を利用する事業、マッチ製造などであり、いずれも利がある。

○ 功名について問う。離は目を表すので、榜眼となる兆しがある。

○ 家宅について問う。この家は必ず新築で、前後が開け、窓から明るさが入り、外の四方も広々としている。大きな家柄か貴人の邸宅であり、吉。

○ 婚姻について問う。これは初婚の相手ではなく、必ず後妻である。夫の家はきっと貴族の家柄で、普通の庶民の縁ではない。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

○ 病気について問う。熱の勢いが非常に重く、一、二日のうちに魂が離散する恐れがある。

初九。足取りが乱れても、敬んで慎めば咎はない。

初九。足取り[146]が乱れても[147]、敬んで慎めば咎はない。

象伝に言う。足取りが乱れたときに敬んで慎むのは、咎を避けるためである。

初爻は内卦の始めで、日が昇り始め、黎明が現れる時であり、事を始める計画を立てる時である。「履」は足を踏み入れること、「錯然」は人との応接が入り乱れることをいう。事が次々と重なって来る時、敬いをもって処理しなければ、何をしても咎を招く。履卦には「虎の尾を履む」とあり、踏んでも恐れを知るので「吉」と言う。この卦には「履錯然」とあり、踏んでも敬うことができるので「咎なし」と言う。踏むことは同じである。禍福は多く微かな兆しに現れる。初めに慎めば、終わりに必ず禍はない。「君子は敬して失なし」という言葉もこの趣旨である。象伝の「錯を履むときの敬は、咎を避けるためである」とは、人が身をもって物事に接するとき、功を誇る必要はなく、何よりも咎を避けるべきだということ。避ける道は、ただ敬を保つことにある。

  【占い】
○ 戦争について問う。初爻は始まりで、三軍が出発し、旗や車の轍が入り乱れる時である。「敬」とは、事に臨んで恐れ慎むという意味である。戦は危険なことなので、慎重に行えば咎を免れることもあろう。あるいは「錯」は邪道の意で、横道から兵を進めるべきだともいう。


○ 商業について問う。必ず新しく始めた事業である。初九の爻辰は子で、北方・水に属し、卦位は南方・火にある。おそらく南北間の商売であろう。一時に大きな利益は望みにくいが、咎はない。

○ 功名について問う。詩経に「他山の石、もって玉を攻むべし」とある。助けを得て成し遂げるという意味である。

○ 家宅について問う。履卦に「履む道は坦坦、幽人は貞にして吉」とあるので、この家は必ず大道のそばにある。吉。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 友人某が運勢を占ってほしいと訪れ、離が旅に変じる卦を得た。

断じて言う。離とは火である。火の性質は盛んに燃え上がることで、その働きは明るくすることにある。暖を取り、また煮炊きもできるので、人の世に一日も欠かせないものである。人身に配すれば、火は心魂である。心魂があれば知覚が生じ、知覚があれば万事を計画し成し遂げられる。今、初爻を得たので、必ず事を計画し始めたばかりのことだと分かる。しかし火の功は大きい一方、火の災いも激しい。燃え始めの時こそ、特に慎重でなければならない。少しでも不注意なら初爻と四爻が応じ、四爻に及んで「突然やって来る」事態となり、これ以上の咎はない。だから戒めて「敬めば咎なし」と言う。この爻を得た以上、何を恐れるべきかを知るがよい。爻象では一爻が一年に当たる。三年後はちょうど四爻に当たるので、特に慎むべきであり、四年目には吉となる。

六二。黄離。大いに吉。

六二。黄離。大いに吉。

象伝に言う。黄離、大吉とは、中道を得ているからである。

二爻は陰爻で陰位に居り、坤の二爻として卦を成す主爻である。位は中正を得ている。彖伝のいう「柔、中正に麗く」とは、まさにこの二爻を指す。離は黄色を表すので「黄離」という。黄色は中央の色、離は文明を表す。中央に居て文明の徳を備えるので、「元吉」なのである。象伝は「中道を得る」という。離卦の六爻のうち、柔爻一つが剛爻二つの中に居て、中かつ正を得るのは二爻だけである。象伝が「中を得る」といい、「正」といわないのは、正しさがそこに自ずから備わっているからである。

  【占い】
○ 戦争について問う。離の二爻が変じると大有となる。大有の象伝には「大車もって載す。積むこと中にして敗れざるなり」とある。「大車」は兵車をいう。黄色は中央の色である。「中に積む」とは、本営の兵糧が充実していること、「敗れない」とは、兵士が勇健で勝利を得られることをいう。したがって吉である。


○ 商売について問う。離は南方の卦なので、南方での経営が有利である。黄色は土を表し、土は木を生じるので、土木関係もまた有利である。

○ 功名について問う。離は午の位にあり、文昌に当たるので、文明の象がある。功名は必ず顕れる。

○ 家宅について問う。離は火、土の色は黄色で、土は火の子である。これは、その家に優れた男子が生まれ、家名を盛り立てることを示す。吉。

○ 婚姻について問う。二爻は陰爻で陰位に居り、中正を得ている。夫婦が互いに従い合う、よい縁組を主る。吉。

○ 病気について問う。必ず中焦に内火が鬱結する病である。冷やして解く治療がよい。咎はない。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 ある人が、ある高貴で顕要な人物について占ってほしいと来訪し、離が大有に変じる卦を得た。

断じていう。離は火であり、また太陽である。その柔らかく暖かな気を得れば、枯れたものを吹き返し、生を回復させる力が自然に備わり、万物を温め育てる象がある。今、六二を得た。二爻は五爻と応じ、五爻は尊位である。ゆえに、この貴顕の人物は至尊を輔佐し、君臣が徳を一つにしていることがわかる。離には文明の徳があり、黄色は中央の色であるから、必ず中道を執って政治を治め、文明を開くであろう。ゆえに「黄離、元吉」という。

九三。日が西に傾いたときの離である。土器を打ち鳴らして歌わなければ、大いなる老いを嘆くことになる。凶。

九三。日が西に傾いたときの離である。土器を打ち鳴らして歌わなければ、大いなる老いを嘆くことになる。凶。

象伝はいう。日が西に傾いたときの離である。どうして長く続こうか。

九三は陽爻で陽位に居り、明から暗へ移る象なので「日昃」という。昃とは、太陽がまさに沈もうとすることである。「缶」は、腹が大きく口のすぼまった土器、すなわち甕である。離卦は上下が陽爻で中央が陰爻なので、その形が缶に似ているため、缶の象を取る。坎では「缶を用いる」といい、坎は中央が実しているので酒を盛る器として用いる。離は中央が空なので、打ち鳴らして音楽の拍子を取る。「缶を鼓して歌わない」とは、拍子のない歌を歌うことだ。離の互卦は兌で、兌は真西に属す。太陽は東から出て西に入り、西山に沈もうとするので、衰えた年齢、人生の晩景を表し、「大耋」の象を取る。八十歳を耋という。三爻は二卦の中央に居るので、年齢でいえば五十歳ほどであり、まだ大耋とはいえない。「嗟」は悲嘆の声で、老いる前から老いを嘆くことをいう。その歌は楽しみの節度を失い、その嘆きは悲しみの常道を失っている。悲喜に時節がなくなれば、精神は錯乱し、寿命も長く続かない。だから凶なのである。象伝の「どうして長く続こうか」とは、このように急に歌い、急に嘆く人は、天に魂を奪われたようなもので、とても長くはもたないという意味である。

  【占い】
○ 戦争について問う。「日昃」は、日が暮れようとしていること。軍中で長く歌い、大きく嘆くのは、いずれも規律を失うことであり、不吉の兆しである。特に敵軍の夜襲に注意せよ。


○ 商売について問う。周礼の地官・司市には「大市は日昃して市す」とある。大市では取引が多く、日が傾いてから市場に人が集まるという意味である。爻辞の「日昃の離」は、日が傾いた後に散ることをいう。市中は騒がしく乱れ、歌う者も嘆く者もあり、悲喜の度を失って本業を損なう。慎むべきである。

○ 功名について問う。年老いても成し遂げられず、ただ自ら悲しむことになる恐れがある。

○ 婚姻について問う。缶を打ち鳴らして歌う象であり、ともに老いることは望みにくい。凶。

○ 六甲について問う。女児が生まれるが、育てにくい。

【例】 友人が来て、「私はある女性と結婚するつもりだ。吉凶を占ってほしい」と言った。離が噬嗑に変じる卦を得た。

断じていう。爻辞は「日昃の離」という。離は離散であり、「日昃の離」とは、結婚した後に再び別れることをいう。「缶を鼓して歌う」は、失うことを恐れる象である。鼓さずに歌うのは、失うことを恐れるのではなく、必ず離別が生じるということである。「大耋の嗟」は、ともに老いることができないと嘆くことだ。この婚姻は、まず成就しない。成就したとしても、必ず離散する。吉ならざる兆しである。

その後、友人はこの占いを信じず、仲人を立てて結婚した。しかし間もなく家中の不和が原因で、また離別した。果たして占いのとおりになったのである。

【例】 明治三十年、わが国とフランスとの交際について占い、離が噬嗑に変じる卦を得た。

断じていう。離は甲、刀、矢を表し、いずれも戦争の武器を主る。離はまた火であり、火砲の用にも備える。今、フランスとの交際を占って三爻を得たのは、わが国が急いで武具・戦具を整えるべきことを示す。爻辞の「日昃の離」は、太陽が西へ傾こうとしていること。西方の国の運勢が盛んな時期であることがわかる。「鼓せずして歌えば、大耋の嗟あり」とは、歌うべきでない時に歌い、嘆くべきでない時に嘆く、つまり時機を失した処置をいう。国をよく謀る者は、時に先んじて備えを整えなければならない。みずから安逸に耽ることも、衰弱を示すことも、ともに避けるべきである。隣国と親睦を保ち、友好を修めて永遠の計を守ること、それが善策である。

九四。突然として来たり、突然として燃え、死し、棄てられる。

九四。突然として来たり、突然として燃え[150]、死し、棄てられる[151]。

象伝はいう。突然として来る。受け入れる場所がないのである。

「突然として来たり、突然として」というのは、剛暴な災いが予測できないことをいう。「焚けるように」とは、烈火が物を焼くような有様である。「死し、棄てられる」とは、身は滅び、名もまたついに廃棄されることをいう。四爻は上下卦の間にあり、下卦の火が消えかかる一方、上卦の火が再び燃え盛る。炎は上に燃え上がり、その勢いはことに激しい。「突」について、楊子の『方言』には「江・湘の人は、突然出会うことを突という」とある。「突然として来たる」とは、急に襲来して防ぐ暇がないことだ。「焚如」は住まいを焼くこと、「死如」は身を滅ぼすこと、「棄如」はこれを持ち上げて溝や谷に投げ捨てることをいう。焼かれ、死に、棄てられるという災いが連続し、その勢いは極めて凶悪である。九四は三つの火が次々に燃え移る際にあるので、凶の炎がこれほど激しいのである。象伝の「容るる所なし」とは、火炎が迫り、身を置く場所がないことをいう。四爻は初爻と応じる。初爻の火ならまだ災いを避けられるが、四爻の火は猛威を振るい、家を焼き、人を亡ぼし、身を容れる地さえなくする。ある説では、「突」は竈の煙突をいい、『漢書』の「その竈は直突なり」にいう突と同じだとする。「突然として来たる」とは、神を祭るとき神がそこにいるようにし、恍惚としてその来臨を見ることをいう。「焚如、棄如」とは、竈神がその悪を見て、この凶災を降すことだという。これも一説である。

  【占い】
○ 戦争について問う。陣営や砦が焼かれ、銃砲が激しく炸裂する災いがある。来襲の勢いは激烈である。厳重に警戒せよ。


○ 商売について問う。人も財もともに失う災いがある。身を隠して退避するのがよく、それで免れられるかもしれない。

○ 功名について問う。手を伸ばせば得られるほどの勢いはあるが、地位と名声が重くなるほど、受ける災いも激しくなる。隠退するほうがよい。

○ 家宅について問う。古説では「突」を不孝の子とする。この家には必ず親に逆らう子が生まれる。「焚」「死」「棄」はいずれも、その逆子の罪をいう。

○ 婚姻について問う。四爻が変じた体卦は艮で、艮は鬼冥の門である。また離の互卦は兌で、兌は刑人を表す。この婚姻は大いに不吉である。

○ 六甲について問う。女児が生まれるが、必ず育たない。

【例】 明治二十三年の春、友人が来て、その年の運勢を占ってほしいと頼んだ。

断じていう。九四は上下二つの火の間にあり、下の火が消えかかる一方、上の火が再び燃え上がる。火が上へ燃え盛るので、離卦では四爻が最も凶である。今、年運を占って四爻を得た。四爻は陽爻が陰位に居るため、外は剛強でも内は柔弱で、位も中正ではない。陰険で邪な者がその間に入り、事をもてあそぶことを主る。初めに気づかなければ、その勢いが燃え上がったとき、「突然として来たり」、災いは家族に及ぶだけでなく、わが身の皮膚や髪、肉体までもその害を受ける。野火が原を焼き尽くすように、消し止めることはできない。これを「焚けるように、死し、棄てられる」という。あなたは小人を厳重に警戒し、犬を養って手を噛まれるようなことをしてはならない。

その人はもともと気が弱く、あまり意に介さず、親族の若者に仕事を任せた。ところがその若者は、思いもよらぬ勝手な振る舞いをし、凶悪で毒々しかった。その人の家産はその者のために傾き潰れ、災いはなお収まらなかった。その人がようやく悔悟したときには、すでに遅かった。

六五。涙がとめどなく流れ、悲しみ嘆く。吉。

六五。涙[152]がとめどなく[153]流れ、悲しみ[154]嘆く。吉。

象伝はいう。六五の吉は、王公に親しく付き従うことにある。

六五は外卦の主であり、中を得て尊位に居り、二爻と応じる。象伝のいう「大人が明を継いで久しく照らす」とは、五爻を指す。離は目を表し、目から出るものを涙というので「涙がとめどなく流れる」という。また離の互卦である兌は口を表し、嘆きは口から発する低い声なので「悲しみ嘆く」という。「若」とは、まだ涙を流すべき時でないのに涙を流すように見え、まだ嘆くべき時でないのに嘆くように見えること、つまり憂い悲しむ様子を描写したものである。九三は楽しみが尽きて悲しみが来る「大耋の嗟」であり、凶兆となる。九五は憂いが盛んで危険を深く考える。「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という姿であるから吉である。象伝が「離の五は公なり」というのは、九五が王公の位だからである。

  【占い】
○ 戦争について問う。爻辞の「沱若」「嗟若」から、事に臨んで恐れる心がある。戦は危険な事である。恐れれば謀を立て、謀を立てれば勝利を制することができる。ゆえに吉である。


○ 商売について問う。この経営は王家の商務か公的事業であって、庶民の私的な商いではない。だから「王公に親しく付く」という。事業もまた、苦労と困難を経て成し遂げられる。

○ 功名について問う。宰相の位に至り、きわめて高貴で顕要となる。しかし一身の憂労は倍増する。武侯が身をかがめて力を尽くし、死ぬまで働いたようであれば、吉である。

○ 婚姻について問う。この縁組はきわめて貴いが、先に声を上げて泣き、後に笑う象がある。

○ 六甲について問う。女児が生まれる。難産に注意すれば、最後は吉となる。

【例】 ある豪商の運勢を占い、離が同人に変じる卦を得た。

断じていう。五爻は尊位に居る。国にあっては一国の君、家にあっては一家の主、郷にあっては一郷の望みである。爻辞の「涙がとめどなく流れ、悲しみ嘆く」とは、事の前にあらかじめ謀り、危険を防ぎ、盛んな時ほど危うさを考え、万全を期してあらゆる手立てを尽くす者をいう。これは老練で経験を積んだ者でなければできない。あなたがこの爻を得たのは、これまで幾多の苦労を重ねてきたからであり、平素に悲泣し嘆く様子がどれほど切実であったかがわかる。しかし、その明を継ぐ徳によって事の機微を見抜き、家業を守り、親族の若者に欺かれずに済むのである。ゆえに吉。

上九。王が出征に用いる。首魁を討ち取る功があり、徒党は捕らえても罰しない。咎はない。

上九。王が出征に用いる。首魁を討ち取る功があり、徒党は捕らえても罰しない。咎はない。

象伝はいう。王が出征するのは、国を正すためである。

「王」は六五を指し、「用いる」とは上九を指す。離は兵器を表すので、「出征」に用いる。「首」は首魁、「丑」はその一味をいう。「嘉」は功を賞すること。賞されるのは首魁を討ち、徒党にまでは及ぼさないことである。書経にいう「その渠魁を滅ぼし、脅されて従った者は治めず」とはこれである。九三は下卦の上に居て上九と敵対し、王化に従わず、民の生活を害している。そこで上九は命を奉じて出兵し、天下の害を除き、その首悪を捕らえて誅殺する。残りの徒党はすべて赦免する。これはまさに民を憐れみ罪を討つ、王者の軍である。どうして咎があろうか。象伝の「国を正すため」とは、湯王が葛伯を討ち、文王が昆夷を討ったように、乱を平らげ国を安んじることだけを目的とするという意味である。決して戦争を好んで兵を疲弊させるのではない。

  【占い】
○ 戦争について問う。爻辞がすでに明らかに示している。王者の軍はみだりに人を殺さず、この道を得るのである。


○ 商売について問う。商品の売買では、上等で良質な品を選び、低劣なものは取らなければ、利益を得られる。

○ 功名について問う。必ず第一に選ばれる。吉。

○ 病気について問う。「折」は夭折、早死にをいう。不利である。

○ 妊娠について問う。女児が生まれる。

【例】 明治七年三月、佐賀の乱が起こり、朝廷が軍を発して討伐しようとしていたころ、陸軍大佐某と中佐某が連れ立って来て、「今まさに出兵しようとしている。どうか一占をお願いしたい」と言った。離が豊に変じる卦を得た。

断じていう。爻辞の「王、用いて出征す」は、今日の事にまさに適合する。佐賀の乱の反乱者の中には、必ず主謀者、すなわち乱の首であり罪の魁である首魁がいる。その罪は赦すことができない。一時これに応じて蜂起した者たちは、脅されて従った徒党である。今、佐賀で反乱が起こり、討伐軍を派遣するにあたり、わが天皇は神機妙算を備え、平素から人を殺すことを好まない心を抱いているので、必ず天下に布告するであろう。「兵を起こし乱を唱えた罪は一人にある。朕は必ずこれを捕らえて誅殺する。その他の者は問わない。渠魁を捕らえた者には必ず最高の賞を与える」と。これは爻辞のいう「首魁を討ち取る功があり、徒党は捕らえても罰しない」とまったく同じである。上九は九三と応じるので、上九は王師であり、敵は必ず九三に属する。九三は「日昃の離、どうして長く続こうか」という。今回の行軍は、馬が到着すれば功を成し、数旬も経たないうちに平定されるに違いない。

その後、まだ一月も経たないうちに、渠丑は誅殺され、佐賀はついに平定された。