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連山易
連山易
――清・馬国翰
『連山易』 附:『古三墳』『連山易通考』
『連山』
清・馬国翰輯
馬国翰序:『連山』一巻、残欠す。『周礼・春官・太卜』を案ずるに、「『三易』の法を掌る。一に曰く『連山』」とある。鄭玄注に、「名を『連山』というのは、山が内気を出し入れして変化するようだからである。」賈公彦は注疏でいう。「この『連山易』は、その卦に純粋な艮を首とする。艮は山であり、上も山、下も山であるので、『連山』と名づける。雲気が山から出入りするため、易を『連山』と名づけたのである。」またいう。「夏は十三月を正月とし、人統に従った。人が卦を首とする道理はない。艮は次第に正月に当たるので、艮を首としたのである。」桓譚『新論』に、「『連山』は八万言」とある。おそらく後漢時にはこの書はなお存在し、君山はそれを見ていたが、伝える者は非常に少なかった。そのため『漢書・芸文志』『隋書・経籍志』はいずれも著録せず、『唐書・芸文志』には司馬膺注の『連山』十巻が載る。『北史・劉炫伝』を考えると、「当時、牛弘が天下の遺逸の書を買い求めるよう奏上した。劉炫はそこで百余巻の書を偽造し、『連山易』『魯史記』などと題して記録を上奏し、賞を求めて立ち去った。後人がこれを訴えたが、赦免を受けて死罪は免れ、罪により除名された」とある。劉炫が偽造した『連山』が存在し、司馬膺注本が唐代になって初めて現れた以上、後世の儒者が疑問を呈したのには理由がある。しかし、皇甫謐『帝王世紀』、酈道元『水経注』、李淳風『乙巳占』はいずれも『連山』を引用している。謐は晋人、道元は北魏人で、いずれも劉炫より前の人物である。淳風が引用する「姮娥月に奔る、枚筮して黄あり」は張衡『霊憲』と同じであり、まさしく古代の逸文である。他の文は韻をもって爻辞とし、『易林』にかなり似ている。たとえ古経でないとしても、『三墳』に載る『山墳』や、毛漸の手による序とされる『連山』とは、まったく比べものにならない。梁の元帝にも『連山』三十巻があった。段成式は、各卦が『帰蔵』『斗図』『立成』『委化』『集林』および焦贛の『易林』を引いていると述べた。今ではすでに散佚しており、あるいは後人の引用では区別できなくなったのであろうか。ここに諸書の引用と諸家の論説を輯めて一巻とし、朱元昇・薛貞二家の説は、本書に見えるもの、または先の制度に合うものを取り、正経の下に付した。これに触れて広く敷衍すれば、学を好み深く考える者はよく会得するであろう。歴城の馬国翰、字は竹吾。
『連山』
1、剝
上七曰:数窮まりて剥に至り、終わりに吝なり。――黄佐『六芸流別』には「曰」字と「吝」字があり、羅泌『路史』には「而」字がある。
象曰:剥に至りて終わるは、また変を知らざるなり。――黄佐『六芸流別』には「曰」字および上句があり、羅泌『路史』には「亦」字がある。
2、復
初七曰:龍は神に潜み、復して以て身を存す。淵として畛なく、操として垠なし。――羅泌『路史』には「曰」字がなく、黄佐『六芸流別』には「復上七曰:龍は淵に潜み、神を存して畛なし」とある。
象曰:復して以て神を存すれば、用を致すべし。――『六芸流別』には「与」字がなく、『路史』には上句がなく、「象、与に用を致すべし」とする。
3、姤
初八曰:龍は蛇に化し、あるいは窪に潜む。これぞ孽の牙なり。――『路史』には「初六」とあり、「曰」字がない。『六芸流別』には「姤初八曰:蛇を窪に潜め、これ孽の牙なり」とある。
象に曰く:「陰は牙を滋す。長ぜしむべからず。」——『六芸流別』の引用には「与」の字がなく、『路史』の引用には「曰く、陰は牙を滋す」の四字がなく、「象:長ぜしむべからず」とある。
4、中孚
初八:一人女を知る、なお去るべし。——黄佐『六芸流別』
象に曰く:「女来たり帰す、孚は中ならざるなり。」——同上
5、陽豫
6、遊徙——羅苹『路史注』:「『春秋演孔図』にいう:『孔子が『春秋』を完成させ、これを卜うと、陽豫の卦を得た』。」『史記』にいう。「始皇帝は鎬池君の璧を得た。それには『明年、祖龍死す』とあった。これを卜うと、遊徙の吉を得た。陽予・遊徙は、『連山』の卦である。」
7、崇伯の鯀は羽山の野に伏した。——酈道元『水経注』
8、鯀は崇に封ぜられた。——裴駰『史記集解』
9、禹は塗山の娘を娶り、名を攸女といい、啓を生んだ。——皇甫謐『帝王世紀』、『太平御覧』巻一百三十五。
10、馮羿という者が西王母から不死の薬を得た。姮娥はそれを盗んで月へ奔った。行こうとして、有黄に枚筮した。有黄はこれを占って言った。「吉。ひらひらと帰妹し、独り西へ行く。天の晦芒に逢うが、恐れるな、驚くな。後には大いに栄える。」姮娥はついに身を月に託した。――李淳風『乙巳占』
11、陽文啓が大陵の上で神を享ることを筮した――(案:この条は出典の注記がない)
12、帝は震より出で、巽にて斉い、離にて相見え、坤にて役を致し、兌にて喜びを言い、乾にて戦い、坎にて労し、艮にて言を成す。
——干宝『周礼注』に引いていう。「これは『連山』の易である。」羅泌『路史・発揮』にも同じことをいう。
13、父に同じく復し、君の所にあるがごとく敬う。——『春秋左伝』。閔公二年、魯の史官が楚丘の父のために卜い、筮して大有が乾に変ずる卦を得た。程迥『古占法』はこれを引いていう。「これはまさに二易の辞である。」
14、千乗三たび去り、三たび去った余りに、その雄狐を獲る。——『春秋左伝』。僖公十五年、晋の卜徒父が筮し、卦に蛊を得た。
15、南国蹙まり、その元王を射て、厥の目に中てる。——『春秋左伝』。成公十六年、鄢陵で戦い、公がこれを卜うと、史官はいう。「吉。その卦は復に遇う。」顧炎武『日知録』はこの二節を引いていう。「すなわち、いわゆる三易の法である。」ここに付す。
朱元昇は『三易備考』で述べている。「『連山』は二篇から成る。復から乾までは陽儀、姤から坤までは陰儀であり、その策数は一千五百二十である。『繫辞』二篇の末にも一千五百二十とあるが、これは『連山』の策数を挙げて言ったものである。
また述べている。『連山易』は夏の時制が規範としたものである。『尭典』の一書にある『羲和に分命す』もまた夏の時制が規範としたものである。『書』によって『易』を考証すれば、その意義は同じである。」『書』には、「日中には星の鳥が現れ、それによって仲春を定める」「日は長く星の火が現れ、それによって仲夏を正す」「宵には星の虚が現れ、それによって仲秋を定める」「日は短く星の昴が現れ、それによって仲冬を正す」とある。これはおそらく、仲季の星を取り上げて四時を定めたものである。今、『連山易』によって二十八宿を配すると、冬至は卦が復、宿が虚、夏至は卦が姤、宿が星、春分は卦が臨、宿が氐・房、秋分は卦が遯、宿が昴となる。四時の二至二分において、卦をもって宿を定めるのは、まさに『尭典』の中星である。
また述べている。「長・分・消・翕の理は『連山易』にある。至精・至変・至神の道理がそこに宿っている。乾と坤は対し、乾の長はすなわち坤の消、乾の分はすなわち坤の翕である。坤の長は乾の消、坤の分は乾の翕である。兌と艮、離と坎、震と巽も相対する。残る五十六卦も二つずつ相対し、長・分・消・翕はすべて八卦に準じる。
薛貞は述べている。『連山』では乾は子に始まり、坤は午に始まる。これは先天の小図と合う。また艮・震・巽・離・坤・兌・乾・坎の順序を取る。
諸家の論説を付す
1. 『周礼・太卜』にいう。「三易の法を掌る。一に『連山』、二に『帰蔵』、三に『周易』という。その経卦はみな八、別卦はみな六十四である。」またいう。「筮人は三易を掌り、九筮の名を弁ず。一に『連山』、二に『帰蔵』、三に『周易』という。」
2. 『山海経』にいう。「伏羲氏は『河図』を得た。夏后氏はこれに因って『連山』といった。」
3. 杜子春はいう。「『連山』は宓犧である。」
4. 桓譚はいう。「『連山』は八万言、『帰蔵』は四千三百言である。夏の『易』は煩雑で、殷の『易』は簡略である。」またいう。「『連山』は蘭台に蔵された。」
5. 鄭康成はいう。「『連山』は山が気を出し入れするようなもので、変である。」
6. 淳于俊はいう。「『連山』は山が気を出し入れし、天地を運び連ねるようなものである。」
7. 姚信はいう。「連山氏は『河図』を得た。夏人はこれに因って『連山』といった。」
8. 阮籍はいう。「庖犧氏は六十四卦の変を布き演じ、後世の聖人はこれを観て因り、象を取り用いた。禹・湯の経はすべて現存するが、上古の文は残っていない。」
9. 皇甫謐はいう。「夏人は炎帝に因って『連山』といった。『連山易』は純艮を首卦とする。艮は山であり、山の上に山、山の下に山なので、『連山』と名づける。雲気は山から出入りする。夏は十三月を正月とし、人統に従う。艮は漸次に正月を正すので、艮を首とする。」
10. 梁の元帝はいう。「杜子春は『連山は伏羲である。『帰蔵』は黄帝である』。」『礼記』を按ずるに、「我、殷の道を観んと欲し、坤乾を得たり」とある。今の『帰蔵』は坤を先に乾を後に置くので、殷のものであることが明らかに分かる。『帰蔵』が殷制に結びつく以上、『連山』は理において夏の書である。
11. 孔穎達はいう。「『連山』は神農に始まる。」またいう。「周代の卜は、『連山』『帰蔵』『周易』を雑用した。『連山』『帰蔵』は不変を占い、七八の爻を占った。二易はいずれも滅びたため、実際にそうであったかは分からない。」
12. 賈公彦はいう。「『洪範』に『卜筮人を三人選び立て、占いは二人の言に従う』とある。これは筮の時に『連山』『帰蔵』『周易』の三易を併用したからである。夏・殷は不変を占い、『周易』は変を占い、三人がそれぞれ一易を占った。『士喪礼』には、宅地の東西を筮して『旅占』するとある。旅とは衆であり、その属と共に占うのである。」『春秋演孔図』にいう。「孔子は『春秋』を修め、九か月で完成した。これを卜すると陽豫の卦を得た。」宋均の注にいう。「これは夏・殷の卦名である。だから現在の『周易』にはその文がない。」このことから、孔子もまた二代の筮法を用いたのである。
13. 劉敞はいう。「その背を艮め、その身を得ず」は人の道である。寅を正とし、穆姜が筮した時、『艮』の八に遇い、これは『艮』が『随』となるものだった。これが『連山』の易である。」
14. 邵子はいう。「夏は建寅の月を正月とし、これを人統といった。『易』を『連山』といい、艮を首とするのは、人を表すからである。」
15. 方慤はいう。「『連山』は艮を首とする。その卦は内外を備えて一体となり、その位は東北の二間に居るので、人の時に向かう。夏は人正を用いたため、その書もこれによった。」
16. 黄裳はいう。「幽を闡くのは易の仁である。ゆえに夏は『連山』といい、その仁を象によって述べたのである。山は静かでありながら万物を生じ養うもの、仁の道を有するものである。」
17. 沈括はいう。「卦爻の辞はすべて九・六を用いるが、『連山』『帰蔵』だけは七・八を占いに用いる。」
18. 陸佃はいう。「『連山』は艮に始まるので『連山』という。『易』のいう『兼山』がこれである。先儒は雲気が山から出て連綿として絶えない象だとしたが、そうではない。」またいう。「『連山易』は長安のある家にあり、その卦はすべて縦である。」
19. 邵博はいう。「『連山易』の意味は甚だ浅い。これは劉炫の偽書ではないか。」
20. 李綱はいう。「『連山』『帰蔵』は静を占いの根拠とするので、爻を七・八と称する。七・八は少陰・少陽の数である。陰陽の少は虚で満ちていないため、静で変わらない。」
21. 朱震はいう。「『連山』が艮を首とするのは、八風が不周に始まり、実に西北の方に位置するからである。それは七宿の次第では東壁・営室に当たり、辰では亥、律では応鐘、時では立冬である。これは顓頊の暦であり、十月を首とした理由である。」
22. 郭雍はいう。「夏易を『連山』、商易を『帰蔵』という。夏商易と呼ぶのは、その時にはまだ易という名がなかったからである。」
23. 張行成はいう。「夏は『連山』といった。天易であり、『太玄易』はこれに取る。」
24. 鄭諤はいう。「『周易』は九・六を占いに用い、『連山』『帰蔵』は七・八を占いに用いる。『周易』はその変を占い、『連山』『帰蔵』はその不変を占う。」
25. 鄭樵はいう。「『連山』は夏后氏の易であり、唐代に至って初めて現れたが、今は失われている。」
26. 程迥はいう。「『連山』『帰蔵』は数は『周易』と同じで、辞は異なるはずである。先儒が『周易』は変を占うとしたのは誤りである。『連山』『帰蔵』は不変を占うとしたのも誤りである。古代の筮者は三易の法を兼用した。衛元の筮は『屯』に遇い、『侯を見るに利あり』といった。これは『周易』が不変を占った例である。」季有の筮は『大有』が『乾』に変わるものに遇い、「同じく父に復し、君の所にあるがごとく敬う」といった。これは明らかに二易の辞である。乾に変わったので変爻を用いた。したがって『連山』『帰蔵』も、あるいは変を占ったのである。
27. 程大昌はいう。「『周官』は三易を記す。その経卦はみな八、別卦はみな六十四である。『連山』は夏、『帰蔵』は商である。夏・商の時代には、八卦はすでに六十四卦に分けられていた。」
28. 蔡元定はいう。「『連山』は艮を首とし、『帰蔵』は坤を首とする。その作用は必ず『周易』と大いに異なったであろうと思われるが、その道は同じである。」
29. 鄭東郷はいう。「庖犧から夏・商に至るまで、八卦は重ねられていたが、七・八・九・六の長変をまだ知らなかった。『連山』は艮に始まり、『帰蔵』は坤に始まる。夏・商はこれを用い、いずれも不変を占い、その数は六十四にとどまった。」
30. 羅泌はいう。「炎帝神農氏は司怪に卜を主らせ、巫咸・巫陽に筮を主らせた。そこでその変を通じ、天下の文を成し、その数を極めて天地の象を定めた。八八によって卦を成し、酬醡して神を助け、天下の志を通じ、天下の業を定めた。万物を始め万物を終えるものは、艮より盛んなものはない。艮は東北の卦である。ゆえに艮を重ねて始めとした。これがいわゆる『連山易』である。」
31. 羅苹はいう。「『連山』の文は禹の時代の作である。」
32. 陳藻はいう。「夏に『連山』があった。筮はここに始まるのだろうか。」したがって、夏が虞に取って代わる前に、舜の朝廷にはすでにこれがあった。
33. 李過はいう。「『易鈔』に『天地ありて、しかる後に万物あり』とある。夏易は艮を首とするので、物が天地に先立つことになる。夏易が伝わらなかった理由について、その説は確かに善いが、なお軽率な議論のそしりを免れない。夏・商・周の易は首卦が異なるが、おそらく三統の意義を託したのである。夏后氏は寅を建て、正月を歳首とし、人紀とした。天地の二十四位のうち、艮は寅に連なり、万物は艮で終わり、また艮で始まる。夏正は寅を建て、寅に連なるので、艮を首としたのである。」
34. 劉炎はいう。「ある人が『連山』『帰蔵』の真偽を問うた。答えていう。『漢志』は『連山』を録せず、『唐志』にはある。『漢志』は『帰蔵』を録せず、晋の『中経』、隋・唐の『志』にはある。昔はなく今あるのだから、その偽であることは分かる。ましてその言が経典にかなわないではないか。」
35. 王応麟はいう。「『連山』は艮を首とする。艮は万物の終始するところである。八風は不周に始まり、卦気は中孚に始まる。冬至は暦の元、黄鐘は律の本である。『太玄』は日を牛宿に記し、気を中首に記し、罔冥に終わる。元艮において万物の終始を記すのである。」またいう。「思うに、夏・商の卦の下にもそれぞれ辞があったので、周人は併せて保存し、占いに用いたのであろう。」
36. 黄寅炎はいう。「『連山』は庖犧の先天易である。」
37. 朱元昇はいう。「『連山』は三易の首である。」 また述べている。「『連山』の作は、図書からも規範を取った。」また述べている。「『連山』は伏羲が作り、夏が用いた。『帰蔵』は黄帝が作り、商が用いた。周公が成王を補佐し、官を設け職を分け、太卜・筮人に『周易』と併せて掌らせた。周が『周易』を用いたからといって、『連山』『帰蔵』を無用として廃棄したのではない。」また述べている。「『周礼疏』で賈公彦は『連山』の意義を釈していう。『連山は純艮を首とする。艮は山であり、山の上に山、山の下に山、これが連山という名である。』」賈氏の疏を『説卦』の辞に照らして考えると、夏時の候は夏が寅を建てて正とし、純艮はまさに立春に応じる。春は時の首であるから、艮が『連山易』の首となったのであろうか。『漢書・律暦志』は三統を述べ、人統は寅、木であるという。太蔟律の長さは八寸で、八卦を象る。これは伏羲氏が天地に順い、神明に通じ、万物を類した所以である。これによって、庖羲氏も寅を正とし、夏后氏はこれに因っただけだと分かる。公彦が『連山』は伏羲が作り、夏后がこれに因ったと言ったのは、この意味である。 また述べている。「『連山易』は失われて久しい。『周礼』によってその名が残り、『説卦伝』によってその意義が残り、夏時によってその用が残った。」
38. 金履祥はいう。「『連山』『帰蔵』の辞はもはや考証できない。学者は、邵氏の互体や『既済』などの卦図が『連山』の遺法であり、後世の納甲・帰魂の法が『帰蔵』の遺法だという。」
39. 胡一桂はいう。「『連山』十巻は『唐・芸文志』に見える。唐以前にはその書は存在しないので、唐の『連山』は隋代の偽書らしい。」
40. 呉澂はいう。「『連山』は夏の易である。」
41. 呉莱はいう。「易占は変を用いるので、その数は九・六だけを用い、老を尊ぶ。『連山』『帰蔵』は不変を占うので、その数は七・八だけを用い、少を尊ぶ。」『連山』は七で艮を首とし、『帰蔵』は八で坤を初めとする。これも結局は伏羲の旧法にすぎない。用いる策数を推せば、『連山』は三十六、『帰蔵』は四十六、『易』は四十九であり、互いに用を同じくしないようでもある。
42. 朱隠老はいう。「『連山』は神農の易である。艮を首とし、寅を建てる者はみなこれを宗とする。唐・虞もそうであり、夏后氏だけではない。」
43. 雷思斉はいう。「『連山』『帰蔵』の易は筮法は同じだが、爻辞は異なる。」
44. 朱升はいう。「『連山』は艮を首とする。終始の際である。」
45. 王禕はいう。「易は伏羲が初めて八卦を画したことに始まり、それによって重ねて六十四卦とした。当時はおそらく図があって書はなかった。後の聖人はこれに因って『連山』『帰蔵』『周易』を作った。いずれも伏羲の図を根本としたが、その用い方はそれぞれ異なった。」
46.何喬新は言った。「『唐芸文志』には『連山』十巻があり、長孫無忌の次序・解説によるものだとある。文章には欠落や誤りが多く、その書はとうに伝わらなくなっている。しかし、これを求めれば、なお論じうるものがある。いわゆる『山を兼ねる艮』こそ、『連山』の遺意である。六爻はすべて人の象を別々に示している。書は失われても、象から推し量ることはできる。
47.王道は言った。「『連山』は艮から始まる。諸説は皆、艮は寅の位にあり、寅を建てる意味に合うと言うが、これは全く正しくない。艮が寅にあるのは文王の後天卦位である。夏がどうしてそれをあらかじめ取り入れられようか。」そして六爻はいずれも人道に属するのに、ただ艮だけが首位にあるのはなぜか。三つの陰卦については論じるまでもない。震は二陰の下で一陽が動き、坎は二陰の中に一陽が置かれている。いずれも人道の正道に十分には当たらない。ただ艮だけは、二陰の上に一陽が止まっており、一君二民の象にかなうだけでなく、「止まることによってのみ衆を止められる」という妙理にも深く適合する。これこそ人道の最善であり、艮を首位に置くのはこのためである。
48、湛若水は言った。夏の『連山易』では、止まることを知るのが始終を貫く要であり、程子が艮卦を採ったのもそのためである。
49.孫宜は言った。「『連山』を解する者は、山から雲が出るように連綿として絶えないものだと言う。しかし、雲が連綿と出ることだけで、天下の道理をどうして尽くせようか。また、八卦は順序に従って循環し、『連山』『帰蔵』にもそれぞれ順序があるが、その意味はまだ備わっていないとも言う。
50.胡応麟は言った。「十巻の『連山易』は『唐芸文志』に見える。班氏によれば、六経の首は『周易』であり、夏・商の易はその内容がまったく異なる。」隋の牛弘は天下の逸書三十七万巻を買い集めた。魏文成らが『隋史』を編纂した際、晋・梁以後の散佚した篇名はすべて載せたのに、『連山』なるものについては一言も聞かれない。唐になって初めて現れたというのは、ありうるのか。『北史・劉炫伝』には、隋の文帝が図籍を捜し求めたため、劉炫が偽造した『連山』と『魯史記』を献上したとある。馬端臨はこれに基づき炫の作としたが、あるいはそうであろう。炫は後に事が発覚して除名されたので、『隋志』には収録されなかった。しかしその書は後世にもなお伝わり、開元年間、群書を盛んに集めた際に、宮中に収められたにすぎない。
51.沈懋孝は言った。「夏の易は艮から始まり、終わりを成就して、震から生じる働きを孕む。
52.郝敬は言った。「『連山』の六画は艮卦である。艮は山を意味し、上下に二つの艮があるので『連山』という。
53.焦竑は言った。「『連山』は艮である。夏の時代、学問を講じる者が重んじたのは止まることであった。
54.孫奇逢は言った。「『連山』は艮から始まる。艮は止まること。天下の事は行うことによって日々新たになるのではなく、止まることによって日々新たになる。時に応じて止まるからこそ、時に応じて行えるのである。始めと終わりを成就するという意味である。」
55.黄宗炎は言った。「桓譚は『連山』八万言、『帰蔵』四千三百言と言った。これは殷の書と『周易』を合わせた夏の文章が、文王・周公の辞のほぼ二十倍もあったということなのか。どうしてそれが古代の冊書でありえようか。この説を唱える者は、古今を貫く道理も理解していない。」
56.顧炎武は言った。「『連山』『帰蔵』は易ではない。『周官』が『三易』と言うのは、後人が易の名を借りてそう名づけたのである。これは『墨子』が周の春秋、燕の春秋、宋の春秋、斉の春秋と言うのと同じだ。周・燕・宋・斉の史書は、すべてが『春秋』なのではないのに、『春秋』と呼ぶのは魯の史書の名を借りたからである。
57.尤侗は言った。「『連山』は艮から始まり、『帰蔵』は坤から始まる。卦の序列は少し異なるが、卦名は一度も異なったことがない。」
58.黄与堅は言った。「易とは周が名づけたものである。したがって『連山』『帰蔵』も周が易と名づけ、『三易』と呼んだのである。
59.朱彝尊は言った。「毛漸が序した『三墳』では、最初に『山墳』を置き、それを伏羲が作った『連山』の易だとしている。」その象には、崇山君・伏山臣・列山民・兼山物・潜山陰・連山陽・蔵山兵・畳山象などの意味があるという。その言葉は、「天皇が初めて八卦を描き、『連山』を易と名づけ、君・臣・民・物・陰・陽・兵・象が初めて世に明らかになった」とする。荒唐無稽で、信ずるに足りない。 また言う。「杜子春によれば、『連山』は宓羲、『帰蔵』は黄帝であり、姚信は『列山』を神農とした。しかし班孟堅の『古今人表』は、聖人の列に宓羲・神農・黄帝を載せ、仁人の列に列山・帰蔵を記している。それなのに、どうして再びこのように現れるのか。
古三墳
古三墳序
宋・毛漸
『春秋左氏伝』にいう。楚の左史である倚相は、『三墳』『五典』『八索』『九丘』を読むことができた。」孫安国は『書』を叙して、伏羲・神農・黄帝の書を『三墳』といい、大道を説いたものだと述べた。『漢書・芸文志』は古書を詳しく記録しているが、三墳の書はすでに載せられていない。これらの書は漢代に失われたということなのだろうか。元豊七年、私は使者として西京に赴き、属邑を巡察した。その途中、唐州の泌陽へ向かう道には駅亭がなかったので、民家に泊まって食事をした。戸口に「『三墳』の書を某人が借りていった」と書いてあった。私は急いで主人を呼び、そのことを尋ねた。主人は言った。「古い『三墳』です。某家が実際にこの書を所蔵しています」と。そこで取り出して読ませた。『三墳』にはそれぞれ『伝』がある。『墳』は古文で、『伝』は隷書で書かれている。その言葉は簡潔で道理が明瞭なので、後世の人が作れるものではないのではないかと思われた。借りて帰り、写し取った。時折、好事家に見せると、しばしば偽書だと指摘された。しかし、なぜ『墳』が三つあるのかを考えると、山・気・形によって区別したものらしい。『山墳』は君・臣・民・物・陰・陽・兵・象を述べ、『連山』と称する。『気墳』は帰・蔵・生・動・長・育・止・殺を述べ、『帰蔵』と称する。」『形墳』は天・地・日・月・山・川・雲・気を述べ、『乾坤』と称する。これは先儒が『三墳』を説いたものとは大いに異なる。いずれも意味の類に従って配列され、天地の理を曲りなりにも究め尽くしている。さらに『姓紀』『皇策』『政典』などの篇もある。文辞は質朴で簡略であり、まことに上古の遺書である。『胤征』は『政典』を引用して言う。「時に先んじる者は赦なく殺し、時に及ばない者も赦なく殺す。」孔氏はこれを夏后の政治の典籍だとしており、かなり『書』と合う。どうして後人が偽造できようか。世人はただ、この書は漢代にはすでに亡び、後世にあるはずがないと言う。さらに『尚書』は漢初に重く買い求められたが得られず、武帝の時になって初めて屋壁の中から現れた。どうしてそれだけで偽書と断じられようか。私はこの書を考証し、すでに篤く信じるに至ったので、好事を愛する君子たちに伝えようと思い、ここに序を書く。
山墳 天皇伏羲氏 連山易
爻卦大象:
崇山君 君臣相 君民官 君物龍 君陰后 君陽師 君兵将 君象首
伏山臣 臣君侯 臣民士 臣物亀 臣陰子 臣陽父 臣兵卒 臣象股
列山民 民君食 民臣力 民物貨 民陰妻 民陽夫 民兵器 民象体
兼山物 物君金 物臣木 物民土 物陰水 物陽火 物兵執 物象春
潜山陰 陰君地 陰臣野 陰民鬼 陰物獣 陰陽楽 陰兵妖 陰象冬
連山陽 陽君天 陽臣干 陽民神 陽物禽 陽陰礼 陽兵譴 陽象夏
蔵山兵 兵君帥 兵臣佐 兵民軍 兵物材 兵陰謀 兵陽陣 兵象秋
畳山象 象君日 象臣月 象民星 象物雲 象陰夜 象陽昼 象兵気
太古河図代姓紀
清らかな気はまだ昇らず、濁った気はまだ沈まず、遊ぶ神はまだ霊妙ではなく、五色もまだ分かれていなかった。その中に物があり、冥冥として本性を保っていた。これを混沌という。混沌は太始である。太始とは元胎の萌芽である。太始の数は一。一は太極である。太極とは天地の父母である。一極が易である。天は高く明るく清く、地は広く厚く濁っている。これを太易という。太易とは天地の変化である。太易の数は二。二は両儀である。両儀とは陰陽の形であり、これを太初という。太初とは天地の交わりである。太初の数は四。四が易に満ち、四象が変化して万物を成す。これを太素という。太素とは三才の始まりである。太素の数は三。三が易に満ち、天地が孕んで男女を生む。これを三才という。三才とは天地の備わりである。遊神が動いて霊妙となったので、飛ぶもの、走るもの、潜むもの、化するもの、動くもの、植わるもの、虫、魚の類が、必ず天地の間に備わった。これを太古という。太古とは生民の始まりである。太古の人は皆長寿で、易が満ちて初めて三男三女が生じた。冬に集まり夏に散じ、鳥・獣・虫・魚・草・木の実を食べ、男女が精を交えて、女から生まれた子を姓とした。初めは三頭で、これを合雄紀という。子を生むこと三世代。合雄氏が没すると、子孫が相伝してその寿命を記し、これを叙命紀という。通じて四姓を紀し、子を生むこと二世代であった。男女が多くなり、群れ住んで連なって逃れ、強い者に従って行動した。これを連逋紀という。子を生むこと一世代、通じて五姓を紀し、これを五姓紀という。天下の人々は群れ住み、同類によって親しみ合った。男女が多くなり、九頭に分かれてそれぞれ方角を定めて住んだので、居方氏と号した。没してから子を生むこと三十二世代。強弱が互いに迫り、飲み込み害そうとした。その中に神人がいて、持ち上げ支えて治めたので、提挺氏と号した。提挺氏は子を生むこと三十五紀、通じて七十二姓を紀したので、通姓氏と号した。有巣氏は太古に生じた最初の覚者であり、天地・草木・虫魚・鳥獣を知り、人々に巣穴に住まわせ、鳥獣の肉を蓄え、草木の実を集めさせたので、天下の九頭は皆帰服した。有巣は初めての君主である。動く時も止まる時も、群れ群れが集まってこれを尊び仕えた。寿命は太易一つ分で、もとは通姓氏の後裔である。燧人氏は有巣の子である。生まれながらに神霊で、人に火食を教え、木を穿って火を取り、天下の生類はこれを尊び仕えた。初めて日中の市があり、その物を交易し、教えを伝える台があり、結縄による政治があった。寿命は太易一つ分で、もとは通姓氏の後裔である。伏羲氏は燧人の子である。風によって生まれたので、姓を風という。末甲八太七成、草木が三十二回易した。草の生える月、雨の降る日、河が氾濫し、その時龍馬が図を背負って現れた。おそらく五色に分かれ、文が五易を開き、甲の象は崇山であった。天皇は初めて八卦を描いた。すべて連山であり、名を『易』とした。君・臣・民・物・陰・陽・兵・象が初めて世に明らかになった。図が出た後、さらに二成と草木の三十二易を経た。木の枯れる月、臣の飛龍氏に六書を作らせた。その後、草木が一易し、木が栄える月に、臣の潜龍氏に甲暦を作らせた。伏羲は犠牛を作り、金を治めて器物を成し、民に火食を教えた。易の九頭を九牧とし、尊び仕えることによって礼儀を定め、龍が現れたことによって官職を記録し、風が来たことによって音楽を作った。降龍氏の何に命じて万民を率いさせ、水龍氏に水土を平らげ治めさせ、火龍氏に火で器用を調えさせ、居方に基づいて城郭を置いた。天下の民は、天皇・太昊・伏羲・有庖・昇龍氏などと呼んだ。もとは通姓氏の後裔である。
天皇伏羲氏皇策辞
昔、天皇が君位にあり、将に問い、相に問い、民に問い、皇策の辞を垂れた。皇は言った。「私は生まれながら道がなく、父の居方を受け継ぎ、草木が三十二回易した後に君位へ昇った。父の燧皇は世を去ったが、いまだ河図を降ろさず、生民は結縄して、それを信じない者はなかった。末甲八太七成、草木が三十二回易し、ただ私だけが老いの極みに達した。姓を持つ人々が増え、群れ群れが虫のように集まり、互いに飲み込み害そうとした。天は至仁であり、草の生える月に天から雨を降らせ、河を流れさせた。龍馬が図を背負い、神が私の心を開いた。子がまだ生まれないうちに、私は八卦を描き、上から下まですべて安んじた。」その後、二成と草木の二十二易を経て、皇は言った。「我が子襄に命じ、私の飛龍の位に居らせ、私の図文をつかさどり、私に代わって上下四方に問い、少しも私意を交えさせない。」襄は言った。「皆、衆に問う辞にかなっています。君よ、どうか思い煩いなさいますな。」その後、草木が一易すると、皇は言った。「我が子英に命じ、私の潜龍の位に居らせ、私の陰陽甲暦をつかさどり、上下四方に問い、少しも誤らせない。」英は言った。「その法に従うのが、やはり順というものです。君よ、どうか思い煩いなさいますな。」皇は言った。「無為であれ。」その後、草木が二十二易すると、昊英氏が暦を君に進めて言った。「暦は甲寅から始まります。」皇は言った。「甲の日の寅の時に、伝教台へ人々を集め、民に告げて甲寅を始まりと示そう。」易の二月、天王は伝教台に昇り、生民を集めた。女媧の子孫以後、臣工の大小を区別せず、これを列した。右上の相は共工、下の相は皇桓である。飛龍の朱襄氏・潜龍の昊英氏が君の左右に居た。栗陸氏は北、赫胥氏は南、昆連氏は西、葛天氏は東、陰康の民は下に居た。九州の牧はそれぞれその人々を統率し、外に居た。皇は言った。「そなた、我が上相共工に告げる。私は老いの極みに達し、無為である。そなたは我が正道を助け、民に告げ知らせ、甲暦を知らせよ。日月歳時はこれより始まる。何一つ記さぬことがないようにせよ。怠ってはならない。」共工は言った。「私は君臣の位におりますが、何の功もありません。君よ、どうかお心に留めてください。」皇帝は言った。「下相の皇桓よ、私はただ老い、無為の極みにある。そなたはただ私を助けて正道を守り、下民をいつくしみ、力を合わせて民に諮り告げ、甲暦を知らしめよ。日月・歳時はこれより始め、記さぬことのないようにせよ。そなたは怠ってはならぬ。」桓は言った。「私は君臣の位におりますが、何の功もありません。君よ、どうかお心に留めてください。」皇帝は言った。「栗陸子よ、そなたは私の水龍の位にあり、草木を養い、泉源の道を開くことをつかさどる。時を失うことのないようにせよ。そなたは怠ってはならぬ。」陸は言った。「民のために力を尽くします。君よ、どうかお心に留めてください。」皇帝は言った。「大庭よ、私の屋室をつかさどり、住まいのない民に事情を説き、力を借りて共に住居を造り、寒さや凍えに遭わせてはならぬ。」庭は言った。「民の言葉に従います。」皇帝は言った。「陰康子よ、そなたは水土をつかさどり、民が住まいを得て、漂流することのないようにせよ。道を通じ、下に達することに努めよ。」康は言った。「君の言葉に従います。」皇帝は言った。「混沌よ、そなたは私の降龍の位にあり、ただ民をつかさどれ。」皇帝は言った。「昆連子よ、そなたは私の刀斧をつかさどる。野獣や犠虎の類に生命を傷つけさせてはならぬ。また、同類の大力の徒に弱い者を追い払わせてはならぬ。そなたはこれを伏せよ。」連は言った。「専ら兵事をつかさどります。君よ、ご懸念には及びません。」皇帝は言った。「四方の君主が皆、私の言葉に従えば、世に害はない。ただ民を愛すれば、位は危うくならない。」皇帝は言った。「そなたは安逸を思ってはならない。ただ民を安らかにせよ。民が安らかならそなたも安らかであり、民が危うければそなたも危うい。そなたはよく心に留めよ。」
気の墳墓—人皇神農氏—帰蔵易
爻卦の大象:
天の気は帰る——帰って位を蔵し、帰って魂を生じ、帰って動けば舟に乗り、帰って長兄となり、帰って物を育み造り、帰って止まれば域に居し、帰って殺せば降る。
地の気は蔵す——蔵して交わりに帰し、蔵して卯を生じ、蔵して動けば鼠となり、蔵して長姉となり、蔵して物を育み化し、蔵して止まれば重門となり、蔵して殺せば盗となる。
木の気は生ず——生じて帰し、生じて害を蔵し、生じて動けば陽の勲、生じて長ずれば元胎、生じて育めば沢、生じて止まれば性、生じて殺せば相克。
風の気は動く——動いて帰し、動いて軒に乗り、動いて種を受け、動いて機を生じ、動いて長ずれば風、動いて育めば源、動いて止まれば戒、動いて殺せば虐。
火の気は長ず——長じて師に従い、長じて夫に従うことを蔵し、長じて志を生じ、長じて動けば麗、長じて育めば道に背き、長じて止まれば平、長じて殺せば性に順う。
水の気は育む——育んで帰し、育んで海を蔵し、育んで愛を生じ、育んで動けば漁、育んで長ずれば苗、育んで止まれば養、育んで殺せば畜。
山気は止まる 止は約に帰す 止は淵を蔵す 止は貌を生む 止は済として動く 長じて植物となる 止は潤して育てる 止は寛宥して殺す
金気は殺す 殺は尸に帰す 殺は墓を蔵す 殺は忍びなきを生む 殺は干戈として動く 殺は戦として長ずる 殺は傷なきよう育てる 殺は乱に止まる
人皇神農氏政典
政典は言う。「ただ天が民を生み、ただ君が天に奉ずる。食、喪祭、衣服、教化は、すべて政に帰する。」皇帝は言った。「私は生まれながら徳がなく、すべて古の政に従おう。ああ、四方の君たちよ。官があり業があり、子となり父となり、兄となり弟となって、政を乱してはならぬ。」昔、二人の君主が初めて王となった時、まだ書契はなく、結縄によって治め、交易によって生を得、またただ政に帰した。昔、天皇の時代には、初めて文教を修め、八卦を描き始め、君臣・人民・万物・陰陽・兵象を明らかにし、結縄による政治に代えた。言葉を発するにはただ辞を用い、器を作るにはただ象を用い、行動にはただ変を用い、卜筮にはただ占を用いた。天皇氏は気に帰し、私はただ政を代行し、古の道に従って政を立てる。皇帝は言った。「天の時を正し、地の利に因り、ただ民に厚くせよ。民は国の本であり、食は民の天である。農が正しくなければ食は豊かにならず、民が正しくなければ業に専心できない。民には数があり、食には節があり、農には教えがある。」林々たる生人、政典を乱すこと無かれ。政典に曰く:君の正は一道にして、二三なれば凶なり。臣の正は一徳にして、常吉有り。時の正はただ四にして、乱時には植えず。気の正はただ和にして、気乱ルレバ病患を作す。官の正はただ百、民の正はただ四、色の正はただ五にして、ただ質ただ良なるべし。病の正は四百四、薬の正は三百六十五。数を過ぐれば即ち乱れ、昏となり毒となる。道の正はただ常、政を過ぐれば反って僻となる。刑の正は平、政を過ぐれば反って私となる。禄の正は満、政を過ぐれば反って侈となる。礼の正は度、政を過ぐれば反って僭となる。楽の正は和、政を過ぐれば反って流となる。治の正は簡、政を過ぐれば反って乱となる。喪の正は哀、政を過ぐれば反って游となる。干戈は正しくは乱を正すものだが、政を越せば危うくなる。市肆は正しくは貨を扱うものだが、政を越せば邪となる。諫禁は正しくは非を正すものだが、政を越せば用を失う。皇帝は言った。「ああ、官があり業があり、子となり父となり、兄となり弟となる者たちよ。皆、私の言葉に従い、すべて正しさに帰せよ。」皇帝は言った。「君が信じ任せるのはただ正、君を補佐する臣はただ忠、官同士が統べ治めるのはただ公、官が互いに位を代わるのはただ勤、民を撫で愛する官はただ仁、官民が上に仕えるのはただ業である。父に不義がなければ、その子は孝である。兄に不友がなければ、その弟は恭である。夫は遊蕩せず、妻は淫らでなく、師は怠らず、教えは失われない。刑とは形であり、そなたの身を形づくる。道とは導きであり、そなたの志を導く。」礼とは制であり、そなたの情を制する。楽とは和であり、そなたの声を和する。政とは正であり、その事を正す。
形墳 地皇軒轅氏 乾坤易
爻卦大象:
乾の形は天 天地は気を降す 日天は中道 月天は夜明 山天は曲がって上る 川天は曲がって下る 雲天は陰を成す 気天は蒙を習う
坤の形は地 天地は円丘 日地は圜宮 月地は斜曲 山地は険径 川地は広平 雲地は高林 気地は下湿
陽の形は日——天は日の昭明、地は日の景随、月は日と朔より従い、山は日と西に沈み、川は日の光を流し、雲は日を蔽い、気は日々に絡み覆う。
陰の形は月——天は月の淫、地は月の伏輝、日月は代わって明るく、山月は昇騰し、川月は東に浮かび、雲は月宮を蔵し、気は冥陰。
土の形は山——天は山岳、地は山の盤石、曰く山は危峰、月は山の斜めの頂、川は山の島、雲は山の洞、気は山の岩。
水の形は川——天は銀河、地は河、日は川の湖、月は川の曲がった池、山は川の涧、雲は川の渓、気は川の泉。
雨の形は雲 天雲は祥 地雲は黄霙 日雲は赤曇 月雲は素雯 山雲は重なる峰 川雲は流れる 1 気雲は彩を散らす
風の形は気 天気は氤を垂らす 地気は氲として騰る 日気は昼を囲む 月気は夜に円い 山気は煙を籠める 川気は光を浮かべる 雲気は章を流す[原字は上が雨、下が章]
地皇軒轅氏政典
皇帝は言った。「ああ、天師、相、五正、百官、士子、農夫、商人、工技よ、皆、私の言葉に従え。」政典に曰く、国に邪教なく、市に淫貨なく、地に荒土なく、官に濫士なく、邑に遊民なく、山は童ならず、沢は涸れず、その正道は極まった。正道が極まれば、官には常職があり、民には常業があり、父子は恩に背かず、夫婦は情に背かず、兄弟は義を去らず、禽獣は長を失わず、草木は生を失わない。政典に曰く、方・円・角・直、曲・斜・凹・凸には、必ず形がある。遠近・高下・長短・疾緩には、必ず制がある。寒暑・燥湿・風雨・逆順には、必ず時がある。金木水火、土石、羽毛には、必ず役立つところがある。布帛・桑・麻、筋・角・歯・革には、必ず用途がある。百工の器用には、必ず制がある。聖人が天下を治めるとは、権によって財を集め、財によって智を施し、智によって賢を養い、賢によって道を輔け、道によって下を統べ、上に仕えるのではなく、上は仁を施し、仁によって位を保ち、位によって義を制し、義によって··礼を用い、礼によって情を制し、情によって信を厚くし、信によって徳を一つにし、徳によって行いを明らかにし、行いによって教えを崇び、教えによって政に帰し、政によって化を崇び、化によって性に順い、性によって命を存し、命によって生を保ち、生によって寿を終えることである。皇帝は言った。「岐伯天師よ、そなたは日月星辰、陰陽、暦数を司れ。」汝は汝の父を正し、少しも誤りや恩貸しをしてはならない。時に先んずる者は殺し、時に及ばない者も殺す。汝、ただ戒めよ。皇が曰く。后土よ、中正であれ。汝は山川草木、虫魚鳥獣を識る。汝の職掌を執り、よく察し、田制を乱して田地の訴訟を起こしてはならない。汝、これを念え。皇が曰く。東方の龍よ、正しくあれ。汝は爵禄を賢者と智者に分け与えよ。汝は諮り、汝の行いを正せ。財を貪るために大賢を覆い隠してはならず、私的な報いのために悪徳の者をかばってはならない。皇が曰く。南方の融よ、正しくあれ。汝は礼服と祭祀を平らかに整えよ。汝はただ正しくあれ。上位者を越えるために国家の制度を乱してはならず、恭敬を簡略にするために祭祀の務めを廃してはならない。汝、これを念え。 皇帝は言った。「太封、西正よ、そなたは干戈・刑法を分かち、そなたが掌握し、そなたが公平にせよ。」皇帝は言った。「太常、北正よ、そなたは田制と民事をつかさどり、そなたは教え、そなたは均しくせよ。百工はただ良く、山川はそなたが図せよ。そなたは勤め、恭しくあれ。」皇帝は言った。「天師、輔相、五正、百官、士子、農夫、商人、工技よ、皆、私の言葉に従い、生涯を安楽に過ごせ。」
『古三墳』終後序
(唐末の隠士)
『伝』は言う。『河図』は周の初めに隠れ、『三墳』は幽・厲の治世に亡び、『洛書』は秦の滅亡時に火に遭った。治世の道は、もはや見ることができない。私は天復年間、青城の西に隠棲していた。風雨によって石が裂け、その中に石の匣があった。古文三篇を得た。皮は断ち、簡は脱落していたが、すべて篆字であり、上古三皇の書であった。
『漢魏叢書』本